さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.33 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和50年(1975)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 33
  • 2020.12.24

「第一次讃岐うどんブーム」は、おそらくこの頃だ

 大阪万博から5年経ち、昭和50年代に入りました。その間、日本経済は昭和48年の変動相場制への移行と第一次オイルショックで高度成長時代が終わり、「安定成長時代」とも「低成長時代」とも言われるような経済情勢がしばらく続いていました。

 そんな中、香川のうどん業界は新聞紙上を賑わすような大きな出来事はありませんでしたが、四国新聞に掲載されたうどん店(会社)の広告が過去最高だった前年を上回る勢いで増加。また、県が初めて「讃岐うどん」を主役にした観光ポスターを制作し、佐々木正夫先生は随筆で「讃岐うどんが香川の代表にぐんぐんのし上がってきた」と記述するなど、讃岐うどん界はこの数年、明らかに「かつてない活況ぶり」を見せています。

 ちなみに、識者の間で「大阪万博の昭和45年頃に第一次讃岐うどんブームがあった」という説がありますが、新聞記事からはその痕跡が見当たらないことはすでに指摘した通りです(「昭和45年」「昭和46年」あたり参照)。それより、県内にうどん店とその広告出稿が増え、県も讃岐うどんを香川の観光素材として売り出し始めた昭和50年前後のこのあたりの盛り上がりぶりの方が「第一次讃岐うどんブーム」と呼ぶのにふさわしいかもしれません(ただし「県外からうどん目当ての観光客が押し寄せ始めた」というブームではないようです)。

 では、そうした状況を踏まえて、昭和50年のうどん関連記事を見ていきましょう。
 

山陽新幹線岡山~博多間開通を受け、県観光協会が「讃岐うどん」を掲げて北九州に観光PR隊を派遣

 久しぶりに、四国新聞に「県の観光PR」の話題が何本も載っていました。その内容は、「宣伝隊を繰り出しました」「観光ポスターを作りました」「観光映画を作りました」「観光物産の展示会をやりました」という、概ねこれまでと同じような路線のPR戦略ですが、まずは3月に山陽新幹線の岡山~博多間が開通したことを受け、県の観光協会が「讃岐うどん」を“観光客誘致の切り札”として北九州方面へ観光PRのキャラバン隊を派遣することになりました。

(3月2日)

「うどん」で旅誘う 北九州へ観光宣伝隊(県観光協会)

 「手打ちうどんを食べに讃岐路へいらっしゃい」。県観光協会(中川以良会長)が山陽新幹線岡山―博多間の開業による九州―四国間の時間的な接近に伴い、3日から北九州方面へ「さぬきうどん」を手土産に観光宣伝隊を派遣する。静かなブームの「さぬきうどん」を観光客誘致の“切り札”として起用しようというわけ。さて、博多っ子らがうどんの味に誘われて讃岐路へ旅立つかどうか。

 計画によると、宣伝隊は県観光協会専務理事の合田県観光課長を団長とする総勢24人。まず3日、福岡県立児童施設を慰問のあと、4日から福岡市内の水鏡天満宮と筑紫郡太宰府町の太宰府天満宮の2カ所で観光宣伝を繰り広げる。両天満宮では、毎年7月2日の半夏(はんげ)に金刀比羅宮で行われている献麺の儀式を「こんぴらうどんの会」の位野木峯夫さん(54)ら会員7人の協力で披露するとともに、さぬきうどんの手打ち実演会を開き、各1000食のうどんを振る舞う。

 協会事務局の県観光課では「博多まで新幹線が延び、高松~福岡間の所要時間は現行のほぼ10時間から4時間足らずへ。このところ讃岐路への観光客の足はとかく停滞気味。そこで、人気の出ているさぬきうどんでテコ入れを図ろうという次第」と今回の観光キャラバンに期待を寄せている。

 山陽新幹線の新大阪~岡山間が開通したのは、この年から3年前の昭和47年3月。しかし、同年4月に大阪心斎橋で開催された「第2回四国の観光と物産展」の紹介記事では「香川県関係では素焼きの手鍋やたこつぼ、しぶうちわなどが加わり、産地直送のさぬきうどん、てんぷら、かまぼこなど“讃岐の味”も飛ぶような売れ行きを見せていた」という記述があっただけで(「昭和47年」参照)、その時は特に「讃岐うどん」のPRが強化された様子はありませんでした。従って、県が観光PRに積極的に「讃岐うどん」を推し始めたのは、この年が初めてだと思われます。

 キャラバン隊は福岡の水鏡天満宮と太宰府の太宰府天満宮で「献麺式」と「手打ち実演会」を行うとのこと。献麺式は近年、「本場さぬきうどん協同組合」が総本山善通寺で行っているもの(ちいさな子供の頭に丼鉢を載せて歩かせているあれ・笑)ばかりが報道されているようですが、歴史があるのはどうも仏式(?)の善通寺ではなく、神式の金刀比羅宮のようです。

 ちなみに、讃岐うどんの全国PRに貢献した政治家といえば一番に金子正則知事の名前が挙がりますが、金子知事は前年の昭和49年9月に知事を勇退していますので、これは次の前川忠夫知事の時代のことです。

県が「讃岐うどん」を主役に観光ポスターを制作する

 続いて、これもおそらく初めて、県の観光ポスターの主役に「讃岐うどん」が起用されることになりました。

(5月15日)

青い国・四国 ポスター作りPR さぬきうどん題材に

 静かなブームの「さぬきうどん」で青い国・四国のイメージを高めようと、県観光協会(中川以良会長)が県や関係市町とともに、うどんをテーマとする観光ポスターの制作にチエをしぼっている。国鉄に協力を求めて全国の主要駅に掲げ、「さぬきうどんを食べに四国路、讃岐路へいらっしゃい」と呼びかけようというもの。構想では、観光ポスターはうどんを題材とし、5種類のシリーズものとする。1種類について1000部制作し、全国の主な国鉄駅に一連の「青い国・四国シリーズ」として掲げてもらう。ポスターの内容は、高松であれば屋島をバックにした国鉄連絡船上のうどんのスタンド風景、善通寺ならお遍路さんとうどん、琴平では金刀比羅宮の献麺(めん)式などが考えられている。

 「さぬきうどん」による観光宣伝は、これまでにも同協会が「こんぴらうどんの会」などの協力で博多遠征を行い、実演、試食サービスを繰り広げたところ、たいへんな盛況をみせ、関係者いずれもすっかり気をよくしている。また県内各地で野火のように広がった「うどんの店」も観光客らで大もて。同協会はこうした実績とブームに“味をしめ”、うどんと旅を結びつけようと今回の異色ポスター制作を考えた。讃岐路の観光客は、ぬけきらない不況ムードと歩調を合わせるように、山陽新幹線岡山開業当時の47年度をピークに低迷気味。そこで、観光関係者はなんとかこの低迷ムードを打破しようと模索を続けているわけ。さて、全国のレジャー客が「さぬきうどん」の味に誘われて青い国・四国へ、讃岐路へ旅立つかどうか。

 景気が低迷気味の中、「讃岐うどん」の“静かなブーム”に乗っかって、先のキャラバン隊に続いて観光ポスターにも讃岐うどんを起用しようということになったようです。景気が悪くなるとレジャーが「安・近・短」にシフトするのは世の常で、それが讃岐うどんに追い風になったとも考えられます。ちなみに、ここでも当然のように「献麺式」は金刀比羅宮です。

 そして、「うどんポスター」の続報が続きます。

(5月31日)

「讃岐はうどんから」 県観光協会、ポスター作りPRへ

 「うどんで讃岐路への旅立ちを」。県観光協会(中川以良会長)は30日開いた50年度総会で、新しい観光資源として「讃岐うどん」を見直すことにした。このところ全国各都市で開店が相次ぐ「讃岐うどんの店」に協力を求め、近く制作のうどんをテーマにした観光ポスターを店内に掲げてもらうなどで、観光香川のPRにつとめたいという。ここ1、2年、「讃岐うどんの店」は県下ばかりでなく、東京、大阪をはじめ、全国の主な都市で広がるばかり。県外の店の数は明らかではないが、100店とも200店とも。同協会はこうしたうどんブームに目をつけ、観光香川を代表するイメージの一つとして取り上げようというわけ。

 同協会はすでに関係市町などとともに「讃岐うどん」を題材とする5種類の観光ポスター制作の検討に入っている。内容は、善通寺のお遍路さんとうどん、金刀比羅宮の献麺(けんめん)式、国鉄宇高連絡船または高松駅のうどんのスタンド風景などがリストアップされている。そこで、この観光ポスターを「青い国・四国シリーズ」として全国の国鉄主要駅に掲示するとともに、全国各地の「讃岐うどんの店」にも協力を要請、店内に掲げて観光香川の前進拠点になってもらおうとソロバンをはじいた。ポスターの制作、提供は秋の観光シーズンを目標にしたいという。

 「讃岐うどん」を扱った観光宣伝は、同協会がこの春に「こんぴらうどんの会」などの協力で山陽新幹線の開通に伴う博多遠征を行い、実演と試食サービスを繰り広げたところ、たいへんな盛況をみせるという“実績”がある。さて今回の「讃岐うどん作戦」が低調をきわめる讃岐路への観光客のテコ入れとなるかどうか。

 県観光協会は、新しい観光資源として「讃岐うどんを見直すことにした」そうです。ということは、それまでは「讃岐うどんを観光資源として見ていなかった」ということになりますが(笑)。あと、「県外の店の数は明らかではないが、100店とも200店とも」というアバウトな数字が挙げられていますが、たぶん調査も取材もしてない数字だと思われるので、軽く流しておきましょう(笑)。

 そして、ポスターは11月に完成しました。

(11月7日)

「讃岐はうどん」 県観光協会、ポスターシリーズ作成

 県観光協会(中川以良会長)は、このほど観光イメージポスター「さぬきうどん」シリーズを作成した。今や讃岐観光の代表格となった「さぬきうどん」で観光客を流し込もうというものだ。県観光協会では「さぬきうどん」をテーマにした「さぬきうどんキャンペーン」を展開中。東京、博多で行った実演販売はなかなかの好評だった。そこで、これを前面に押し出してうどんと観光地を結びつけ、観光客を誘致しようという狙い。かつての観光宣伝は屋島、琴平、栗林公園といった観光地が主役だったが、うどんがこれに代わって主役につき、それにすがろうというわけ。

 観光イメージポスター「さぬきうどん」シリーズは、県観光協会が高松市、善通寺市、琴平町と共同で制作した4枚1組。うどんを食べる人を前面に大きく浮き上がらせ、背景に栗林公園、屋島、琴平、善通寺を配している。「うどんの持つ温かさと人情味あふれる土地柄を表現した」という。県観光協会では、とりあえず1000組(4000枚)を全国の国鉄主要駅構内に張り出すことにしている。

 香川を訪れる観光客はジリ貧状態。新幹線の岡山乗り入れが実現した47年には1083万8000人を記録した。ところが48年は1069万3000人と次第に下降線をたどっている。不況が浸透した今年は46年の998万8000人程度に落ち込むのではないか、といわれる。「さぬきうどん」の味で勝負というところだが、さて思惑どおり観光客を誘致できるかどうか。

S50年・香川県観光ポスター
かな山うどんさんが保存されていた当時のポスター。左から屋島・栗林公園・琴平だと思われます。

 「5種類のシリーズもの」という報道が続いていたのに、「4枚1組」で完成したようです(笑)。あと、記事中に「香川を訪れる観光客の数」が載っていました。並べてみると、

(昭和46年)998万8000人
(昭和47年)1083万8000人
(昭和48年)1069万3000人

とのことですが、今、県のホームページ内にある「県外観光客入込数の推移」の一番古いデータには、

(昭和62年)490万4000人

とあり、両方の数字を信用するなら、「香川県への観光客入込数は、昭和48年から62年までの間に半分以下に落ち込んだ」というにわかに信じがたい話になります(残念ながら昭和48年から62年までのデータが見つかりません)。まあ、そもそも「観光客入込数」というもの自体、あまり厳密な数字ではないので、そこは深入りしないでおきましょう(笑)。

 実際、かつての「観光客入込数」は都道府県ごとに計算基準がバラバラで、とても比較できるようなシロモノではありませんでした。そこで、平成21年に観光庁が「観光入込客統計に関する共通基準」を策定することになり、ようやく都道府県のデータ比較ができるようになったわけですが、それでも、その「入込数」は推計に過ぎません。例えば、交通機関ごとに調べても、その入込数が観光客なのかビジネス客なのか通勤通学者なのか帰省客なのかをきちんと分けてカウントすることは不可能ですし、一般道路からの入込数はそもそもカウントすらできない。従って、都道府県ごとの観光客入込数の数字自体は、何かの参考程度だと思った方がいいでしょう。ただし、計算方法が統一されたことによって、入込数の「比較」と「推移」はある程度できるようになったと言えます。いずれにしろ、「香川県への観光客入込数が本当に昭和48年から62年までの間に半分以下に落ち込んだのか?」という疑問は残りますので、とりあえず、新聞に続報が出てくることを期待しましょうか。

高松市が観光映画と写真展でPR活動

 続いてこの年、高松市の観光PR活動が2つ紹介されていました。まずは、「観光映画」の製作から。

(4月21日)

名所旧跡を“見直し”  観光映画「四国たかまつ」できる

 “青い国・四国”の玄関、高松を全国の多くの人たちに知ってもらおうと高松市が製作を進めていた観光映画「四国たかまつ」が、このほど完成した。この映画は16ミリイーストマンカラー30分もので、高松港、玉藻公園、屋島と源平古戦場、栗林公園、鬼が島など観光都市・高松の見どころをすべて収めてあり、このほか小豆島、琴平、高松まつり、名物のさぬきうどんや鬼無町の盆栽づくりなども紹介されている。

 同市の観光映画づくりは44年に続いて5年ぶりだが、今回製作のねらいは若者の明るさをバックに史跡の見直し、瀬戸内海を大切にといった自然の美しさや保護が強調されている。製作費は約450万円。フィルムは市商工観光課、県物産東京斡旋部、県大阪事務所で貸し出しするが、高松市ユースホステルで随時上映される。

 
 「イーストマンカラー」というのは「イーストマン・コダック社が作った映画用の一本巻きネガカラーフィルム」のことだそうです。そして、続いて高松市は東京に進出し、観光写真展を開催しました。

(6月20日)

讃岐路へいらっしゃい 高松市と同観光協会 東京で写真展開く
香川の姿売り込む 特産品にも多い引き合い

 「旅は讃岐路・高松へ」をねらい、高松市・高松観光協会主催の「高松と讃岐路の観光写真展」がこのほど東京・八重洲の地下街「花の広場」で開かれ、期間中5日間に2万人の足をとめてにぎわった。この広場を基地に首都圏へ総合観光誘致キャラバン隊も繰り出し、”観光高松”を盛り上げた。

 同市が初めて使った会場は、1日10万人の通行者といわれる東京駅地下商店街の中のオアシス。6枚のコルトンと60枚のパネル写真を並べ立て、屋島、栗林公園、金刀比羅宮、郷土がん具の奉公さんなど鮮やかなカラーで香川の顔と姿を描き出した。開幕に先がけ、首都圏向けに高松の観光映画をテレビ放映したこともあって、20万部用意した観光パンフレット類もほとんどなくなり、1日600人に限った抽選付きアンケート調査もわずか1時間足らずでこなすなど、手ごたえは十分。窓口には「青い空、明るい国に魅力を感じて…」と若い女性の問い合わせも相次ぎ、特に小豆島に高い関心が寄せられた。また、きんま、保多織浴衣、瓦せんべい、讃岐うどんなど特産品の展示にも引き合いが多かった。

 昨年度の高松への観光客は260万人で、前年に比べて20%のダウン。昨年は全国規模の大会で約2万人を集めたこともあって、同市では「全国大会は高松で」を合言葉に観光客の誘致に躍起。毎年11月に東京で開いている四国全体の観光と物産展だけではだめだと、独自で今回の試みとなった。PRを多角的にしようと、写真展、物産展、テレビ放映に合わせてキャラバン隊を編成、兵頭同市助役を先頭に地下鉄、バスを利用して都内、立川、千葉、前橋など訪問地も100カ所を超え、観光客の他県流出のひき止めを訴えた。「食べものにもっと特色を出してほしい」「新幹線で行きやすくなったが、岡山での乗り換えがつらい」「紫雲丸事故はもう起きないか」など声もさまざまだった。同市では、これらの反響とアンケートの集計を通じてこれからの対策を打ち出すことにしている。

 「四国全体の観光と物産展だけではだめだ」ということで、「観光写真展」の開催に合わせ、市の助役を先頭にキャラバン隊が首都圏で100ヵ所以上も回って宣伝に努めたそうです。ちなみに、記事中に「昨年度の高松市への観光客は260万人で…」とあるように、当時は高松市単位の観光客数が発表されていたようですが、こういう数字を見る時の鉄則である「どうやって数えたのか?」を考えると、まあ“そういう類の数字”だと思っておいた方がいいでしょう(事実、今はさすがに数のカウントが曖昧すぎることに気付いたのか、「高松市の観光客入込数」は公式発表されていません)。

県主催の物産展は、あまり変わり映えしないラインナップ

 続いて、東京で開催されている恒例の県の物産展のニュース。

(11月24日)

うどん、ダンゴ馬に人気 東京で讃岐観光物産展

 讃岐の観光と物産を紹介する「青い国四国路をいく物産と観光展」が東京・上野の松坂屋で開かれている。香川県コーナーでは讃岐うどんやダンゴ馬の実演販売も行われ、訪れた家族連れや若い人たちに珍しさも手伝ってなかなかの人気。特に23、24日の連休は善通寺の五岳太鼓も特別出演。四国路のPRに彩りを添えた。

 同展は、香川コーナーを主体に四国4県がタイアップ。地下食料品売り場の一角にコーナー別の模擬店を設けている。連休初日の23日は、午後から会場入り口で善通寺市職員ら5人がカラス天狗の面にハンテン、わらじ履きの揃いのスタイルで五岳太鼓を披露。五穀豊穣と悪魔払いを込めた巧みなバチさばきは、詰めかけた買い物客を魅了、盛んな拍手を浴びていた。この日は4回、24日の振り替え休日は3回出演する。

 県コーナーでは、甘酒まんじゅう(善通寺市)、手延べそうめん、神懸焼き(以上小豆島)、讃岐うどん、番傘、ムカデダコ(以上高松)、ミニちょうさ(観音寺)などの民芸品や特産品を展示、販売。中でも、讃岐うどんは1食分(80~100円)を真空パックに詰め販売。1日約1500袋を越す売れゆき。また、ダンゴ馬作りは善通寺市南町、もち屋宮武利道さん(47)がもちつきから飾り付けまで手順よく披露。琴平町、彫刻師請川辰夫さん(48)も肥松を使って大黒や恵比寿さんの一刀彫を実演している。

 見出しに「讃岐観光物産展」とあり、本文の最初にも「讃岐の観光と物産を紹介する」とあるので香川県単独の物産展かと思ったら、催し名は「青い国四国路をいく物産と観光展」です。「香川コーナーを主体に四国4県がタイアップ」とあるので、この物産展は香川がかなり牛耳っているみたいです。とりあえずここに載っている香川の物産を見ると、昭和30年代以降ほとんど変わり映えがしないラインナップで、香川の“物産改革”はほとんど進んでないようです。そんな中で、讃岐うどんは「1食分を真空パックに詰めて販売」とありますが、これはゆで麺でしょうか、あるいは半生麺でしょうか。もし「半生麺」だとすると、半生麺はいつ頃普及し始めたのでしょうか。

 半生麺の発祥については、「さぬき麺業」が自社のホームページ内に「昭和45年に半生うどんの製法開発に成功し『半生お土産うどん』を日本で初めて販売した」と書いています。そして、この年の「さぬき麺業」の新聞広告には、確かに半生うどんのような麺が入った商品が載っていました。

S50年広告・さぬき麺業

 また、「かな泉」もこの年、「お土産うどんの地方発送」の広告を載せていました。

S50年広告・かな泉

 「かな泉」のおみやげうどんも乾麺だとは思えませんから、半生うどんの可能性が高いと思われます。ちなみに、「さぬき麺業」がうどんの地方発送の広告を載せたのはこの昭和50年が初めてで、同社が「半生うどんの製法開発に成功し『半生お土産うどん』を日本で初めて販売した」という昭和45年には「さぬき麺業」の新聞広告はなく、「半生うどんが誕生」という新聞記事も見当たりませんでした。また、翌昭和46年に載っていた同社の協賛広告には「さぬき手打ちうどん・トマト印スパゲッティ」とあり、そこにも「半生うどん」や「お土産うどん」の表記はありませんでした(「昭和46年」参照)。従って、新聞で見る限り、さぬき麺業が「半生お土産うどん」を大々的に打ち出し始めたのは昭和50年ではないかと思われますが、いずれにしろ、昭和50年には半生うどんの製造がそれなりに定着し始めていたのかもしれません。

「さぬき麺業」初代の紹介記事

 
 ではここから、当時の讃岐うどんのシーンが窺える記事をいくつか見ていきましょう。まず、「さぬき麺業」の創業者である香川菊治さん(当時81歳)の紹介記事がありました。

(1月1日)

手打ちうどん48年 香川菊治さん(81)(高松市川部町)
師匠は自分の舌 ”勘”を頼りに半世紀

 香川さんが手打ちを始めたのは大正15年、33歳の時だった。それまでは近くのしょうゆ製造会社に働きに出ていたが、妻のヒサさんとともに独立を決意。現在地で食堂経営を始めた。慣れない商売だったが、兄の香川関治さん(85)=綾南町陶在住=に手打ちうどんの手ほどきを受けていた香川さんは、毎日のようにうどんを作り続けた。

 塩加減も、湯加減もすべて自分の”勘”に頼ったが、「うまいうどんだ」という評判はあっという間に広がり、連日のように大にぎわい。「休む間もなく1日に10貫目のうどんを打ったこともある」と当時を振り返る香川さん。今のような製造機械もなく、すべて手足を使っての作業だけに、その仕事量も大変なものだった。

 昭和10年ごろ、うどん1杯は2銭、玉売りだと1銭だった。1貫目(3.75キロ)の小麦粉から約40玉のうどんを作ったが、塩加減は年中違っていた。「きっちりとやったのでは、うどんのうまさが消えてしまう。季節が変わるのと同様に、うどんも四季ごとに味が違うのが当然」と自説を説く香川さん。「おいしいうどん作りのため、人知れぬ苦労を重ねた」ともつけ加えた。

 戦中、戦後の一時期、食糧事情の悪化のため香川さんのうどん作りも中断した。だが、28年には香川さんの強い希望で店を再開。長年連れ添ったヒサさんは他界していたが、長男政義さん(53)との”二人三脚”だった。30年代に入ると、「うまいうどん作りのコツを指導して」と手ほどきをこう人が各地から訪れた。手を取って香川さんは指導を続けた。だが、「私の納得するようなうどんはできなかった」―。

 香川さんは、うまいうどん作りの信念に燃えたと言っても過言ではないだろう。すべて自分の舌で、膚でうどんを味わった。「教えてくれと言われても、手打ちのうまさは言葉で言い表せない」と語る香川さん。製造過程が機械化されても、小麦粉の練り具合、塩加減には気を配った。「昔なじみのお客さんに、まずいものを食べてもらっては気の毒。店の恥にもなる」と昔気質の一面をのぞかせた。

 「今のうどんには、昔のようなうまさがありません。大量生産のためかもしれませんが、それ以上に外国の小麦粉を使っているからでしょう」と“現代うどん論” をひと言。だが、「粉が悪いからといって甘えてはいけない。悪いなりに研究するのが私たちの勤め」と語った。

 すでに80歳を過ぎた香川さんだが、まだまだ元気。店の方は政義さんの妻・艶子さんが中心になってやっているが、1日に1、2時間は香川さんも“めん棒” を手にする。「奥の方でじっとしていられません。うどんとともに歩んだ50年ですから」と元気な笑顔で語る香川さん。「バカみたいにうどんひと筋でやってきたが、みなさんから“手打ちの名人” と言われるのがうれしい。本望です」と素直に喜びを表現した。

 「さぬき麺業の歴史」は、大正15年に香川菊治さんが妻のヒサさんと一緒に高松市川部町で食堂経営を開始したのが発祥とのこと。菊治さんは兄の関治さんにうどん作りを教わり、店でうどんを出し始めたところ大繁盛して「1日に10貫目のうどんを打つこともあった」そうです。「1貫目の小麦粉から約40玉のうどんを作った」とあるので、この「10貫目」が小麦粉の重さなら「1日に約400玉のうどんを打った」という計算。もし「できあがったうどんの重さで10貫目」だとすると、玉数はそれよりかなり少なくなります。そして、戦時中に中断していた店を、昭和28年に菊治さんと長男の政義さんの2人で再開したとのこと。

 うどん作りに関して、香川さんは「今(昭和50年頃)のうどんは昔のようなうまさがない。その最大の原因は、外国産の小麦を使っているからだろう」とおっしゃっています。ただ、昭和42年の記事には「(外国産小麦に比べて)地元の小麦粉は色の白さの点で敬遠されがち」とあり、「県民の多くが外国産小麦で作ったうどんの方を支持していた」との傍証も。このあたり、「職人のこだわり」と「客のニーズ」がちょっとズレる…という“マーケティングあるある”がちょっと入っているかもしれません。まあ、年長者から「昔はよかった」という話が出るのは、いつの時代も、どんな世界でも同じです(笑)。

うどん情報満載、佐々木先生の随筆

 続いて同じ1月に、佐々木正夫先生の讃岐うどん愛に満ちあふれた随筆が掲載されていました。少し長いですが、当時の讃岐うどん事情がてんこ盛りですので、いつものように小分けにしてじっくり味わってみましょう。

(1月13日)

コラム「月曜随想」/手打ちうどんの会提唱(佐々木正夫)

 讃岐といえば、屋島、栗林公園、金刀比羅宮というところが代表選手だったが、ここ数年、おらが国さの手打ちうどんがグングン進出して、讃岐のチャンピオンになってしまった。ふるさとの味が、ここまでクローズアップされたことはありがたいし、子どものころから手打ちうどんで育ったわたしは、ふるさとの伝統再見を誰よりもよろこんでいる。

 「ここ数年、讃岐うどんが香川の代表にぐんぐんのし上がってきた」とおっしゃっています。やはり、昭和50年の讃岐うどん界は明らかに活況を見せていたと断定してよさそうです。

 たしかに、コシコシした讃岐の手打ちうどんは文句なしにうまい。出張などで四国を離れていると、ノドがからからになってしまうほど手打ちうどんが恋しくなる。宇野から連絡船に乗りかえると、いちばん先にデッキにかけあがって手打ちうどんを食べるし、高松に上陸したら行きつけのうどん屋さんへ車を飛ばす。

 やはり、讃岐の手打ちうどんは「コシコシ」です。「シコシコ」ではありあせん。一体誰がいつから「ツルツル、シコシコ」などと言い始めたのか? 疑問の答えはまだ出てきません。

 あと、前年の「かな泉」の広告に寄せたエッセイの中で「連絡船が高松に着くと、いちばん先に上陸してタクシーを好きなうどん屋さんに走らせる」と書かれていたことから「佐々木先生は連絡船のうどんを食べていなかったのか?」という疑惑(笑)が浮上していましたが(「昭和49年」参照)、そんなことはなかったようで安心しました。というか、連絡船でうどんを食べてすぐにタクシーでうどん屋に行くという強者だったとは(笑)。

不誠実な讃岐うどん店の続出に苦言

 四国を離れていても、うどんを食べないわけでもない。名古屋では名物のキシメン店にはいるが、平べったいうどんが舌にもつれてしまう。金沢では、犀川(さいかわ)のほとりの青のれん店でキナコうどんの珍味に出くわしたこともある。湯ぬきのうどんにキナコをふりかけ、醤油(しょうゆ)でかきまぜて食べる趣向だが、うどんにかけては目のないわたしでも一杯食べるのがやっとのこと。北海道の北端にある北見という小さな町では、かけうどんを食べたがダシが塩っぽい。先月、新幹線の試乗で博多へ出張したが、やっぱり讃岐の手打ちうどんにはかなわない。

 続けて、相変わらずの歯に衣着せぬ“佐々木節”で他県のうどんにダメ出しをしていましたが(「ネット炎上」のない時代でよかった・笑)、この後、「愛する讃岐うどん」にも厳しいご意見を述べられていました。

 ところで、讃岐の手打ちうどんも、江戸時代のこんぴら参詣絵図にみられるように、歴史と伝統は古い。しかし、十年前のうどんに比べて、推賞できないうどん屋さんがやたらにある。高松市内には製麺(めん)業者が六百五十軒、県内にはうどん屋さんが三千六百軒もあるそうだが、うどんブームにつられて登場した店が約半数もあると聞いている。うどん粉をこね、菜切包丁できり、沸騰している鍋に約十三分、それでうどん玉ができあがりという製法は同じだが、一カ月や二ヶ月の習練ではホンモノのうどんができるわけではない。

 高松市内の一流店でも“釜あげうどん”の値段をとっているのに“湯だめうどん”を出しているところもあると聞く。客がどっと押しかけると、満足にぬくめもしないで、“シャッシャッ”と湯の中で泳がすようではどうしようもない。ホンモノの讃岐の手打ちうどんは、製法も土三寒六(どさんかんろく)、アツアツであること、薄口のダシはたっぷり、というのが、お家芸なのである。

 「ブームにつられて大した習練もしていないうどん店が増えている」「“釜あげうどん”の値段を取って“湯だめうどん”を出している一流店がある」という事態に対して、苦言を呈されています。天下の四国新聞紙上でこんな指摘ができるのは、おそらく佐々木先生だけです。しかしその後、昭和63年の瀬戸大橋開通時後や讃岐うどん巡りブームのピーク時にも、残念ながら同じような現象が見られました。せっかくの勇気ある貴重な意見も、“出来の悪い商売人”には響かなかったということです。

 あと、「県内にはうどん屋さんが三千六百軒もあるそうだが…」とサラッと書かれていますが、香川のうどん店の数についての言い回しがだんだん変わってきました。ここまでの言い方を再掲すると、

<昭和47年>「香川県内にはうどんを食べさせる店が二千軒もあるといわれる」(佐々木正夫)
<昭和47年>「香川県下にはうどんが食べられる店が二千二百軒ほどある」(山田竹系)
<昭和49年>「県内に二千軒以上もあるといわれるうどん屋さん」(佐々木正夫)
<昭和50年>「県内にはうどん屋さんが三千六百軒もあるそうだが」(佐々木正夫)

という流れ。だんだん増えてきました(笑)。というか、「県内にうどん屋が3600軒もある」の後に続く「うどんブームにつられて登場した店が約半数もあると聞いている」という記述を真に受けるなら、昭和49年~50年あたりで香川県内にうどん店が1800軒ぐらい増えたという話になりますが、それが本当なら、その増え方はもう「事件」でしょう(笑)。とりあえず、香川のうどん店の数については今後の記事に注目です。

 佐々木先生の随筆の紹介を続けましょう。

この頃の讃岐うどん用小麦のほとんどはカナダ産小麦?!

 讃岐の手打ちうどんのうまい理由の第一は、なんといっても、気候温暖な瀬戸内海沿岸で穫れた小麦粉の原料にある。西讃のある百円うどんの店では、うどん粉を晒(さらさ)ないで、自分の店で使う量だけ、毎日、水車で搗く。小麦色したうどんを、そのまま客人に出す。「前川知事さんが二杯も食べてくれました」と主人はよろこんでいたが、多量販売はできなくっとも、ホンモノという根性は立派なものだと思う。

 その点、いまの讃岐のうどん屋さんの粉はほとんどがカナダの輸入もの。あとは製法の技術で、かろうじて、讃岐の手打ちうどんを作っているのが現状なのである。香川県の農協との契約栽培にしても、わずか年間千二百トンではホンモノはできっこない。いつかわたしは、農協中央会の宮脇朝男会長とテレビで「うどん対談」をしたことがあるが、宮脇さんの意見も同じであった。

 続いて「いまの讃岐のうどん屋さんの粉はほとんどがカナダの輸入もの」という記述が出てきました。香川県産小麦は昭和45年の大凶作で壊滅状態になり、以降、讃岐うどん用の小麦は圧倒的に外国産小麦に頼ることになったわけですが、この「ほとんどがカナダ産」という話が事実なら、今日の讃岐うどん用小麦の圧倒的主流である「オーストラリア産ASW」は、昭和50年の時点ではまだほとんど入ってきていないことになります。果たして、讃岐うどんの歴史を語る上で避けて通るわけにはいかない「ASW」が讃岐うどん用小麦の主流になり始めたのはいつなのか? 今後の新聞に出てくることを期待しましょう。

そして、“本物の讃岐うどん”の普及を目指し「讃岐の手打ちうどんを食べる会」の結成を提案

 そして最後に、佐々木先生は提言で締めくくられました。

 新春早々、おこがましいことかもしれないが、わたしは讃岐の手打ちうどんの伝統を守るために提案する。第一には、県の製麺組合と農協とが、さらに話し合いを深めて、小麦を多量に契約栽培する。東讃でも、西讃でも、近年、小麦はおろか、麦を作っている風景が少なくなったし、せまい讃岐の土地が一毛作で遊んでいる。

 行政機関でも、業者組合でも、ホンモノづくりの指導に全力をあげる。それとタイアップして、わたしたち、うどんを愛する連中で“讃岐の手打ちうどんを食べる会”というものを結成して、ホンモノ運動を起したい、と思っている。メンバーは数十人でいい。月一回くらい、県内各地のうどんを食べ歩く。ホンモノのうどん屋さんには“推賞店”とか“合格証”の看板をかかげてもらう。せっかく讃岐へ足を運んでいただいた観光客にも、どの店で食べたらよいかをPRする。

 ひどく、いきり立った提唱をしてしまったようだが、率直に言って、讃岐の手打ちうどんはいまがピークだと思っている。ピーク、大繁盛は大いに結構だが、このままでは、いつかソッポを向かれる讃岐の味なのである。べつに、商売妨害をしようというのではない。「うどん屋を開店したらもうかる」というブーム便乗の一夜づけのうどんでは、せっかくのふるさとの味が消え失せてしまうといいたいのである。県民の手で、うどんの愛好者で、推賞店の看板をかかげていく。なんと気色のいいことではないか。
(作家・四国作家主宰)

●讃岐うどん用に、香川県産小麦を多量に契約栽培する。
●県や組合が、本物の讃岐うどん作りの指導体制を強化する。
●うどんを愛する勇姿で「讃岐の手打ちうどんを食べる会」を結成し、県内のうどん店を食べ歩いて、「ホンモノの店」に認定証を掲げ、県外観光客にも推奨店をPRする。

というのが佐々木先生の提言です。「ひどくいきり立った提唱をしてしまった」とおっしゃっていますが、これまた天下の四国新聞紙上でこんな提言を放てるのは、まさに讃岐うどん愛に溢れるオピニオンリーダーの面目躍如です。

讃岐うどんの起源に、またまた「奈良時代説」と「平安時代(空海)説」が混在(笑)

 続いてもう一本、新聞のマイクロフィルムの文字が潰れて筆者名が読み取れなかったのですが、「あらかわ」某氏の讃岐うどんのコラムが掲載されていました。

(4月14日)

コラム/ふるさとの伝統 
”讃岐の味”全国に進出 手打ちうどん

 さき頃、新幹線の博多開業に際して「さぬきうどん」のPR隊が堂々の九州入りをした。手打ちうどんの実演デモンストレーションに人気が集まり大成功であったほか、讃岐にも縁が深い太宰府天満宮に「さぬきうどん」を奉納して帰ったと聞いた。心なごむ話である。

 「さぬきのうどんは、お大師さんが唐から製法を持って帰ったと言われてますナ。讃岐米に負けない質のよい小麦を材料にして、”土三寒六”という夏・冬の塩加減、水加減のコツでこねて、コシのできるまで足で踏み、めん棒でのして釜(かま)ゆでにします。昔から伝えられてきたやり方を大切にする職人気質や、関係者の工夫、努力と、うどんを食べないと日が送れないというさぬき人のうどん好きが、今日の名物”さぬきうどん”にしたのですナァ」

 こんな「さぬきうどん」の口上を聞かせてくれたのは、屋島山上にある”さぬきうどん立ち食いコーナー”の馬場安市さん(72)である。元気に立ち働きながらのうどん談義に、観光バスの運転手さんたちも仲間入りして、ゆで加減から舌ざわり、だし汁の好みなどと、それぞれに一家言を披露し、さぬきの西や東、好みに合ったうどん店の名を挙げては、ひとしきりわがことのように力説した。

 香川県人のうどんとの出会いは、半夏(はんげ)の田植え休みや秋祭り、法事などである。さぬきでは昔から何かあると必ずうどんを打ってきた。“それでこそさぬきの子じゃ”などとおだてられ、子供ながらに2杯、3杯とうどん鉢を並べて大きくなったのがさぬきの人間である。それだけに、どこの職場にもうどんの“通” を自認するうどん好きが二人、三人は必ずいる。「話題に困ったときはうどんの話をしろ、必ず誰かが話に乗ってくる」というのも、さぬきならではの処世訓の一つ。“うどんの本” がベストセラーになるお国柄なのである。

 この“さぬきうどん”は、伝統の味であり、しかも現代さぬきの味として、観光香川の躍進にテンポを合わせて伸びてきた。「さぬきと言えばうどん」と言われるほど、さぬきを代表する“顔”に売り出された陰には、和田邦坊、佐々木正夫、山田竹系の各氏をはじめ、うどん好きの現代さぬきの文人墨客のペンや絵札によるバックアップも見逃せない。文化人はうどん好き、佐々木氏によると、さぬきへ来た開高健、佐多稲子、芝木好子、井上ひさしらの作家や棟方志功画伯など、いずれも“さぬきうどん”のもてなしには胸襟(きん)を開いたという。

 今は昔。奈良時代に渡来した唐菓子の饂飩(うんとん)は、さぬきの風土にはぐくまれ、絶対多数を誇る“さぬきうどん党”に支えられて今、名物“さぬきうどん” となったのである。この春、東京に遊学した長女に一箱の“さぬきうどん”をもたせてやった。親心をさぬきの味に託して…。

文 あらかわ日●史

 内容は大体これまでの新聞記事に出てきたような話ですが、その中に「讃岐うどんの起源」についての記述が2カ所出てきました。まず、「屋島山上にある”さぬきうどん立ち食いコーナー”の馬場さん」の話として「讃岐うどんは、お大師さん(空海)が唐から製法を持って帰ったと言われてます」とあります。しかし、最後には「奈良時代に渡来した唐菓子の饂飩(うんとん)が讃岐うどんになった」と締められていて、本文に「奈良時代に渡来」説と「空海(平安時代)持ち帰り説」が混在していて一貫性がありません(笑)。果たして「空海持ち帰り説」の出所はいつの誰なのか? 謎はまだ解明されません。

行政と組合が主体の「さぬきうどんの会」設立へ

 続いて、「さぬきうどんの会」なるものが設立されることになったようです。

(11月14日)

質向上で名声を維持 さぬきうどんの会設立へ

 さぬきうどんの名声を維持、向上させ、郷土の発展にも寄与しようという「さぬきうどんの会」を設立するための発起人会が13日開かれ、来年3月設立を目指して事業内容などについて準備を進めていくことを決め、設立趣意書を採択した。

 さぬき手打ちうどんは、さぬき小麦の特質を生かした素朴な持ち味が受け、県内はもとより全国的に普及した。しかし反面では、全国各地に「さぬきうどん」を名乗るうどん店が続出したことによって品質、内容の面で混乱をきたしている。そこで、「さぬきうどん」の内容を向上し、さらに普及させるため、県内のうどん関連諸団体が一体となって、全国的規模の「さぬきうどんの会」を設立することにしたものである。会設立後は、この会を中心に「さぬきうどん」の名声維持、向上に努めたい、としている。

「さぬきうどんの会」設立発起人代表は次の通り。
▽中川以良(県観光協会会長)▽大川優(県製麺組合連合会長)▽鈴木英男(県飲食業環境衛生同業組合理事長)▽宮脇朝男(県経済連会長)▽影山董(県製粉製麺協同組合理事長)▽森繁治(県物産協会会長)

 佐々木先生提唱の「讃岐の手打ちうどんを食べる会」が名称を変えて実現したのかと思ったら、発起人は行政と組合の重鎮たちで、佐々木先生のお名前は入っていませんでした。「讃岐うどんが全国に普及したせいで、全国各地に讃岐うどんを名乗るうどん店が続出。その混乱を解消させるべく、会を設立した」とのことですが、「平成の讃岐うどん巡りブームのせいで全国各地に讃岐うどんを名乗るうどん店が続出し、組合が讃岐うどんの定義をして防衛を図ろうとした」という話と全く同じ構図ですね(笑)。

 続いては、「讃岐のうまいもん」のコラムの中にあった讃岐うどんの話題。

「湯だめうどん」賛歌

(10月31日)

”うまいもん”あれこれ 手打ちうどん みやげ物に大好評

 瀬戸内海に面した香川県は、四季それぞれの山の幸、海の幸に恵まれ、いわゆる”うまいもん”は多い。だが近年、郷土色とか季節感はだんだん薄れている。これは、海での養殖漁業の発達、促成栽培の普及進歩、それに交通の充実に伴い物産の交流が盛んとなり、品物の出回りがスムーズになったためだろう。その中にあって、今、全国的に有名な香川のたべものは、手打ちの”さぬきうどん”だろう。

 昔から「さぬき三白」と言われ、塩、砂糖、米(綿あるいは生糸の説もある)が讃岐の名産とされてきた。しかし戦後、これが「塩、砂糖、うどん」に変わったというのが一般的になってきた。コシコシとした歯ざわりのさぬき手打ちうどんは、独特の味わいがある。香川県人の中には案外うどん好きな者が多いのは、こうした良質のうまいうどんが手軽く食べられるからだろう。打ちこみ汁の他に、うどんの食べ方は、かまあげ、しっぽく、天ぷら、きつねうどんといろいろある。だが、本当に味わいのあるのは「湯だめ」ではなかろうか。薄口の上方風の味つけではあるが、結構関東人からも受けている。観光客が買って帰るみやげ物で一番よく売れているのも、このさぬきうどんだという。…(中略)…

 こうした郷土料理は少なくないが、三傑は「うどん、しょうゆ豆、フナのてっぱい」だといわれる。だが土佐の皿鉢(さはち)料理のように、県を代表する味として”さぬきうどん”はまだまだ弱いのではなかろうか。作る店、売る店によって味、品質が違い、旅行者から不評を買うこともあるようだ。技術的なものや材料の面から統一した製品はむずかしいだろうが、もう少し県を一丸とした企画性のあるものに改善して欲しいものだ。(以下略)

 これまで何度か出てきた「讃岐うどんの醍醐味は“湯だめうどん”だ」という話が、また出てきました。今は「湯だめ」より「釜あげ」の方が値段的にも格上扱いされていて、先の佐々木先生の随筆の中にも「釜あげの値段で湯だめを出すうどん店」に対する苦言があったように、「釜あげ上位」の位置づけはすでにこの頃からあったみたいですが、一旦水で締めた「湯だめうどん」には、「讃岐のうどん食い」にとっては根強い親しみがあるのでしょうね。

「細ネギ」賛歌

 続いて、讃岐うどんに欠かせない「細ネギ」に対する賛歌が初めて出てきました。

(12月4日)

讃岐野菜の顔「細ネギ」 独特の香りに魅力 うどんに欠かせぬかやく

 さぬきといえば「うどん」とか。さぬきうどんに欠かせないかやく、それは「青ネギ」「細ネギ」であろう。打ちだての手打ちうどんに上手に味付けした「だし」。それにあの細ネギ独特の香りのする味はほんとうに何ともいえない。昔のたいていのうどん屋、飲食店では青ネギを細かくきざんだものを小さい用器に入れ、客の好みにより自由に入れていたが、近ごろはかなりな値段がするのでほんの少々を店の方できちんとふりかける。…(中略)…高松市内でも、うどん屋さんや飲食店では1日に10束とか5束とかその店の客に応じて毎日買っている。日もちのしない野菜で、冷蔵庫に入れておけば2日や3日は持つが、香りが落ちるので普通は毎日買う。この野菜は値段の変動がひどい。

 香川県では青ネギの生産農家は専門化していて、誰でも簡単に立派なものは作れない。まき方も厚ければ種子が多くいるし、細い線香のようなものとなる。薄きに失すると太りすぎて価値がなくなる。また、病気の予防もしばしば上手にやらないといいものはとれない。香川県では年中出回っている。高松近郊の専業野菜農家、一宮、寺井町あたりでも大型ビニールハウスで細ネギ専門に年中出荷している。

 香川県の青ネギを見て、東京から転勤してきた公務員の奥さんに「このおネギはどうして作るのか、支柱でも立てるのか、作り方を教えてほしい」と言われたことがある。青ネギのお店での姿は、根つきのまま20本内外を並べて半分に割って稲わらで上手に束ねている。まき付けから収穫までの日数と1日平均出荷する数量の目安を立て、計画的に次々とまいている。この細ネギの根っこだけは捨てないで宅地の畑かアパートなら木箱によく肥えた土を入れ植えておき、化成肥料でも少々施しておくと芽が出て結構2~3回ぐらいは食べられる。普通の青ネギをそのままおくと、いわゆる「ぼんさん」が出る。十分熟して自家採種でも結構作れるが、肥料が少ないとあの青ネギ独特の濃い緑色の色のよいスーッと伸びた「細ネギ」はできない。とにかく、さぬきうどんと細ネギとは一風変わった味というか風味である。(農業評論家・十河武夫)

 「讃岐うどんに細ネギ」というコンビは、昭和50年にはすっかり定番になっていたことがわかります。いつからどういう理由で細ネギが主流になったのかについては不明ですが、農業評論家の十河さんの話から想像すると、香川の農家では昔から細ネギ(青ネギ)の栽培が盛んだったことが大きな要因だったのかもしれません。

「セルフのうどん」の発祥か?!

 さて、ここまで全て「四国新聞」に載っていたうどん関連記事を発掘して紹介しているわけですが、別働隊が昭和50年の「朝日新聞」の全国版に連載されていた「新風土記」というコラムの中に「讃岐うどんのセルフサービス店」の記事を発見しました。しかも、そこには「セルフうどんの発祥は当社だ」という証言者が登場しています。

(4月9日)

新風土記/うどん(香川県)①セルフサービス

 昼休み、日本銀行高松支店のわきに行列ができる。細い通りをはさんで、向かい側に町工場風、間口10メートルほどの2階建て、階下、30畳ぐらいの土間が、うどん屋。行列は、その店内に入る。突き当たりのカウンターに女店員が1人。平たいプラスチックの箱に玉が並んでいる。箱の名称は「うどん重」。

 「シングル」と言って10円玉を6つ出すと、箸で1玉つまんで、どんぶりに入れてくれた。ダブルは100円。エビ天が欲しければ、60円加える。店の中ほどに、箱形のステンレス釜を置いてある。ここで湯がく。柄の付いた筒型のざるを使う。「ぬくめいかき」という。本来は竹製、この店のは金属製。釜の横は給湯タンクで、コックをひねると、だし汁が出る。きざんだネギと、花ガツオを、それぞれ山盛りにしたボールから、好きなだけ入れる。エビ天の代金を払った人は、それも自分で乗っける。

 ぬくめたり、ダシをかけたりにもたついているのは、1人、私だけだった。どの客も、手なれた調子で好みのうどんに仕立て、するするっと飲み込んで出て行った。場所柄、サラリーマンが大半のようだが、ビル工事現場からの作業服姿も見かけた。「花ガツオをごっそり入れたり、1枚の天ぷら代で2枚取ったりする客がいないわけではない。でも、めったにありません」と店の人は言った。

 少し北、警察署の近くに古風な構えの老舗がある。ここも、ちいさな店内に、でんと大釜を据えていた。かやくは薄味に煮付けた油揚げで、ほうろう引きの角皿から自由に取る。ずっと南、県立中央病院裏の店では、「二つ玉」とか「三つ入り」と注文する。あとの要領は同じ。ただし、ここの天ぷらは讃岐言葉の「天ぷら」で、標準語の「さつま揚げ」だった。

 セルフサービス店は、丸亀市、善通寺市など、県下のあちこちにある。天ぷらのタネにイカの足を使っていたり、好きなだけ取ってよいのが天かす(揚げ玉)だったり、少しずつ違う。店は手間を省ける。その分だけ客は安く食べられる。だから、流行る。それだけでもない。この県の人たちは、うどんにうるさい。なまじ、店の味を押しつけられるより、勝手にまかせてくれる方がましだ、という気分がある。いかきでぬくめることなども、面倒がるどころか、楽しんでいるように見えた。他の麺類でも同じだが、一番うまいのは、ゆでたてだ。セルフサービス店は、まず例外なく、製造直食店である。この点でも。お客を満足させることができる。ゆでて何時間もたった玉など出したら、たちまち評判が落ちる。「お客はこわい」と店主たちは話した。

 朝日新聞の連載に寄稿するほどですから、筆者はおそらく県外出身で高松勤務の“それなりの方”。昭和50年の高松市のセルフサービスのうどん店レポートです。この頃、“サラリーマンの昼飯仕様”のセルフ店は高松をはじめ丸亀、善通寺等々、県内各地ですでに大盛況だったようです。ちなみに、プラスチック製の“せいろ”は「うどん重」と呼ばれ、テボ(本来は竹製)は「ぬくめいかき」と呼ばれていたそうです。また、高松市の日銀高松支店の脇にあったこの店では、うどん1玉を「シングル(60円)」、2玉を「ダブル(100円)」と呼んでいたとのこと。

 ちなみに、この当時の日銀高松支店は「かな泉紺屋町店」の真向かいにありましたから(昭和55年に現在地に移転)、「日本銀行高松支店のわきに行列ができる」と書かれたこの店は明らかに「かな泉紺屋町店」ですね。取り放題の「花ガツオ」も「かな泉紺屋町店」の名物でしたから、間違いありません。あと、後段で出てくる「警察署の近くの古風な構えの老舗」は特定できませんが、「県立中央病院裏の“二つ玉”とか“三つ入り”と注文する店」は、おそらく「さか枝」だと思います。

 そして、「セルフの発祥」の話が出てきましたが…

 「たぶん、うちの社員食堂がセルフサービスの元祖ですよ」とタクシーの運転手さんが言う。高松市の日新タクシーで、専務の村井茂則さんに確かめると、「そういえば、そや」と答えた。24年に、県下第一号の事業免許をとった。3台で開業した。隣が製麺所だった。自然、昼食はうどんに決まった。朝11時頃、うどん重が届く。木製で、店名の焼き印を押してある。調理室に積み上げる。女子職員が大釜に湯を沸かし、だし汁を作っておく。かやく、薬味は、めいめいに家から持ってくる。流しの途中で、讃岐の「天ぷら」を仕入れてくる日もある。人によっては、連日、8玉ずつ平らげる。米の飯よりこなれがいいから、居眠りなどの心配はない。現在、総勢53台、100余人。社長もセルフサービスである。…(中略)…セルフサービスのうどん昼食は、他のタクシー会社にも普及しているという話だった。

 タクシー会社の社員食堂の話でしたが(笑)、昭和24年の創業時からこういうシステムでやっていたとすると、「社員食堂のセルフうどん」としては今のところ「最古」の情報です。

小さなイベントが3本

 その他、小さなイベントの記事が3本見つかりました。

(2月6日・朝日新聞)

讃岐うどんを無料サービス 香川県観光協会

 学問の神様で知られる江東区亀戸三丁目の亀戸天神社で5日昼、香川県観光協会が1000人分の讃岐うどんを振る舞った。亀戸天神社では菅原道真公が祀られており、同公が讃岐の国司をした関係から、県観光協会が同県への観光客誘致の一助にと催したもの。受験シーズンだけに境内は学生やその父兄で大にぎわいだが、うどんの無料サービスとあって、受験生たちは「これは縁起がいい。合格間違いなし」と大喜び。中にはお代わりのため再び並び直す学生も。

 県観光協会が東京の亀戸神社でうどん無料サービスを実施したそうです。県も当時は「菅原道真つながりで亀戸神社へ」という、なかなかきめ細かい戦略を展開していたようです。

(6月14日)

ふるさとの味に大喜び お坊さん、手打ちうどんで慰問 讃岐老人ホーム

 お年寄りたちに讃岐のふるさとの味を満喫してもらおうと、13日、高松興正寺伝導部のお坊さん10人が高松市宮脇町の讃岐老人ホームに出向き、手打ちうどんの実演でお年寄りたちを喜ばせた。この日お坊さんたちは、午前5時過ぎから50キロの小麦粉に水や塩を加え、うどんの下地づくりを始め、同ホーム集会場で威勢のよいかけ声でうどんづくりを披露。同園に収容されている132人のお年寄りたちは、打ち板や麺棒で延ばされるうどんづくりを懐かしそうに見物、約400人分がカマから揚げられた。これらのうどんはお年寄りの昼食用にプレゼントされたが、出来たてのこしの強いうどんに大喜び。中には3人前をペロリと平らげる元気なお年寄りも見られた。

 お坊さんが老人ホームで「手打ちうどん実演」の大盤振る舞いです。ボランティアのうどん振る舞いは今もあちこちで行われていますが、うどん玉が容易に大量に入手できる昨今は、「粉からうどん打ち実演」という豪快な催しはあまり見られなくなりました。

(7月3日)

こんぴらうどんを奉納 金刀比羅宮

 金刀比羅宮で2日午前10時から「こんぴらうどん奉献式」が行われた。琴平町内のこんぴらうどんの会=小河仲太郎会長=が奉献したもので、式のあと表参道の参拝者休憩所でこんぴらうどんづくりの実演をして、出来上がったうどんを参拝者に接待した。最近は全国的に讃岐うどんの名が高まり、発祥の地といわれる琴平の“こんぴらうどん”を盛んにしようと47年7月に町内の位野木峯夫さんの発起で結成。会員も当初は5人だったが、遠くは福岡県田川市宮尾の大倉文雄さんや、高松、善通寺、詫間などからも入会し、現在では17人に増えている。

 やはり「献麺式」は金刀比羅宮です。さらに「うどん発祥の地」も、今は「綾川町(旧綾南町)説」が主流ですが、この頃はやはり「琴平説」しか出てきません。いつ頃から琴平はその地位を失い始めたのか? 続報で明かされるのを待ちましょう。

うどん店のオープン広告が3本

 この年は、うどん店のオープン広告が3本載っていました。

S50年広告・わら家

S50年広告・サヌキのピッピ

S50年広告・かな泉 紺屋町店

 新装オープンした「かな泉紺屋町店」は「セルフサービスのうどん店」と書かれています。うどん店広告で「セルフサービス」と明確に書かれていたのは、この年の「かな泉紺屋町店」と「松下製麺所」(年末の協賛広告内)が初めてです。

 加えてもう一点、「わら家」の広告の中の文章に「うどんは“ゆでごみ”に限る」という表現がありました。今ではほとんど聞かれなくなった「ゆでごみ」とは何でしょう。わら家なので、「釜あげ麺」のことでしょうか。

協賛広告は90本近く!

 前出のオープン広告も含めて、この年は前年を上回る延べ90本近いうどん店の広告が四国新聞に載っていました。そのほとんどは協賛広告ですが、広告本数の多い順に並べると以下のような顔ぶれです。

(19本)…「さぬきうどん」(栗林公園前、他)
(13本)…「番丁」(香川県庁裏門前)
(7本)…「久保製麺」(高松市番町)
(5本)…「かな泉」(紺屋町店、他)、ドライブインやしろ(坂出市、丸亀市)
(4本)…「いずみや」(高松ダイエー地下名食街)
(3本)…「さぬき麵業」(高松市松並町)
(2本)…「さぬき一番」(マルナカ三木店モール街、南新町、兵庫町)
     「わら家」(高松市屋島中町)
     「井筒」(高松市西の丸町)
     「川福」(高松市ライオン通)
     「羽島」(高松市片原町)
     「松下製麺所」(高松市中野町)
     「民サ麵業」(高松市勅使町)~本社工場落成広告
(1本)…「庄司」(ジャスコ高松店専門店街)
     「若水」(高松市中新町)
     「山鹿」(高松市内町)
     「すゑひろ」(高松市中野町)
     「ゆたか」(高松市中新町)
     「古里うどん」(高松市春日町)
     「味の里」(大内町)
     「源内」(志度町)
     「藤井製麺」(三木町)
     「冨田製粉乾麺工場」(香南町)
     「宝山亭」(香南町)
     「サヌキのピッピ」(綾歌町)
     「鳥坂」(善通寺市)
     「長田うどん」(満濃町)
     「さぬき麺機」(高瀬町)
     「松野たらいうどん」(徳島県土成町)
     「御所温泉(たらいうどん)」(徳島県土成町)
     「イレブンパーク」(愛媛県西条市)
     「玉藻」(東京都港区新橋)
     「讃岐」(大阪市東区京橋)

 一つ気になったのはこれ。「さぬき一番」が「井筒」の姉妹店と書かれています。「さぬき一番」も「井筒」も、のちにはそれぞれ別の店として人気店になっていたのですが、当時は資本関係がいろいろ動いていたのかもしれません。

S50年広告・井筒

 続いて、洗練された「かな泉」の広告をもう一つ紹介。「かな泉」は広告のデザインやコピーに趣向を凝らし、佐々木正夫先生のエッセイも取り入れるなど、うどん店広告のレベルとセンスを大きく向上させたパイオニア的存在でした。

S50年広告・かな泉

 ちなみに、この「かな泉」の広告内にも佐々木正夫先生の推薦文が載っていました。

あゝ、のどに感じる手打ちの“こし”。

讃岐はうどん王国。電柱の数ほどうどん屋さんが登場したことはいいことだが、ホンモノのうどんを食べさせる店は少ない。そういう中で、わたしの友人である“かな泉”の主人だけは、少々ヘンコツだが、ホンモノのうどんしかつくらない。「伝統が生んだ讃岐うどんを継承していくことが私の使命…」という。

うどん歴三十年。最初は製麺業者だったが、「自分のうどんを直接お客さんに味わってほしい」と、“かな泉”を開業した。たちまち讃岐随一のうどん屋さんになった。どの店がホンモノなのか、いちばん知っているのはお客さんである。営業所も六つ、従業員百人、立派なものだと思う。

今日から“ホンモノおやじ”と呼ばせてもらおう。わたしからの、ささやかな愛称献呈である。政府の乱造叙勲よりはるかにすばらしい。
(四国作家主宰/佐々木正夫)

 これまでの「かな泉」の広告に寄せたエッセイを見るまでもなく、佐々木先生は完全に「かな泉」の応援団です(笑)。

 では最後に、年末の協賛広告を眺めながら、昭和50年を締めくくりましょう。

S50年年末協賛広告

 

(昭和51年に続く)

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