さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.43 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和60年(1985)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 43
  • 2021.10.14

うどん関連記事の数は過去最多!

 昭和60年は、北の湖引退(1月)、つくば科学博開幕(3月)、豊田商事会長刺殺(6月)、松田聖子と神田正輝結婚(6月)、日航機墜落事故(8月)、夏目雅子死去(9月)、プラザ合意(9月)、そして阪神タイガース21年ぶりの優勝(10月)等々、大きな話題が目白押しの1年でしたが、四国新聞に載ったうどん関連記事も過去最多の本数を記録しました。さっそくいきましょう。

県の「うどん士認定制度」が迷走の末、白紙に

 県(観光課)が前年9月に発表した「うどん士認定制度」の計画(「昭和59年」参照)が本欄の懸念通り迷走し始め(笑)、ついに実施を待たずに白紙撤回されました。まずは、3月に載った「当初計画を修正する意向が発表された」という記事から。

(3月9日)

讃岐うどん伝統の味を保証 「推奨店」「うどん士」認定、5月からスタート(県観光課)

 全国的な知名度を得ている“讃岐うどん”の伝統の味を県外観光客に保証しようと、県観光課は関係業界の協力を得て「うどん士認定制度」の検討を行っていたが、基準づくりの難しさがあり、5月から「讃岐手打ちうどん推奨店」と「うどん士」認定(いずれも仮称)の二本立てでスタートさせることになった。これは8日開かれた県議会経済委員会で斉藤観光課長が明らかにしたもの。県観光課では昨年夏から、県外観光客に自信を持って勧められる「うどん士が働く推奨店」の認定制度を検討。12人の委員による実行委員会で手打ちの基準や審査方法、認定証の発行方法などを協議してきた。しかし、基準づくりが難しく、結局「推奨店」と「うどん士」認定の二本立てでスタートさせることに意見が一致。4月11日の第3回実行委で実施要項を決めることになった。

 計画では、観光客に恥ずかしくない店として、5月末ごろに限定した数の第1回の推奨店を認定。また「うどん士」は讃岐うどん品評会で入賞した優秀職人と、製麺組合で試験を行い認定された人に認定証を交付する考え。第1回のうどん士認定は、7月の「うどんの日」前後を予定している。また、県はこのうどん士認定制度を労働省の技能士制度に基づき、県が伝統技術者を対象に独自に認定する技能審査制度として適用させたい考え。実施は数年後の見通しだが、「優秀な職人を育てるためにも、早急に労働省と検討したい」としている。

 当初計画では「うどん士が働く推奨店」を認定する制度だったようですが、基準作りが難しいので「推奨店」と「うどん士」認定の二本立てに修正するとのこと。要するに「店の認定」と「人の認定」を分けたということのようですが、分けようが分けまいが、そもそも「県という権威が民間ビジネスの業界にこういう認定制度を被せると、何らかの形でビジネスが歪む」という根本的な問題を抱えたままなので、このままでは終わりそうにありません(笑)。しかし4月11日、ついに制度の内容が決まってしまいました。

(4月12日)

讃岐うどん本場の味を推奨 「打つ」「延ばす」「調理」一貫専門店、選考委設け審査 
県観光協会、7月に初の認定証交付

 県外観光客に自信を持って推奨できる”讃岐うどん”専門店のガイドづくりと、味のアップを目指して県観光振興課と県観光協会が準備を進めていた新たな認定制度は「推奨―讃岐うどん専門店」認定制度とすることが、11日に開かれた同選考委員会で決まった。同課では「申請がどの程度あるか、全く予測がつかない」としているが、5月末まで申請を受け付けて16項目の審査を実施し、7月末までに第1回の認定を行いたい考え。

 同協会と観光振興課が認定対象に考えているのは、

①観光客などに讃岐うどん専門店であることが認識できるよう創意工夫している店。
②味と伝統を守り育てることを認識し、常に良心を持って讃岐うどんの提供を行っている店。

 現状では熟成段階の材料を買い、打つ段階から手作業としている店も多いため、客の前で打ち、延ばして製造、調理している店を認定対象にしている。認定を受けたい店は申請書と申請料(3000円)を県飲食業環境衛生同業組合に提出。同組合が調査結果を意見書として県観光協会に出す一方、同協会調査員が標準審査基準に従って予備調査を実施。有識者、うどん研究者、業界関係者で組織する選考委員会(10~15人)の審議を経て観光協会が認定証を交付する。この際、認定料5万円が必要。認定期間は3年間で、毎年7月に実施の計画。認定店にはPR効果を考えた特大の認定証と、のぼり2本を交付。推奨店を印した県内案内地図を作るなどして、協会が県外にも積極的にPRしてゆくことにしている。

 県では当初、「うどん士が働く推奨店」の認定制度として検討してきたが、基準づくりに業界内の反発もあり、「推奨店」認定制度をまずスタートさせ、「うどん士」は技能審査制度に乗せる形でのスタートを検討中。認定を希望する専門店に気掛かりなのは標準審査基準だが、その中身は、

【店舗関係】………店構え、店頭などでの実演、店内装飾と客席の工夫
【商品】……………品目数、器類の工夫、特色ある商品、料金の妥当性
【従業員の応対】…受注と配ぜん、言葉遣い、服装。
【設備と環境面】…客席数、公共輸送機関との接近または駐車場設備、周辺環境

とし、これに味を加えて合計60点を配点。また、「釜の火を落とした後の商品の取り扱い」に30点、「その他の印象」に10点を配点。いずれも3段階で審査し、合計60点以上を認定基準としている。特に麺の新しさに重点を置いているのが特色。

 県観光協会の推計による県下のうどん専門店は約500店。同日の委員会では「専門店の死活にかかわるので、ほとんどの店が申請を出すはず」という声がある一方、「観光客を対象とした認定制度なので、地元客主体の店にまで広がらないのでは」との声もあり、県観光振興課では「申請数は全く予測がつかない。不満があるかもしれないが、情勢を見た上でさらに制度の改善を図ってゆきたい」と話している。

 どうやら「うどん士」は後回しになって「推奨店」の認定だけをスタートすることになったようです。内容を見ると、「認定を受けたいなら最初に3000円が必要。審査を通って認定されたら、さらに5万円が必要」という“お上”ならではの「殿様ルール」になっておりますが(笑)、最大の問題は、やはり「審査基準」のところ。これはどう考えても「ちゃんとした一般店しか審査を通らない(認定しない)」という制度であり、例えば今日の讃岐うどん巡りブームを支える「製麺所型」の人気店はたぶん「料金の妥当性」と「味」以外はほぼ全部アウトになりますが、さて、どうなりますか…と思っていたら案の定、業界から反発を食らって、たちまち「廃案」に追い込まれました。

(5月31日)

讃岐うどん認定制度を見送り 業界の反発受け再検討(県観光協会)

 県観光協会は24日、観光客らに店舗選びの目安にしてもらうとともに讃岐うどんの振興を図ろうと計画していた「讃岐うどん専門店」認定制度について、関係業界から「死活問題にもなりかねない」との強い反発が出されたことなどから、計画を事実上見送ることにした。これは同日開かれた県観光協会総会の席上、斎藤茂治専務理事が報告の形で明らかにしたもの。

 認定制度は当初計画では、県飲食業環境衛生同業組合を通じてうどん専門店から申請を受け付け、同組合の意見書と選考委員会による審査で認定証、のぼりを交付する仕組み。5月から作業を進め、7月にも第一次認定を行う手はずにしていた。しかし、審査基準からみて認定対象が大型店に限られる上、県観光協会が前面に出ているとはいえ、実際には表裏一体の関係にある県観光振興課が中心になって計画づくりに当たっており、役所により”お墨付き”ともとられかねないやり方に一部で批判が出された。こうした状況に、県観光協会ではひとまず計画をストップし、認定制度を見直すことにした。認定対象に小型店を盛り込むことなどについて、時間をかけて合意づくりを進めたいとしており、これで認定制度は事実上白紙に戻ることになる。

 行政には珍しく、「直ちに撤回」となりました。「一部で批判が出された」と書かれていますが、おそらく「猛反発」だったんじゃないでしょうか。理由にはやはり「審査基準からみて認定対象が大型店に限られる」「役所の”お墨付き”ともとられかねない」等が挙がったようですが、明らかに制度設計がまずかったですね。

 では気を取り直して、ここからうどん関連イベントを一挙9本。

屋島山上で「さぬきうどん手作り講習会」

 「源平屋島合戦800年祭(源平フェスティバル)」にちなんで、屋島の山上で「うどん作りの講習会」が開かれました。

(3月11日)

フェスティバル行事第3弾 講習生と観光客“ほのぼの交流” 手打ちうどんも披露(800年祭実行委)

 源平フェスティバルの「源平屋島合戦料理講習会」と「さぬきうどん手作り講習会」が10日、観光客でにぎわう屋島山上おまつり広場で催され、地元の人たちと観光客が一体となって源平ゆかりの料理を楽しんだ。

 同フェスティバル実行委が讃岐伝統の味をテーマに源平屋島合戦800年を盛り上げようと開いたもので、フェスティバル行事としては2月24日の源平合戦まんが展に続く第3弾。この日、源平料理講習会は午前11時と午後2時の2回、うどん講習会は午前11時からと午後0時半、同2時の3回行われ、各講習会ともあらかじめ申し込んであった地元の人たち20人ほどが講習生として参加した。源平料理はカンカン寿し、弁慶菜汁、源平焼きの3コース、郷土料理研究家松岡柳士さん(47)が講師。手打ちうどんはさぬき麺業の香川均さん(28)が先生役で、講習生は若いお母さんからお年寄りまで男性も含まれ、会場は和気あいあいのムード。…(以下略)

 「講習生は若いお母さんからお年寄りまで男性も含まれ…」という一文を見ると、手打ちうどんの講習会に男性が参加するのは珍しいみたいなニュアンスがありますが、どうなんでしょう。ちなみに、ほぼ同時開催された「源平料理講習会」の料理ラインナップは「カンカン寿司」「弁慶菜汁」「源平焼き」の3つ。「弁慶菜汁」(源平合戦の時に弁慶がお地蔵さんの背中をまな板代わりにして菜っ葉を切って汁を作ったという逸話絡みの汁)と「源平焼き」(同じ食材を白=源氏と赤=平家、あるいは白と黒の2色に仕上げた焼き物料理)は一応源平合戦つながりですが、「カンカン寿司」は資料に「江戸時代から伝わる保存食」とあるのでどう見ても源平合戦とは関係なさそうなんですが、どうなんでしょう(笑)。

引田の醤油醸造元「井筒屋」が、空き蔵3棟を手延べうどん工場にリニューアル

 東かがわ市引田町の古い町並み開発エリア「風の港」の中心施設として知られる「讃州井筒屋敷」が、まだ健在だった頃のことです。

(4月17日)

伝統の町並み 実のある保存策 手延べうどん工場が完成(引田)
醤油蔵を活用、外観守り内部モダンに

 白壁の蔵に大きな長屋門。旧庄屋の屋敷、醤油(しょうゆ)蔵、酒蔵が軒を連ね、今に江戸の香りを伝える引田町引田の古い町並みの一角にこのほど、醤油蔵の特性を生かした手延べうどん工場が完成した。醤油などの醸造元として古い歴史を持つ井筒屋(佐野充社長)が瓶詰加工蔵など3棟の内部をモダンに改装。県下でも数少ない往時をしのばせる古い町並み保存対策としても役立っている。

 井筒屋は元禄5年(1692年)、醤油醸造元として創業、現社長が15代目という旧庄屋。清酒・国乃華の醸造元(55年に醸造中止)としても知られているが、45年、引田町内にできた大川郡内の醸造元6社による大川醤酒工業協同組合に醤油製造を任せて以来、町道をはさんで並ぶモロミ蔵、醸造蔵、加工蔵など7棟が相次ぎ空き家となった。これが影響して蔵の傷みも急激に進んだため、50年からモロミ蔵3棟を改造して生うどん、乾麺などの製造を導入。5年ほど前から土庄町の協力工場で製造していた手延べうどん部門を引田町へ“移転”し、能力アップさせた。製造工場は醤油瓶詰加工蔵と貯蔵蔵を合わせて3棟660平方メートルあまりを充て、蔵内部を全面板張り。蔵自体はほとんど手が加えられておらず、柱が太くて流れ作業の段階で不便さは感じられるが、壁が厚く外気の影響が少ないほか、窓がないため、衛生面においても麺の乾燥、加工には適しているという。

 引田町は江戸から昭和の初めにかけ、地元で製造された砂糖や醤油、塩製品などの積み出し港としてにぎわうなど、大阪に最も近い地理条件を生かした商港として繁栄。俗に“引田御三家”と呼ばれる佐野家、岡田家、日下家が持つ旧庄屋の屋敷、醤油蔵、酒蔵などが軒を連ねたアンチークな街並みは、当時の面影をそのまま今に伝えている。手延べうどん工場の完成で換気フード取り付けのため、やむなく壁の一部を抜いたが、なんとか街並み保存策の一つに。佐野文彦専務は「蔵をそのまま放置していたところ、ひどい虫食いにあった。手延べうどんの製造と蔵の活用の一石二鳥の策として、街並み保存にも効果があったと思う」と話している。

 佐野家、岡田家、日下家が“引田御三家”と呼ばれていたそうですが、佐野家はこの手延べうどん工場を作った醤油醸造元、岡田家は後にうどん店を併設した「かめびし醤油」の醸造元。「風の港」の旧家は醤油とうどんに縁があったみたいですね。ちなみに、「井筒屋」の建物は1990年代終盤に空き家になり、2001年に引田町が歴史的建物群の保存のために主要な建物を買い取って整備。2005年に「讃州井筒屋敷」という観光スポットとしてオープンしました。

第7回さぬきうどん品評会

 県と県製麺組合連合会が主催する「さぬきうどん品評会」の、第7回の受賞者が新聞に発表されていました。

(5月16日)

小麦豊作で品質に折り紙 第7回さぬきうどん品評会
甲乙つけがたい106点 農水大臣賞に入谷さん(綾南)

 第7回さぬきうどん品評会が15日、高松市の讃岐会館で開かれ、食味や加工状況を審査した結果、農林水産大臣賞に入谷澄雄さん(綾南町)、四国新聞社賞には彦江ノブさん(坂出市)が選ばれるなど、27人の入賞が決まった。食味については、59年産小麦が空前の豊作だったこともあり、審査員らは「掛け値なしに甲乙つけがたい」と評価、その品質に折り紙をつけている。

 この品評会は県と県製麺組合連合会が観光香川の“顔”にもなっているさぬきうどんの品質向上、消費拡大を図ると同時に、県産小麦の利用を高めようと54年から年ごと開いている。今年の品評会には製麺100事業所から真空包装9点、無包装97点の計106点が出品され、食感、風味や形状、光沢などについて“グルメ”らが審査した。この結果、特別賞3点をはじめ、優秀賞、優良賞合わせて27点の入賞が決まった。表彰式は28日、高松市の高松ホワイトホテルで開かれる。県農林部の調べでは、59年の県産小麦は気象条件に恵まれて1万1200トンと空前の豊作となり、このうち一等麦が90%を超えて質、量とも良好な状態に。これに伴い、麺用県産小麦の自給率も、オーストラリアに大半を依存、“豪州うどん”とまで言われた53年当時の2%程度から18.4%まで高まった。

 さぬきうどん品評会の入賞者は次の通り。
【特別賞】
▽農林水産大臣賞……………入谷澄雄(綾南町)
▽食糧庁長官賞………………柳本誠一(坂出市)
▽中四国農政局長賞…………入谷操(長尾町)
【優秀賞】
▽知事賞………………………成本在慶(琴平町)、丸木満(白鳥町)
▽全国製麺協組連合会長賞…斉藤良子(観音寺市)、上原一(坂出市)
【優良賞】
▽県農林部長賞………………十河春男(三木町)、久保義明(高松市)
▽県食品産業協議会長賞……香川政義(高松市)、香川豊(善通寺市)
▽県食品加工技術研究会賞…馬渕亀太郎(高松市)、寒川正義(三木町)
▽四国新聞社賞………………彦江ノブ(坂出市)
▽西日本放送賞………………坪井文雄(庵治町)
▽県製麺組合連合会長賞……石田務(丸亀市)、笠井泰雄、古川正則、飯間静男、宮武愛男、上原実、大槻正弘(以上高松市)
             上杉春喜(豊中町)、三好清(坂出市)、谷文雄(満濃町)、大峰茂樹(土庄町)、松原耕志(香川町)

 過去に「第2回」と「第4回」の受賞者が新聞に載っていましたが(「昭和55年」「昭和57年」参照)、品評会の最高賞である「農林水産大臣賞」は第2回が「桑原毅さん(高松市)」、第4回が「香川食品(善通寺市)」とあり、今回は「入谷澄雄さん(綾南町)」で、どうも“絶対評価”というより“持ち回り”のニオイもしますが(笑)、どうなんでしょう。

丸亀お城まつりの「うどん早食い競争」が第2回を迎える

 続いて、「丸亀お城まつり」で前年に始まった「うどん早食い競争」が、第2回を迎えました。

(5月17日)

蓬莱城下に浴衣はえ、四国の三大祭りに発展 内容多彩なイベントも
丸亀お城まつり「うどん早食い競争」

 うどんどころ讃岐ならではの豪快なイベントで、今年が2回目。19日午後3時から4時まで丸亀市民ひろばで「3分間一本勝負」を展開する。出場資格は大人は3分間で5杯以上、子供は3杯以上食べられる人で、勝負は自分の胃袋と勇気の限界に挑戦する相当厳しいものになりそう。今年は大人23人、子供21人が出場。自慢のノドならぬ胃袋と食道に挑戦する。ちなみに去年のチャンピオンは大人で10杯、子供で6.3杯。はたしてこれ以上の記録が生まれるかどうか興味あるところ。主催の丸亀お城まつり協賛会、丸亀製麺組合などでは、この催しをゆくゆくは全国規模の大会に育て上げたいと頑張っている。

 麺の大食いイベントとしては岩手県花巻市の「わんこそば全日本大会」が歴史も知名度も規模も最大級ですが、丸亀の「うどん早食い」は残念ながら今のところ、全国規模にまでは発展していないようです。優秀なプロモーターに頼んでテコ入れしてもらったらどうでしょう。

つくば万博会場で讃岐うどんを“通信PR”

 この年(昭和60年、1985年)の3月16日から9月17日までの6ヵ月間、茨城県で「つくば科学万博」が開催されました。「科学万博」なので科学の最先端のいろんなものが出展したわけですが、そこに引っ張り出された「讃岐うどん」は、「香川のうどんと万博会場を通信衛星で結んで中継する」というものでした。

(5月23日)

手打ちうどん王国をPR 「INSつくば号」、科学博会場へ実演中継

 本場讃岐の手打ちうどんをつくば科学万博会場に。高松市屋島中町の四国民家博物館(四国村)で22日、日本電信電話(NTT)の衛星中継車「INSつくば号」が手打ちうどん実演を中継、”讃岐の顔”が赤道上3万6000キロにある通信衛星さくら2号を経て筑波の「でんでんINS館」に送られ、会場を訪れた全国の人たちに紹介された。

 「INSつくば号」は全国を巡回、各地の伝統工芸、名物を紹介しているもので、四国路では今月12日の土佐和紙を皮切りに徳島、愛媛でそれぞれ活躍。この日、四国村には衛星通信装置を乗せた通信車両、テレビカメラや音響機器などを乗せた演出用車両の2台の「INSつくば号」が登場した。中継は午前10時から午後5時まで、昼の休憩時間を挟み1回15分ずつ13回の生中継で、讃岐うどん研究会の佐々木正夫副会長(作家)が解説を担当。四国村にある手打ちうどんの店「わら家」の職人さんと一緒に、”手打ちうどん王国讃岐”をPR。一方、科学万博の「でんでんINS館ホール」では、会場の人たちが讃岐から送られてくる画像を先生役に手打ちうどん作りに挑戦、ニューメディア双方向テレビを使った企画を楽しんだ。

 年配の方には懐かしい、NTTが推進を始めた「ニューメディア」です。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌に続く「INS(高度情報通信システム)」とやらを使った“新しい媒体”との触れ込みで、「キャプテンシステム」がその代表として一時話題になりましたが、何か上手く普及しませんでしたね(笑)。

第4回「さぬきうどんまつり」開催

 恒例の「さぬきうどんまつり」が開催されましたが、内容は第2回からコピペみたいになってきました。「さぬきうどんラリー」の協賛広告ページにも、うどんのコラム的な文章は全く載らなくなってきました。

(6月21日)

食べ歩きも面白い さぬきうどんラリー、50店でスタート 21日間、豪華景品楽しみ

 さぬきうどんまつりは今年で4年目。その一環行事として「第5回さぬきうどんラリー」(四国新聞社、県製麺組合連合会主催)が20日から始まり、来月10日までの21日間、県下のうどん店50店で行われる。期間中、のぼり掲揚の参加店でうどんを食べて、応募券を各店設置の投票箱に投函すると、特賞としてハンドクリーナーかポケットカメラが100本、ラッキー賞が900本、計1000人に当たる。抽選は主催者で行い、当選者は来月25日の紙面で発表される。

 また、協賛行事として「第3回母と子のうどん料理コンクール」の作品を募集中。母と子で作ったさぬきうどんを主体とした料理が条件で、応募資格は中学生までの子供1人と母親。30日必着で締め切り、書類審査の上、優秀作品18点を選出。来月13日、高松市民文化センターで料理実習審査と表彰式を行う。このほか、来月2日の「さぬきうどんの日」には、高松市番町の中野天満宮で献麺式、三越高松店前でうどんのチャリテイ―無料接待が行われる。

S60年広告・さぬきうどんまつり

S60年広告・さぬきうどんラリー1

S60年広告・さぬきうどんラリー2

S60年広告・さぬきうどんラリー3

S60年広告・さぬきうどんラリー4

 「献麺式」と「料理コンクール」の記事は以下の通り。

(7月3日)

うどん王国”発展誓う
1000食を無料接待 県製麺組合、献麺式などPR作戦

 2日は半夏生、うどんの日。県製麺組合連合会(鳥塚晴見会長)は高松市内で献麺式を行うとともに、三越高松店前で1000食分のうどんを無料接待、うどんの日をPRするとともに、”うどん王国”のさらなる発展を誓い合った。

 半夏生は田植えが一段落する時期で、讃岐地方ではこの日だけは農作業の手を休め、うどんを打ってその年の豊作を願った。この習慣から、県、県製麺組合連合会、四国新聞社では3年前から半夏生の日を”さぬきうどんの日”として、この日を中心にうどんにまつわる諸行事を催している。今年4回目を迎えた献麺式は午前11時から高松市番町の中野天満宮(吉本隆平宮司)で行われ、鳥塚会長ら役人6人が参列、拝殿内で打ったうどんを神妙な顔つきで奉納、業界の発展を祈願した。

 続いて午前11時半から三越高松店内で冷やしうどんを通行人に無料接待。役員15人がそろいの法被、ネジリ鉢巻き姿で奮戦、のど越しもさわやかな冷やしうどんに通行人たちも「えっ、今日はうどんの日なの」といいながらも大喜び。中には2杯、3杯とおかわりする人もあって、あいにくの悪天候にもかかわらず、用意した1000食分は1時間半でさばかれた。また接待には香出知栄美さん(20)ら3人の源平フレッシュギャルクイーンエイトがあたり、花を添えた。

 内容は例年と同じ。7月2日の「さぬきうどんの日」は、「県と県製麺組合連合会と四国新聞社が昭和57年(1982)に制定した」という話が毎年書かれていますが、なぜか今は「昭和55年(1980)に本場さぬきうどん協同組合が制定した」という話になっています。

(7月14日)

最優秀に泉さん親子 うどんまつり、腕自慢集い料理大会

 さぬきうどんまつり(県製麺組合連合会、四国新聞社主催)の最終を飾る第3回「母と子のうどん料理コンクール」が13日午後、高松市松島町の市民文化センター料理室で開かれた。参加したのは書類審査にパスした中学生以下の子供と母親の18組30人で、日ごろの腕自慢を存分に発揮、中には父親や祖母の応援姿もみられた。「大橋時代を間近に控え、おいしい讃岐うどんを全国の人たちに食べてもらおう…」との主催者側のあいさつ後、野菜を切ったり油で揚げたり話し合いながら仲よく調理、彩りも鮮やかにバラエティーに富んだ作品が次々仕上げられた。この間、北川保夫北川料理学校長、柳本誠一県製麺組合連合会副会長、今村慶夫四国新聞社広告局次長ら審査員5人が味、アイデア、盛り付け、母子の協力度などにわたって厳正に採点した結果、次の通り入賞が決まり、賞状と商品がどっさり贈られた。

【最優秀賞】冷やしうどん豆乳蒸し
【優秀賞】スタミナ中華うどん、うどんのまぐろソースかけ、和風チャンポン…(以下略)

 こちらもちょっと、受賞作品がマンネリ気味になってきたかも(笑)。

「乾麺デー」に丸亀町で「そうめん流し」開催

 全国の乾麺業界が7月7日を「乾麺デー」と設定していたそうで、それを受けて県製粉製麺協同組合が高松市の丸亀町商店街で「そうめん流し」をやりました。

(7月8日)

高松・丸亀町商店街にそうめん流し出現 「乾麺デー」PR、無料、買い物客ら大喜び(県製粉製麺組合)

 「七夕の日は乾麺デー、そうめんをどうぞ」。高松市丸亀町の中国銀行高松支店前に7日、そうめん流しが登場。無料試食会が催され、買い物客らが涼を満喫した。県製粉製麺協同組合が乾麺デーのPRにと催したもので、今年2回目。平安の昔、七夕に糸のような麺を食べると機織りが上達するというならわしがあったことから、「ヒヤムギ、そうめんの消費拡大を」と全国の乾麺業界が5年前に七夕の日を「乾麺デー」と設定、キャンペーンに乗り出している。この日午前11時から行われたそうめん流しは、県組合の青年部(川田明義部長)が担当。青竹を半分に割った即席そうめん流しで野趣もたっぷり。家族連れらが午後4時過ぎまで入り代わり立ち代わり立ち寄りツルツル、夏の味覚を堪能するとともに、乾麺類の無料配布に大喜びだった。

 過去の新聞記事で明らかになったように、香川のうどんは戦後からしばらく「干しうどん、冷や麦、そうめん」の「乾麺文化」が隆盛だったのですが、この頃はもう「干しうどん」はほとんど話題に上らず、乾麺のPRも「冷や麦とそうめん」の2本立て。さらにイベントは「そうめん流し」だけで、「冷や麦」も表舞台から消えていきそうな気配です。

「さぬきうどん研究会」が県産小麦と外国産小麦のうどん食べ比べイベントを身内で開催(笑)

 「さぬきうどん研究会」が、地粉(香川県産小麦)で作ったうどんと輸入小麦で作ったうどんの食べ比べイベントを行いました。

(7月8日)

やっぱり讃岐小麦が一番 うどん研究会が食べ比べ(仲南)

 さぬきうどん研究会(真部正敏会長、会員150人)が6日、仲南町買田の水車うどん(谷文雄さん経営)で、うどん研究会を開催、讃岐で収穫した小麦粉でうどんを作り試食、地粉のうまさを再確認した。

 この日のうどん研究会には、真部会長ら会員40人が出席、真部会長が「うどんは讃岐人を作った健康食です。粉さえあれば手軽に作れるので、大いに食べましょう」とうどん食を推奨した後、谷文雄さんが「うどんは讃岐で収穫した小麦から作るのが一番うまく、味良いです。讃岐人は生まれながらにうどんの味がわかる口を持っているので、話よりまず作り、試食しましょう」と呼びかけた。参加者たちは4、5人のグループに分かれ、地粉と輸入粉のうどんを別々に作ったり、地粉、輸入粉を混ぜたりして、手打ちうどんづくりの腕を磨いた。

 グループ別に作ったうどんは別々に釜でゆで、出来上がり、味などについて比較、会員から「地粉の色は悪いが味が良い。讃岐の男性と一緒」というユーモアたっぷりの意見が出されるなど、地粉の良さを再認識していた。

 「さぬきうどん研究会」は設立当初から「県産小麦と手打ちで作ったうどん」を推進しており(「昭和59年」参照)、県産小麦と輸入小麦の食べ比べといっても、いきなりあいさつで「うどんは讃岐で収穫した小麦から作るのが一番うまく、味良いです」と言い切っちゃってます(笑)。同研究会の会員40人だけが参加した食べ比べイベントなので「地粉はうまい」という意見が出るのは当然ですが、一般県民に食べ比べさせて意見を集めたかったですね。

 加えて、「さぬきうどん研究会」の活動がもう一つ新聞記事になっていましたので並べておきます。

「さぬきうどん研究会」が「さぬきうどんを考えるシンポジウム」を開催

 「さぬきうどん研究会」が「さぬきうどんを考えるシンポジウム」を開催し、県下の農協婦人部と生活改善クラブの女性を中心に865人から採った「讃岐うどんに関するアンケート」の結果をもとに、「県産小麦、手打ち」の讃岐うどんの普及運動を進めています。

(9月29日)

文化遺産と位置づけ 小麦は県産、技法は手打ち さぬきうどんを考えるシンポ、調査結果発表

 うどん好きの香川県民は、讃岐うどんを文化遺産としてとらえ、原料には県産小麦を使い、技法はあくまで手打ち、添加物は使用しないよう望んでいる…こんなアンケート調査結果が28日、高松市中野町の讃岐会館で開かれた「さぬきうどんを考えるシンポジウム」(さぬきうどん研究会、県製麺組合連合会主催)で発表された。調査を実施したさぬきうどん研究会(会長・真部正敏香大教授)は、多くの県民がうどんを文化的に位置づけていることに注目、うどんの文化をより発展させ、次代に継承できる方向で会の活動を強化したいとしている。

 この調査は、同研究会の会員で県消費者問題懇談会委員の織田雅子さんらが中心となり、この8月に実施したもので、サンプルは高松市を中心に東讃、西讃の865人。農協婦人部や生活改善クラブに協力を求めたため80%強が女性となったが、年齢層は20代から60歳までバランスよく配分されている。15項目に上る設問の柱は、うどんのイメージと展望。その前提となるうどんの好みの度合いは「大変好き」「どちらかといえば好き」を合わせると93.7%に達し、「うどんから離れられない香川県民」という立場をまず鮮明にしている。

 イメージに関しては、「讃岐が誇る伝統食」と受け止めている人が40%、「香川の気候、風土が生んだ素晴らしい食べ物」と考える人が23%。過半数を大きく超える人たちが「後世に伝えるべき食文化」と位置づけている。これは「手打ち」へのこだわり方にもよく表れており、70%近くが手打ちを求めている中で、特に「伝統的文化遺産だから」という理由を挙げてのものが48%を占めている。注目されるのは、県産小麦に対する意見「地粉を使って特色を出すべき」が39.4%を占め、27.3%もの人が「そのことが県内農業の発展にもつながる」との考えを示している。また、袋入りうどん玉の消費者は味や値段よりも「無添加のうどん」を求めており、「安全」に対する高い関心をうかがわせている。

 この調査結果は、この日のシンポで「消費者からみるさぬきうどん」と題し、織田さんがリポートしたが、真部会長は「文化的位置づけが定着していることが改めて確認された。これを受けて手打ち技術の家庭への普及や県産小麦の改良、普及運動をさらに強化したい」と話している。

 アンケート結果によると、まず、うどんについて「大変好き」と「どちらかといえば好き」を合わせて93.7%もあったということですが、これからいくと残りの選択肢はおそらく「どちらかといえば嫌い」と「大嫌い」だと思われますから、その4択ならどこの県でアンケートを採っても8割以上がそうなりそうな気もします(笑)。また、手打ちも「絶対手打ち、どちらかといえば手打ち、どちらでもいい、どちらかといえば機械打ち、絶対機械打ち」という選択肢なら、まあ70%くらいは「手打ち」になるでしょうから、このあたりはまあ想定内の結果。ただし、「地粉を使って特色を出すべき」が39.4%を占めていたというのは、逆に6割が「地粉でなくてもいい」と答えたということではないかと(笑)。また、27.3%もの人が「そのこと(地粉を使うこと)が県内農業の発展にもつながる」と答えたということは、7割以上の人が「讃岐うどんに地粉を使っても県内農業の発展にはつながらない」という考えを示したのではないかと思います。残念ながら記事では設問の詳細と結果の詳細がわからないので何とも言えませんが、アンケートというのは「設問と選択肢でどうにでも“答え”が出せる」という性格もありますから、何となく、「さぬきうどん研究会」の目指している「「県産小麦、手打ち推進」のための“答えありき”のアンケートのニオイがしないでもありませんが…(笑)。

いろんな方々の「讃岐うどん話」が続々

 昭和60年の四国新聞には、いろんな方々の讃岐うどんに関する話がたくさん載っていましたので、順不同で再掲します。まずは、郷土が生んだ料理研究家の土井勝先生のインタビュー記事の中に、讃岐うどんに関するコメントがありました。

(1月14日)

連載「忙中閑談」…料理家・土井勝氏

…(前略)
ーーところで、讃岐ではうどんですね。昼食などサラリーマンはうどん党ですよ。県下に3000軒といいますからね。

 「上方風とか、しゅうゆダシとかいろいろありますが、昔とはかなり味が変わってきた。何かコトがあるとすぐうどんを打ったものです。まず昔と異なるのは、粉ひきです。昔は石臼ですが、今は回転の速い機械です。だから粉から違います。塩分は、冬は塩は三、夏は六という割合です。味の出る大切なところは打つところじゃないのです。塩水を混ぜてすぐダンゴにして機械で押してしまうから、においがなくなる。昔は細かくさばいてそれをよく練りながら一つにして足で踏み、ねかしておいて伸ばす。足で踏むから素子がこわれず、においが残る。打つまでが味づくりのコツなんです」

ーー「おじいさんが打ったうどんがうまい」というのは、その基本が行われているからでしょうか。

 「香川大学の真部先生が中心になってうどんの基本を残そうと研究会が出来て、たのまれて名前を連ねていますが、基本を大切にすることは大量生産時代にはムリでしょうが仕方ありません。昔、西讃の某うどん屋で立ち食いみたいなことをした。宮田輝さんが、どこにいいうどん屋があるかと聞かれ、そこを教えたんです。当時は基本的なつくり方でしたね」…(以下略)

 土井勝先生もきっと、「県下にうどん屋3000軒」という“マユツバ情報”をマスコミや識者から聞かされてきたんですね。県の商業統計のような地味なデータより、マスコミや識者から出てくるコメントの方が“事実”になっていくという、そんな時代だったのかもしれません(今もそうかもしれませんが)。ちなみに、土井先生も讃岐うどんについては「機械打ち」より「手打ち」を評価しています。

(1月20日)

連載「讃岐人物風景」…有馬忠三郎

(前略)…
父親以上に叔父の忠三郎に面倒を見てもらったという山田三佐子さん(52)=高松市高松町=は「叔父は帰って来ると、仏壇を拝んで、必ずうどんに生じょうゆをかけて食べるのが習慣でした」。うどんを食べ終わるまでは決して次の行動は起こさなかったという。…(以下略)

 有馬忠三郎先生は明治の著名な弁護士で、現在の東かがわ市出身。「法事にうどん」の話はよく出てきますが、有馬先生は「仏壇を拝んだらうどん」だったそうです。

 続いて、綾南町長と綾上町長の対談記事の中に「うどん」が出ていました。

(6月7日)

綾南町、綾上町の町長対談/欠かせぬ臨空産業の展望 個性派名産づくりも、「綾南うどん」「綾上ドジョウ汁」

(前略)…
ーー 名物についてはどうか。
村山 綾南町はうどんを一番に挙げたい。わが町はうどん発祥の地ともいわれ、何とか本場のうどんを使って町の名を売り出せないかと思案している。
三居 綾上町は今でも、なにかあると決まってドジョウ汁を作っている。以前マスコミにも紹介されたが、「綾上に行けばうまいドジョウ汁が食える」、そんな形で売り込みたい。
…(以下略)

 これまで、うどん発祥の地は「琴平町」しか出てきていませんでしたが、ここで初めて新聞に「うどん発祥の地・綾南町」が出てきました。しかも、綾南町長が「わが町はうどん発祥の地と言われ…」と発言しているということは、昭和60年以前に綾南町は「うどん発祥の地」を名乗っていたか知られていたということですが、「うどん発祥の地・綾南町」がいつ言われ始めたのかについては、残念ながら新聞からは窺えません。

 一方、綾上町長は「ドジョウ汁(うどん)」をかなり推しています。綾上町は以前から「ドジョウ汁の里」を名乗っており、町内には「ドジョウ会」なるグループも活動するなど(「昭和59年」参照)、長尾町を凌ぐ勢いでドジョウ汁を売り出していましたが、実は昭和59年の新聞に載った「首長の味自慢」で、長尾町長は長尾町の味自慢をちゃんと「ドジョウ汁」と答えていたのに、綾上町長は綾上町の味自慢に「マツタケ」と答えていました(笑)。

県農業試験場主任研究員の多田さんは「讃岐うどんのお目付役」

 これまで何度か四国新聞に登場した県農業試験場主任研究員の多田さんが、「讃岐うどんのお目付役」というキャッチフレーズで紹介されていました。

(3月3日)

連載「ぴーぷる100万人」…讃岐うどんのお目付け役 多田正敏さん(県農業試験場主任研究員)
うまさの秘密立証

 麺類で「特産品」「名物」「本場」などの名が許されているのが信州そばと札幌ラーメンと讃岐うどんとか。うどんといえば讃岐。この名が全国にとどろき渡ったのはいつのころからか。弘法大師が唐の国からひそかに持ち帰った製法ゆえに、「いや、高松藩祖松平頼重公に由来する。こんぴら参り、戦前までの夜なきうどん」、「なんの、昭和38年の高松駅構内の立ち食い店開業が火付け役さ」など、かまびすしい。

 いずれにしろ、“うどんは別腹”。日に一度うどんがノドを通らないと落ちつかぬ讃岐っ子ばかりでなく、転勤族もツルツル、ツルツル。うどん王国を示す県民一人当たりのうどん消費量は年間380玉。全国平均の3倍強、うどん屋の数は正確な統計ではないが、4000軒とも4500軒ともいわれる。ことほどさように、讃岐っ子が愛するうどん。うどんの魅力はと問えば、「腰の強さ」「ノドごしのしこしこ感」「歯ざわり」「手作り感」「ざるが一番」「いや、湯だめ」と百万県民総うどん評論家の体(てい)。

 「手打ちうどんがうまく、機械打ちがまずいのはグルテンの方向性。すなわち、タンパク質の輪が切れてボロボロになり、あのしこしこ感がなくなってしまうからです」と多田さん。名人芸手打ちうどんのうまさの秘密を初めて科学的に立証した。もう15年も前のこと。以来、うどん品評会審査員、讃岐うどん研究会の副会長と、うどんとの付き合いは長い。最近、うどん士認定制度や讃岐小麦を使った真性さぬきうどんへの挑戦で再び脚光を浴びている。

 「農試に奉職したのが昭和23年。高松工業学校の工業化学科卒業後、山口県下で航空機の潤滑油を作っていましたが、就職したその年に終戦、3年間ほど“五反百姓”に帰っての後でした」。農家の出に加えて根っからの研究肌。身をおいた農産物加工の分野では水を得た魚。十徳草(豆科)の利用、米こうじの試験など、日に夜を継いで試験管、顕微鏡と取り組んだ。そして41年「小麦の利用価値を高めるには、外見から品質をつかむだけでなく、実際にうどんにまでして元麦(げんばく)の善しあしを極めなくては」とうどんに取り組み、500万円でパンの味向上に使われたという西独製の試験機械を導入するよう意見を出した。「当時、500万円といえば一軒の家が買えました。上司もびっくりしていましたが、讃岐うどんのためならと」。その後、4年ががりで手打ちうどんのうまみの分析はもちろん、うまい機械打ちへの製造工程の改善技術をも開発した。

 「43年に業界が取り決めたゆで麺の表示に関する公正競争規約では、“加水、熟成させた後、麺棒で圧延し包丁で裁断、これをすべて手作業にすること”とあります。手打ちとはいっても全部手作業でしているところは今ではほとんどありません。大切なのは実際に麺棒を使っているかどうかです。25キロ入り袋を5袋以上使っている店は、とうてい手打ちは無理。おいしいうどんはしこしこ感。あれは麺棒によってうどんの組織がアンバランスになり、スルメのように一定方向に裂けるということがなくなるからです。しこしこ感は粘り、弾力なども伴います。硬いだけ、太いだけが讃岐うどんではないのです。それに、うまいうどんは何といっても打ちたて。おいしさは分、秒の単位で逃げていくもの。10分ごとにうどんの値段が変わっても不思議ではありません」。

 うどんの生い立ちからうまさの分析、とどまることを知らぬ口調からも、うどん一途が窺える。発ガン性のある過酸化水素水の使用禁止で業界全体が生うどんの保存、殺菌に頭を痛めた57年には、「脱酸素剤と加熱殺菌の併用が有効」と突き止めた。さらに今年度(59年度)からは63年度までの5カ年計画で、現在90%を占めている讃岐うどんの原料の外国産小麦でない、中力粉と呼ばれる県内産小麦を使った“真性讃岐うどん”作りに取り組んでいる。今後の研究課題は、時間が経つに従って失われる風味。まさにうどん博士であり、うどんの救世主である。「うどん作りも我々の研究も同じ。研究者、職人は妥協しては駄目、一途でなければ。手打ちならぬ手抜きは水うどん、のりうどん、いただけません」。高松市松並町で妙子夫人と2人住まい。56歳。家の外へ一歩出ればうどんとの付き合い。家庭では決してうどんを打たないとか。

 四国新聞の記者による記事ですが、讃岐うどんの起源については「弘法大師が唐の国からひそかに持ち帰った製法ゆえに」と断定(笑)。さらに、うどん店の数は「4000軒とも4500軒ともいわれる」というのが記者の見解です。

 さて、「讃岐うどんのお目付役」の多田さんがここで主張しているのは、

●機械打ちはタンパク質の輪が切れてボロボロになるため、まずい。
●すべての工程を手打ちで行っているうどん店は今ではほとんどないが、そういう状況の中で大切なのは「麺棒を使っているかどうか」である。

の2点のようです。今では出来の悪い手打ちの店もあれば(職人の腕が未熟)、平凡な手打ちをはるかに上回る機械打ち麺もいくつも登場していますから、当時の「機械打ち」はまだ技術が未熟だったということかもしれません。

中国陝西省への友好の旅で、讃岐うどんを振る舞う

 続いて、香川県の訪中代表団が中国陝西(せんせい)省の省都西安市を訪れた時のレポートの中に、「うどん」に関する記述がありました。陝西省と香川県は“空海つながり”で平成6年(1994)に友好提携が結ばれましたが、その9年前の“友好の旅”です。

(4月29日)

友好の旅9000粁・県訪中代表団同行ルポ
空海と恵果へ献めん、売り込む讃岐、異国で古里の味

 西安市の祝賀会で、日中合わせて200人の出席者に讃岐うどんが出た。“こし”のある本場のうどんは久しぶり。異郷の地で食べただけに、味は格別だった。さっそく、「味はどうだ」と西安側参加者にインタビュー。

「うまい。二杯食べたが、量が少ない。次はドンブリで頼むよ」
「あっさりし過ぎている。陜西省の料理は、辛くて、酢っぱい。味を濃くすればいいと思う」
「我々は麺類が好き。西安で売り出せば人気が出るよ」

 外交辞令的感想もあったが、おおむね好評。食べ残した人はいなかった。この200人のだし付きうどんは、高松市で製麺業を営む泉川賢さんが、はるばる西安まで運び込んだ。祝賀式であいさつに立った泉川さんは「うどんは太くて、長い。日本と中国は、うどんのように太く、永遠の有効が続くよう祈念する」と述べ、拍手を浴びた。

 県下では「うどんは空海ゆかりのもの」と言い伝えられている。西安で学んだ空海が、唐菓子、あるいは小麦を持ち帰ったのがうどんのルーツとの説だ。讃岐には約4000ものうどん店があり「1日に一度はうどんを食べる」という讃岐っ子は数多い。

 いつの日か西安を訪ね、恵果阿闍梨像や空海像に献麺し、その遺徳をしのびたいと念じていた泉川さん。「四国西安友好旅の翼」の一員に加わって訪中、桜の植樹式があった5日、「空海・恵果記念堂」で献麺式を盛大に取り行い、長年の夢を果たした。陜西省の人たちの6割は、主食が麺類だという。讃岐うどんを持ち込んだ泉川さんは「合弁でうどん店をやろう」と西安市当局に誘われていた。税制、雇用面などの問題点が解決すれば、中国に讃岐うどんが出店する日が来るかもしれない。…(以下略) (文・吉田良稲記者)

 四国新聞の吉田記者は、「讃岐には約4000ものうどん店がある」との認識のようです。ちなみに、文中にある西安まで200人前のダシ付きうどんを運び込んだ「泉川さん」は「かな泉」の社長。西安市当局から「合弁でうどん店をやろう」と誘われていたそうですが、どうなったんでしょう。

絵物語作家・山川惣治さんの寄稿文に多度津の「平野屋」の名前が登場

 続いて、絵物語作家・山川惣治さんの寄稿文に出てきたうどん店の記述。

(3月29日)週末ガイド

旅と食事/初めて食べた讃岐うどん(絵物語作家・山川惣治)

 (前略)…
 多度津にある日本少林寺拳法本部を訪ねた時、その壮麗雄大な建築と“大雁塔”に感心した。私はかつて「月刊小説王」という文庫版雑誌に「十三妹」を連載した。中国清朝時代の美人拳士で、悪役人の暴政や凶賊、怪物を相手に闘う美女英雄の物語であった。この取材のため、素晴らしい少林寺拳法の道場を訪ね、まるで十三妹のように美しい二代目宗道臣管長にいろいろとお話を伺った。何百万の拳士の管長である彼女に、本山の下の「平野屋」という讃岐うどんの店で、冷やしうどんをごちそうになった。これはうまかった。前に二、三度来た時は、高松で瀬戸内海のタイをはじめ、海の幸のうまさに舌鼓を打ったが、私はそば好きなので、うどんは食べなかった。有名な手打ちの讃岐うどんを、その時、初めて食べて、本当においしかった。

 多度津町の総本山少林寺のすぐ麓にある「平野屋」の名前が出てきました。二代目管長に「冷やしうどん」をごちそうになったそうですが、今度は美しいビジュアルの「きざみうどん」をぜひ(笑)。

讃岐うどん概説のようなコラムが1本

 阿津秋良さんの讃岐うどんコラムがありました。「阿津秋良」さんは四国新聞社の常務だった津森明さんのペンネームだったと記憶していますが、数多くの著作を残した地元の文筆界の重鎮でもあります。

(7月2日)

コラム「赤穂・ソバ・うどん」(秋遥歴史文学会会員・阿津秋良)

 赤穂浪士は、討ち入りに際して「ソバを打って腹ごしらえをした」ということになっている。ところが、「ソバは宵ソバ、うどんは打ち立て」という言葉がある。宵ソバというのは、前夜につくったソバくらいがおいしいというのである。それに対してうどんの方は打ち立て、つまり打ってすぐの方がおいしいということになっている。そうなら関西人の赤穂浪士たちも、討ち入りのときにはソバを作るよりも、すぐに打てるうどんを作っただろうという説も出てくる。うどんづくりのコツは塩加減である。土三寒六といわれ、夏と冬では塩加減が違うのである。それはともかくその塩は当時、貴重品で、赤穂は製塩の先進地であり、吉良家はそのコツを知りたがっていたともいい、事件の遠因も塩といわれる。そういう塩の産地だし、討ち入りに際してはうどんを打ったとする方が正しい気もする。

 今でも関東はソバ、関西はうどんである。昼食をみても東京のサラリーマンはソバが多い。高松などでみると、うどん党である。だから赤穂もうどんであろう。ただ、討ち入りが江戸だし、ソバにした方がわかりやすかったのではないだろうか。落語の「時ソバ」も上方落語では「時うどん」といい、地方によってはその方が理解しやすい。夜泣きソバも、高松では夜泣きうどんだったようである。

 政治家三木武吉のうどん事件も夜泣きうどんだったらしい。高松中学1年のとき、三木は悪童とともに夜泣きうどんを食い逃げしたとして高松中学を追放される。事実はどの程度のものかわからないが、夜泣きうどんになっているところが高松らしさがあって面白い。

 三木もうどんをよく食ったらしいが、大平正芳もうどん党だった。帰郷のたびに打ち立てのうどんを賞味してふるさとの味に浸った。「うどんは別腹」ともいわれ、食事をすませていてもうどんならまた何杯かは食べられるという。昼食時に、ダブル、つまり2玉を食べる人、あるいは特大といって3玉を平らげる人はザラである。

 冠婚葬祭。急ぐときはすぐにうどんを作ったのが讃岐の人であった。しかし外食産業が華やかになり、うどん店が増え、家族で手打ちをする人はめっきり減った。讃岐うどん専門店は県下に500店くらいあるといわれ、うどんを食べさせる店は3000軒といわれている。県下での信号機が1000基なので、うどん店の方が多いということになる。

 ただし、うどん店にもいろいろあり、自分で粉をねり、打ち延ばし切って食べさせる店というのは案外少ない。この頃は練ったダンゴというのを卸す店ができたからだ。また、手で切る店も減り、機械化されている。本当はすべて手作業が”手打ち”の手打ちたるゆえんなのだが、そういう店は今や極めて少ない。

 また、うどんはダシが大切である。「いい味のダシ」とひとくちに言っても、それは店によって異なる。煮干し、昆布、あるいはシイタケといろいろアレンジしてその店の味を作り出している。うどん党の中には「生じょうゆが一番」という人も少なくない。

 その上に薬味だ。独特なのが細ネギである。県下にしか育たないといわれ、特に「郷東ネギ」という高松近辺のものが有名だった。この頃はショウガのみならず、中にはソバを真似てかワサビも出てくる。

 年配の人は今でも、昔うどんを作っていた頃を思い出すはずである。練ったダンゴをゴザではさみ、足で踏むのである。人体の重さくらいがちょうどいいようで、うまく練れる。子供たちにとってこのうどん踏みはいやな手伝いだったが、やがて父親が麺棒でのばし、切り、うどんが出来る。この足踏みによって、化学的によい練り具合になるという。

 うどんの食べ方は、これまたいろいろとあるが、通は釜揚げがうまいという。また、ゆだめ、冷やしとかあるが、要はダシを別に作り、つけて食べるか、かけうどんにするかの大きく分けると二つのパターンがある。

 ザルうどんもダシにつけて食べるが、夏は冷やしうどんがよい。この冷やしなどは、3分の1をダシにつけ、嚙まずに一気にすするのが本来の食べ方という人もいる。

 真夏の頃に作るドジョウうどんは、これは冬の打ち込みと同じで、うどんに塩気が含まれていない。みそ汁の味によって味なしうどんを食べるのである。

 てんぷら、月見、山かけ、ワカメ……といろいろあるが、素うどんがうまくないとその店はおいしくない。うどんの本当の味は「素うどんの味」なのである。

 今作って今食べる。これがうどんの食べ方である。赤穂の浪士たちがうどんをすすったことは、こうしたことからも事実であろうと思う。7月2日は半夏生。田植えが一段落するとうどんを打って祝ったことから、この日を「うどんの日」としている。今年訪中した県知事らの一行は、かの地でうどんを打って人々に披露したとか。連絡船でうどんを売っているが、新幹線の中でもこのうどんを”打ち”、”売って”ほしいものである。

 「赤穂浪士は討ち入り前にうどんを打ったのではないか」という話から、当時の讃岐うどんに関する深い論考ではなく、小ネタ(失礼)をたくさん並べておられます。うどん店の数については「讃岐うどん専門店は県下に500店くらい、うどんを食べさせる店は3000軒といわれている」と、実態に近いと思われる数字を上げていますが、そのすぐ後ろで「信号機が1000基なので、うどん店の方が多い」とあります(笑)。あと、初めて出てきたのは「郷東ネギ」。県下の細ねぎの中でも特に有名だったとありますが、ブランド野菜みたいな名前なのに今はほとんどその名を聞きません。

農業大学校で「うどん研究会」が手打ちうどんの修業

 続いては、農業大学校生活コースの女子学生によるキャンパスレポートです。

(1月23日)

連載「キャンパス情報」…うどん研究会(農業大学校)白川明美代表(生活コース2年)
粉打つ手つき 今では鮮やか

 私たち香川県立農業大学校生活コースでは毎年、讃岐産の小麦粉を使ってうどんを作る農産加工実習の一つとして、“手打ちうどん”づくりに取り組んでいます。手打ちうどんといえば“さぬき”。私たち“さぬきっ娘”が打つうどんは讃岐名物とまではいえませんが、魅力的な腕が太くなるのも辛抱しながら、農大名物の太くてこしのあるうどんを次から次へと打ち上げています。私たちは将来の家庭生活を考え、手打ちうどん修業に励んでいます。手打ちうどんが打てるすてきな花嫁候補の私たちをぜひどうでしょうか…と売り込みたい。

 今までうどんを自分で打ったことのない私たちが、農大に入学してから穴吹吉夫先生の指導のもと、慣れぬ手つきでうどん粉をこねたりしています。初めのうちは要領が分からず、なかなか上手に固まりませんでした。それでも何回か繰り返してるうちに固まるようになりました。固まったところで、今度はビニール袋に入れて踏んではまるめ、踏んではまるめます。5回以上繰り返した後、2、3時間袋の中でねかし、めん棒で伸ばします。この作業が一番難しい作業です。自分では一生懸命に伸ばしているつもりでも、広げて見ると全然伸びていないこともしばしばあります。それでも私たちは、穴吹先生の手つき、しぐさを見ながら上達、今ではアッという間に薄く伸ばし、トントンと包丁の音も軽やかに切れるようになりました。頃合いのうどんが出来上がったところで大釜の湯の中に入れ、12分程度ゆで、冷水にさらしておいしいうどんを作り上げます。農大うどん名物の試食には、前場重信校長先生をはじめ、男子学生もわれ先にと詰めかけ、顔を見合わせながら笑顔で食べてくれ、私たちをほっとさせてくれます。

 農業大学校の農産加工実習で「手打ちうどん作り」が行われていたそうですが、「讃岐産の小麦を使ってうどんを作る」とありますから、「さぬきうどん研究会の行政も巻き込んだ「県産小麦推奨運動」の一環かもしれません。ちなみに、レポート内に「私たちは将来の家庭生活を考え、手打ちうどん修業に励んでいます。手打ちうどんが打てるすてきな花嫁候補の私たちをぜひどうでしょうか」という一文が。かつて、讃岐には「うどんが打てないと嫁に行けない」という言い伝えのようなものがありましたが、さすがに昭和60年時点ではそんなことは言われてなかったと思いますので、「うどんも打てる素敵な奥さん」という感じでしょうか(笑)。

 さらに今度は上戸女子短大で、「さぬきうどん研究会」のうどん打ち指導が一件。

(10月25日)

名物の手打ちうどん実習、出来栄えは上々(上戸短大)

 上戸学園女子短期大学(上戸崇学長)食物栄養学科1、2年生20人が24日、”さぬき小麦粉”を使って手打ちうどんの加工実習を受け、出来立てのうどんで近くの特別養護老人ホーム「とがみ園」を慰問した。うどん加工実習では、さぬきうどん研究会員で水車うどん店主の谷文雄さん(仲南町買田)の指導で20人が慣れない手付きで小麦粉のねり方、足踏みによる延ばし方、麺棒の使い方などの指導を受け、200玉のうどんを作り上げた。食物栄養学科の学生だけあってコツの飲み込みが早く、うどんは上々の出来栄え。伊佐良信食物栄養学科教授は「手打ちうどんは讃岐の名物。食物栄養学科の学生にはうどんの作り方を教えておきたいと思って手打ちうどん加工実習を催した」と話している。

 「さぬきうどん研究会」、獅子奮迅の活躍です。産(麺組合やうどん店)・官(県行政)・学(香川大学)が組んでいるので、活動もマスコミ報道も盛んに行われているようです。

ミス高松たち3人の女性の「うどんインタビュー」記事ですが…

 「さぬきうどんラリー」のスタートに際して、ミス高松と「源平フェスティバル」のフレッシュギャルクイーンの女性3人に讃岐うどんに関するインタビューをした記事が載っていました。

(7月2日)

讃岐美人はうどん好き ミスが語る”おいしさ” うどんラリー始まる
「うち込みが最高」(○○さん)、「絶対ワカメ入り」(△△さん)、「なべやきに魅力」(□□さん)

 うどんといえば讃岐。この名が全国にとどろき渡ったのはいつの頃からだろうか。弘法大師が唐の国からひそかに持ち帰った製法ゆえ、いや高松藩主頼重公に由来する、こんぴら参り、戦前までの夜なきうどん、昭和38年の国鉄高松駅構内の立ち食い店開業が火付け役…など諸説ふんぷん。いずれにしろ”うどんは別腹”。日に一度うどんがノドを通らないと落ち着かぬ讃岐っ子ばかりでなく、転勤族もツルツル、ツルツル。

 うどん王国を示す生麺の一世帯当たり消費量も「1カ月に750円」と、全国平均のほぼ2倍。うどんはまさに讃岐人の県民食。香川県、県製麺組合連合会、四国新聞社が7月2日の半夏生を「さぬきうどんの日」と提唱して今年で4年目、県下のうどん店を対象に実施してきた「うどんラリー」は「うどんの日」に先がけて行われてきており、今年で5回目。「うどんの日」を機会に、ミス高松、源平フレッシュギャルクイーンエイトに登場願い、うどんの魅力を披露してもらった。…(以下略)

 以下、3人の女性が「うどんは温かく食べても冷たくしてもおいしいわ、打ち込みなんて最高」、「夏はザル、冬はワカメうどん。表面が輝いてるうどん。私は好きです」、「ザルとなべやき、それぞれに魅力が」とコメントしていましたが、記事の冒頭の一節、「どこかで見たことあるぞ…」と思ったら、前出の多田正敏さんのインタビュー記事(3月3日付け)に、

 麺類で「特産品」「名物」「本場」などの名が許されているのが信州そばと札幌ラーメンと讃岐うどんとか。うどんといえば讃岐。この名が全国にとどろき渡ったのはいつのころからか。弘法大師が唐の国からひそかに持ち帰った製法ゆえに、「いや、高松藩祖松平頼重公に由来する。こんぴら参り、戦前までの夜なきうどん」、「なんの、昭和38年の高松駅構内の立ち食い店開業が火付け役さ」など、かまびすしい。いずれにしろ、“うどんは別腹”。日に一度うどんがノドを通らないと落ちつかぬ讃岐っ子ばかりでなく、転勤族もツルツル、ツルツル。

とあるじゃないですか(笑)。天下の四国新聞が、わずか4カ月前に書いた原稿を別の記事に使い回ししていました。

8人の「私のお勧めうどんメニュー」が紹介されていました

 「私のお勧めうどんメニュー」という特集記事に、4市のミスと財界人や主婦の8人のお話が載っていましたので列挙しておきます。当時の雰囲気や状況を知る「昭和の証言」的な意味で、どうぞご覧ください。

(7月2日)

特集「私のお勧めうどんメニュー」

郷土料理の良さ知る…ミス善通寺(善通寺市)

 讃岐といえばうどんであるが、私にはうどんというと思い出す体験がある。それは以前ロンドンへ語学研修へ行った時のこと。数週間というものは日本食を食べず、また順応性のあるためか懐かしがることもなかったのであるが、2、3日の予定でパリに旅行した際、なんと偶然にもパリの中心街、それもオペラ座の近くでうどんを見つけたのだ。日本人の経営する日本食レストランなのだが、こちらで食べるうどんの3、4倍はする「高価な」きつねうどんであった。味は関西風の薄味で、まあ美味ではあった。しかし私は懐かしさを感じたというより、むしろ心の中でおかしさを隠しきれなかった。お茶漬けに梅ぼしという話はよく聞くが、私の場合、それがうどんであろうとは! その時ばかりは普段食べ慣れていたはずのうどんというものを改めて見直し、やっぱり私は讃岐人なんだなあ、とつくづく感じ入ったことである。

家でプロの腕に挑戦…ミス坂出(坂出市)

 私の一番好きなうどんの食べ方は”ざるうどん”。天ぷらうどん、カレーうどんなど数多くあり、それらも好きですが、私はうどん自体の素朴な味が良く味わえるものがいいと思っている。つまり、かけうどん、湯だめなどだが、中でも”ざるうどん”はその良さが最も表れているものと思う。出来立ての腰のあるうどんを、北海道の昆布、瀬戸内のイリコなどで作られた出し汁でいただくのは最高。これからの時候がら、ついのれんをくぐってみたくなる。また、時には家でもそれに近づくことを願って玉を買ってきて、出し汁作りに挑戦したりする。普段は身近にあるのでそれほど感じないが、旅行などから帰ってくると、特にうどんがほしくなる。そしして食べてみると、ホッとするものだ。やはり、うどんは私たち讃岐の人たちにとって誇りとするものであり、心の古里だと思う。そして、日本食を代表するものだと思う。

出し汁は少し薄めに…ミス銭形(観音寺市)

 わが家のうどん料理は、ごく一般的なものですが、まずうどんの上に載せる油揚げを、しょうゆと砂糖で甘辛く味をつけておく。ネギは細かく刻み、ショウガはすりおろしておき、揚げ玉、かまぼこ、トウガラシなどを用意する。次に、だし汁は鍋に水を入れ、その中にイリコと昆布を入れて少しつけておき、火にかける。沸騰したらイリコと昆布を取り出して味をつけるが、わが家ではだし汁の中にうどん玉を入れて煮るので、だし汁は少し薄めに味をつける。だし汁の味つけは、塩、しょうゆ、みりん、化学調味料で味を整える。だし汁の中にうどん玉とあらかじめ用意しておいた油揚げを一緒に入れて、強火で一煮立ちさせ、少しうどんに色がついたら火を止めて、鉢に盛る。かまぼこ、揚げ玉、ネギ、ショウガ、トウガラシなど彩り良く盛り合わせれば出来上がる。

おいしい肉みそかけ…ミス丸亀(丸亀市)

 暑くなると、どうしてもさっぱりしたざるうどんや冷やしうどんなどが好まれるが、私の家庭では栄養の面を考え、「肉みそうどん」をよく作る。この肉みそうどんは豚肉を使うので、ビタミンBを補い、夏バテ防止になる。作り方は、まずニラと土ショウガをみじん切りにする。次は、赤みそに砂糖(大さじ3)、酒(同1)、しょうゆ(同1.5)を加え、水(半カップ)を少しづずつ入れてよく混ぜておく。そして、鍋にサラダ油を入れて熱し、ニラ、土ショウガを入れ、さらに豚ひき肉を入れてよくいため、ひき肉の色が変わったら、赤みそに調味料を加えたものを入れ、弱火で7~8分煮て肉みそを作る。温めたうどんの水気をよく切り、その上に肉みそをかけ、ニラの小口切りをのせて出来上がり。熱いうどんに出来たての肉みそをかけるのがおいしい。このみそは、赤だし用のみそがよく合う。また好みもあるから、酢を入れあっさりといただくのもおいしい。みなさんも試してみては?

素朴な昆布の出し汁…阪急産業代表取締役社長(西宮市)

 「さぬき手打ちうどん」と筆太の文字に目がとまると、母親に呼びとめられたような懐かしさがよぎる。うどんを常食にして育った讃岐生まれの者だけが感じる郷愁だろうか。子供の頃になじんだうどんの粉は、村中の水車の回る製粉所で挽かれ、塩は浜の釜場の簀子(すのこ)の上で、にがりを切った荒塩だった。いりこと昆布の出し汁にも、さぬきならではの素朴な風味があった。近年、さぬき名物の一つが花を咲かせたような勢いで、全国どこへ行っても手打ちうどんののれんが翻っている。材料はもとより、昔通りのものが手当て出来ていようとは思えない。それにしてもなお、これほど多くの人々の好みを集めるさぬきうどんの力は、故郷の風土が練りあげた食の文化に深く根ざすものであろう。「さぬきへ行ってきた。本場のうどんはさすがにうまかった」こんな言葉も、他郷にあって聞かされ続けたい。

何でも自己流に調理…県物産協会東京支部次長(横浜市)

 子供のころ、うどんといえば”もん日”にしか作ってもらえなかったが、今日では手軽で、しかもいつでも食べられるようになった。それだけ食べ方にも人により、ひと味違ったうどんメニューを作り、わが家の自慢料理としている方も多いと思う。私もその一人で、休日など家庭ではよく目先を変えた調理法のうどんを作り、楽しんで味わっている。ちなみに、長崎チャンポン式の「焼きうどん」、スパゲティ風にあしらった「バジリコうどん」など熱々を食べるもまた格別である。暑い日など、戦前の満州時代を懐かしみ、ひき肉の味噌炒めにしたアンをかけ、キュウリの千切りをのせた中華風のジャアジャア麺など、おやっと思うほど食欲をそそるうどんに自己満足するのである。うどんは細めに切り、少々かためにゆでたものを使うのがコツである。このように自己流でこじつけた食べ方をすればレパートリーも多くなり、結構楽しいものである。

ふるさとの粉で作る…主婦(高槻市)

 ふるさと「さぬき」を離れて30年を過ぎたが、うどんを打つときほど「さぬき人」を意識する時はない。ご近所の方、また気の合ったグループが寄り合う機会に、あらかじめ作った玉を取り出し、目の前で打って「おいしい」と喜ばれるときはなおさらだ。昨今は丈夫なビニール袋の中で材料をこね、またビニールふろしきを重ねて踏み合わせができるので、手もべとつかず、まことに衛生的で気軽に作る気になれる。ふるさとから取り寄せた粉1キロから4玉を作り、その都度、冷蔵庫から取り出して打ち、夏は「ザル」か「シッポク」、冬は「打ち込み」とうどんに目のない主人とともに、新鮮なふるさとの味をありがたくいただいている。何かといえば手打ちうどんが登場するふるさとの風習を思い出す。

タレにポイント置く…主婦(東京都港区)

 主人の転勤で上京してみると、讃岐うどんに慣れ親しんだ者にとって関東風うどんは耐えがたい味。そこで、パック詰めうどんを使って私なりにアレンジしたのが”風味つけみそうどん”。うどんだけはどうにも代えようがないので、タレをポイントに考えた。ナス、タマネギ、シメジ、カマボコ、油揚げを食べやすい大きさに切り、サラダ油で材料をいためる。最後に塩を一つまみ入れて水を加え、沸騰したらアクをとる。この中に赤3、白1の合わせみそを入れ、混ぜ合わせれば出来上がり。もちろん、うどんはパックから出して湯通しを怠りなく。さして手間ヒマもかからず、一見田舎のみそ煮込みをタレ風で仕上げたところが自慢の料理である。

水車の歴史二題

 水車の歴史に関する話題が2本見つかりました。まずは、「仏生山のそうめん」につながりそうな「三丁の水車」のお話。

(3月19日)

三丁の水車(さんちょうのくるま)(香川町浅野)/文・津森明

 香川町浅野は、人柱の伝説で名高い平池(へいけ)を盟主として大小60のため池が散財する。高松市仏生山町は、高松藩主のぼだい寺・法然寺の門前町として形成された。この街並みと、香川町浅野とは地図のうえでは隣接しているが、かなりの高低差がある。浅野側は丘になっており、「岡の上」の地名がある。この「岡の上」という地名は、仏生山側の人がつけた名称であろう。浅野側からみると、「岡の上」ははるかに低地である。この「岡の上」にかつて「三丁の水車」があり、近郷の人たちに親しまれた。この用水は、平池の水を利用していた。

 平池は治承2年、平清盛の命により阿波民部田中成良が築造したと伝えられ、135万トンを蓄える大きい池。380ヘクタールの水田を潤すが、この平池の水が流れ出て、田畑へ届く前に、水車を回していたのである。上車(かみぐるま)、中車、下車の3軒が営業していたので、昔から「三丁の水車」「三丁の車」といわれていた。いつからこの「三丁の車」が操業を始めたかわからないが、松平頼重が入封したあと、寛文年間に法然寺をつくり、門前町を形成した。その際、頼重は高松城下から各種業者を移したが、その一つとして門前町の基幹産業をつくるためにソウメンを奨励した。ソウメンを作るには小麦粉がいり、その製造業者が「三丁の車」だったらしい。浅野老人会長の谷原正信さん(76)は「門前町の発展とともに、法然寺を不時のさいの城としたとも考えられ、保存食としてソウメンを考えたのかもしれない」といっている。…(以下略)

 綾川水系の水車の話は何度出てきましたが、ため池由来の水車の話は初めてでしょうか。ため池は川と違っていつも水が流れているわけではないので、小麦粉の製粉業者がどう使っていたのか、ちょっと気になります。

 続いてはもっとずっと古く、日本に“水力製粉”が伝わったと思われる頃の資料が見つかったという話が、麺類研究家の小島高明先生の寄稿の中に見つかりました。

(7月31日)

うどんの先祖に初の記述/円仁の入唐食物記(小島高明)

 「うどんは空海が唐から伝えた」と讃岐では広く信じられているようだ。初の伝来者だったかどうかはさておき、空海ら入唐僧たちも、新知識の麺食技法の持ち帰りに一役買ったのはほぼ間違いないと私も思う。その裏付けまでは無理としても、唐で麺を食べた話くらいならどこかにないかと、入唐僧たちの書いたものに注目してきたが、なかなか見当たらない。最近、一つの資料を見つけた。10年にわたって9世紀前半の唐を歩いた円仁の旅日記である。天台僧円仁は最澄、空海渡唐の34年後(承和5年、838年)の遣唐使に加わり、入唐した。…(中略)…開成4年(839年)4月6日の日記に初めて食べ物が登場する。粥(しゅく、かゆ)、餺飩(はくとん=餡を包み込んだ小麦粉団子)などが、県役人との会話の中に出てくる。…(中略)…赤山院では8月15日に餺飩、餅食を作り、祖国新羅の昔の戦勝記念日を祝う。…(以下略)

(8月6日)

すでに水力製粉石臼が存在/円仁の入唐食物記(小島高明)

 …(前略)…7月12日の日記は僅かな字数だが、私の興味と関心にとって最大の生彩部分である。「定覚寺の庄で水磌(すいてん)を見る。三交磌と名付く」と書かれたのがそれだ。水磌は水力による製粉石臼である。三交磌は三臼同時作動の装置だろう。…(中略)…我が国に「水磌」の存在を初めて紹介した人は、円仁と言えそうである。…(中略)…11月26日は冬至節。行事の模様、食事内容が書かれている。「下級僧は上座僧に対し、右膝を地に着け、賀節の詞を述べる。朝食は粥、斉時は餛飩(こんとん=肉などを包み込んだ小麦粉団子。日本に渡来後、うどんの先祖になったとされる)菓子など。…(以下略)

 平安時代に遣唐使で唐に入った「円仁」というお坊さんが、現地で「水磌(すいてん)」という水力で粉を挽く石臼を見たという記録を発見したそうで、これが日本に初めて「水力製粉」の話を伝えた文献ではないかという小島先生の推測です。併せて、うどんの原型と思われる「餺飩(はくとん=餡を包み込んだ小麦粉団子)」と「餛飩(こんとん=肉などを包み込んだ小麦粉団子。日本に渡来後、うどんの先祖になったとされる)」の文字も出てきます。

「長尾の「入谷」のヒストリーが登場

 四国新聞制作センターの完成記念企画で、長尾の「入谷製麺」の初代と二代目のインタビュー記事が載っていました。少し長いですが、「讃岐うどん未来遺産プロジェクト」の「開業ヒストリー」の一環として再掲しておきたいと思います。まずは、先代社長のお話から。

(11月2日)

四国新聞制作センター完成特別記念企画
親から子へ、子から親へ 讃岐に生きる伝統文化

 讃岐の味、といえば、まずうどん。最近は、うどん業者の数も驚くほど増えたが、戦後すぐからうどん作りを始め、その父の後姿を見て育った子が、親から受け継いだものにさらに自分の個性をプラスして、よりよい世界を築いている例がある。長尾町、(有)入谷製麺の入谷操氏と武氏の父子。父を立てながら、なお新しい時代にチャレンジしようとする子。頑固にみえてもその実は子のそうした姿勢を喜んでいる父。二人を訪ねていろいろ語ってもらった。

うちは家族ぐるみだからぜひ三代目まで行きたいね。

入谷操氏
㈲入谷製麺社長。現在71歳。香川県製麺組合連合会副会長、高松東部製麺組合理事長。

毎朝2時からすべて手作り

 昭和16年に応召して旧満州に4年、シベリヤ抑留が4年。香川に帰ってきたのは昭和24年でした。長男が17の時です。子供が多かったから生活のためには早速、何かを始めないといかん。何も技術がないので弱ったな、と考えました。ふと、抑留生活中に戦友から教えてもらったうどん作りを始めたらどうか、と思いつき、やってみたんです。讃岐は、うどんどころ。これはいけるのではないか、と思いました。

 昭和26年、小麦粉の統制が取れた翌年くらいだったと覚えております。だから創業34年というわけですな。家内と二人で、朝は2時頃から起きてうどんを作りました。もちろんすべて手づくりです。1日に600玉ぐらい作りました。どうやったら、もっとおいしいうどんができるか。もっとお客さんに喜んでもらえるうどんができるか。寝ても覚めてもそればかり考えていました。

 さぬきうどんは、昔から土三寒六といって土用と寒では塩加減が微妙に違います。いろいろ工夫して、腰の強い、ツヤのある、うち独特のうどんを作ることに専念しました。粉を手で練る。足で踏む。3回折りたたんで生地ができる。それを麺棒で伸ばしてこま切れにする。生地ができるまでに5時間ぐらいかかります。今でも粉を練る工程だけを機械でやり、あとは全部手作りです。永年のカンで、生地に触れてみただけで麺のできのよしあしがわかりますよ。

家族みんなが研究旺盛

 夏場、冬、湿度の高い季節などそれぞれ、でき具合が変わりますから、その季節季節によって茹で方にも、釜のさし水の加減にも工夫がいるわけです。子供たちが、よう手伝ってくれました。みんな、学校から帰ると、店の手伝いをすすんでやってくれましたなあ。特に、今、店を継いでくれている二男の武は、うどん作りに興味があったようです。学校を出てから東京へ出ましたが、やはりさぬきうどんの店へ入り、いわゆる”修業”の時代を過ごしました。他人の店の経営ぶりを見て、そこで、うちにないいろいろなことを学んでくるのは、その人間に非常にプラスになるものです。

 2年ほど東京にいて帰ってきましたが、それからは二代目として本格的に取り組んでくれています。5人の子供たちのうち、誰かにこの仕事を受け継いでもらいたいと念願していたことが実現したわけで、やっと肩の荷が下りました。今は、父子で二人三脚です。息子も結婚をし、現在、高校生の子供が3人いますが、やはり家族全員で家業に従事できるのは、ほんとに幸せです。研究は常に怠りませんよ。息子とはもちろんのこと、家族みんなでもっとああしたらいい、こうしたらいい、と毎日話しています。

機械化では息子に負けて

 私の時代は製造卸一本でやってきたんですが、息子がやるようになって、セルフサービスで「作ってすぐ食べてもらう店」に衣がえしました。「製造卸だけでええ。機械はいっさい使わん」とずいぶんがんばったんですが、とうとう息子に負けた次第です。時代の流れというのは無視できない部分がありますからなあ。それに、創業当時の数倍の生産量になっている現在としては、粉を練る工程だけでも機械化したい、という息子の意見は当然でしょう。また、セルフサービス、直販の店がこれだけ増えたということは、お客さんの希望がそれだけ多いということですから、この需要傾向に逆らうこともできません。

 現在では、これでよかったと思っています。作ったうどんを目の前ですぐに食べてもらうのは、お客さんの反応が直ちに返ってくるので楽しみでもあります。それだけに、ますます麺の質の向上にがんばらないかんと思ってるわけですよ。家族と従業員5人でやっていますが、息子と相談しては、うどんの品評会に出し、そのたびにいい賞を頂いて、面目を施しています。

続けて欲しい挑戦への姿勢

 
 息子には、これからの時代に向かっていろいろ夢も抱負もあるようです。すべて私に相談してくれますが、新しいことに挑戦する姿勢は、永久に持ち続けて欲しい。そう思います。孫も男の子が2人いますので、また誰かが三代目を継いでくれるのではないかな…と思っているのですが…。息子たちと一緒に一日働き、湯上がりに飲む一杯の酒のおいしさ。苦労した甲斐があったと喜んでいる毎日です。

 
 終戦後、シベリア抑留時に戦友から「うどん作り」を教わり、帰国後、昭和26年に製麺業を始めたとのこと。手づくりのうどん製造卸業に始まり、二代目の息子さんが機械を導入してセルフのうどん店に事業を展開したそうです。では、二代目のインタビュー記事に続きます。

意見のぶつけ合いが情熱をわかすもとですね。

入谷武氏
㈲入谷製麺専務取締役。昭和15年生まれ。さぬきうどん品評会において農林水産大臣賞2回、中四国農政局長賞1回、その他の受賞数々。

 讃岐では、昔から何かことがあるとすぐうどんを打ちますね。祝儀、不祝儀はもちろん、祭りにも、さなぶり(田植えの終わったあとの祝い)にも、必ずうどんが出されました。だから、讃岐の人間はうどんの味にはうるさいですよ。このうるささが、また讃岐うどんのおいしさを高めていくことにもなるんでしょう。

 私は父がうどんを作るのを見て育ちました。小学校の頃から「うどん屋になろう」とひそかに考えていたような気がしますね。もっとも、戦後の飢えていた時代でしたから食べ物の店を…と思ったことも理由の一つかもしれません。中学に入った頃から、家の手伝いをしました。昭和33、34年頃ですが、学校から帰るとすぐ、うどんの行商に行くんです。当時は今と違って、友人たちもみな家業をよく手伝っていましたから、何の抵抗もなく、むしろ張り切ってやってましたね。

 父も母も、夜中の2時頃から起きてうどんを打ちます。冬でも同じです。塩や水を使う仕事は、冬は特につらいです。そんな姿を見ていましたから、積極的に手伝う気持ちになれたんでしょうね。しかし、いざこれを本業とすることについては、やはり真剣に考えました。若い時は誰しも東京へ憧れますが、私も東京で讃岐うどんの店へ入り、2年ほど「うどん屋の経営学、技術学」を学んできました。そして「これならやれる」と判断して戻ってきたわけです。

親子だから同じ出来具合

 不思議なものでしてね。手づくりうどんの場合、父と私とは全く同じものができ上がるんです。ちょっとした風味の違いなんですけどね。塩加減などきちんと決まってるもの以外に、釜から上げるタイミングとか、何かのコツがぴったり同じなんでしょう。全く同じうどんを作り上げてしまうんですよ。親子って妙なものです。

 私は、うどん屋としての商法、経営というものを常に考えるんです。時代の流れにある程度はのっていかないと、取り残されてしまいます。製造卸ひとすじでやってきた父と、意見が合わなかったのはそこなんです。父は「これまでやってきた通りでいい」という。私は、「消費者ニーズが変わってきてるんだから、旧態依然としたままではいけない」という。父は派手なことが嫌いで、地道に地道にとやってきた人だから当然なんですがね。今の形態の、製造販売、セルフサービスの店にするまで、1年間かけて説得しました。

 二人の意見がぶっつかり合うことはよくありますよ。でも、そこから意欲も出てくるし、情熱もわいてくるんですね。父が現役で第一線に立ってくれていますので、私としても、ぶっつかる相手があって幸せだと思っています。私には高校生の息子が2人います。後継者に…と期待しているんですが…。しかし、それまでにしておきたいことが私にはいっぱいあります。現在、瀬戸大橋、新高松空港と、香川県には大きなプロジェクトが着々と進んでいます。

新しい時代のうどん経営を

 今後、人の流れは当然変わるでしょう。瀬戸大橋博も63年には開かれるということですが、その頃には、「これこそが讃岐うどんの真髄だ」と世界に向かって言えるようなものを生み出したい。県外からの観光客にも喜んでもらえるような、無条件で”おいしいうどん”を作りたい。無添加で防腐剤なしのうどんが一番おいしいんですが、日持ちして、しかも味の変わらないうどんが望ましいですね。仲間たちともよく話すんですが、お互いの店がよきライバルとして競争していこうじゃないか、ということです。

 うちの店は”年休2日”なんですよ。つまり、新年に2日休むだけで、あとは無休です。製造卸の方でスーパーやゴルフ場に入れてますから、そちらが休みでない限りうちも休みません。少ない人数でやってますからこれは相当きついんです。

忘れられない二人の後ろ姿

 三代目に譲る頃には、さまざまな面で経営の合理化ということも、味の向上と併せて考えんといけませんね。これは、しかし、父の経営意識とまた少し違いが出てくるかも知れませんので、さあ、その時にはどういった場面が展開されるか…(笑い)。しかし、父も私も基本は一つなんですよ。ほんとうにおいしい讃岐うどんを、みなさんに喜んでもらえるような形で提供したい。これだけですからね。父もわかってくれるだろうし、私の方も、父の意向は大切にしながら、双方の一致点で進めて行くべきだと思っています。基礎を築いてくれた父と母。うす暗い寒い仕事場でうどんを作っていた創業の頃の二人の後ろ姿を、私は決して忘れません。父に喜んでもらえるような”うどん屋”になるように、さらに研究していきたいと思っています。

 先代の職人技術を次世代が発展させていくという、典型的な一例です。この年のうどん関連新聞記事には「讃岐うどんは手作りに限る、機械打ちはダメだ」みたいな話が何度か出てきましたが、伝統産業の“発展的継承”のためには、職人の技術を継承しながらも「たゆまぬ技術開発を伴った機械化」は不可欠なプロセスでしょう。

うどんの慰問と接待も続々と

 うどん関連記事の定番となった「慰問」や「接待」の記事も相変わらずいくつも載っていましたので、列挙しておきます。

(1月30日)

ホームで手打ちうどん 高瀬の生活改善クが慰問

 高瀬町生活改善クラブ(入江朝子会長)は29日、豊中町の養護老人ホーム「七宝荘」(詫間忠所長、127人)を手打ちうどんで慰問した。慰問には会員25人が参加。お年寄りを前に、あらかじめ用意した35キロの小麦粉のだんご玉を麺棒で延ばし、大釜で炊き上げるまでを実演。次々と出来上がる手打ちうどん約350玉をお年寄り一人ひとりに振る舞い、「うどんは別腹、のどを通る時の味はこれまた格別」とほとんどのお年寄りがお代わりをする繁盛ぶり。この後、会員からの歌や踊りが披露され、楽しい一時を過ごしていた。

(6月21日)

ドライバーにうどん接待 県製麺組合が琴平で

 県製麺組合連合会仲多度南部製麺組合、四国新聞社主催の「さぬきうどんチャリティー接待」が20日午前11時から琴平署車庫前広場で行われ、ドライバーに安全運転、シートベルト、ヘルメット着用を訴えた。キャンペーンには、同組合の大西代表、村上琴平署長らが参加、組合員たちが麺棒、大釜などの道具一式を持参、手慣れたさばきでうどんを次々と打ち上げ、ドライバーに約700玉のうどんを接待した。琴平署では、この日のキャンペーンに備えて「梅雨どきもさわやかな気分で安全ベルト」「うまい運転事故はさる」というノボリを立てて、シートベルト、ヘルメットの着用を訴えた。

(6月26日)

手打ちうどん披露 養護学校生、ホーム慰問(坂出)

 自分たちが学んだ技術を社会に役立てようと、香大付属養護学校(坂出市府中町)の生徒代表8人が25日午前、坂出市西庄町の同市老人ホーム長生園(安井茂樹園長、老人63人)を訪れ、手打ちうどんの実演を行い、打ちたてをお年寄りたちにごちそうして喜ばれた。

 同養護学校は週4時間の生活単元学習の時間を設けて、生徒たちに水田や畑でキュウリやトマト、茄子などを栽培しているほか、うどんづくりや陶芸品づくりなども学んでいる。この日は、1カ月ほど前から学習した手打ちうどんづくりの技術を披露してお年寄りを慰めようと、16歳から18歳までの生徒8人が前田副校長ら5人の先生と一緒に同老人ホームを訪れた。「すっとん、すっとん」と小気味よい音を立てながら、みんな生き生きとした表情でうどんを打ち、自分たちが持って来た手づくりの竹の器や焼き物の食器でごちそうした。同園のお年寄りは「孫が来ているようだ」と目を細めながら手打ちうどんに舌つづみを打っていた。

(7月28日)

買い物客らにうどん無料接待(坂出製麺組合)

 坂出製麺組合(多田羅良一会長・18店加盟)が27日、坂出市京町のニチイ坂出店前でうどん1000食分を買い物客らに無料接待し、「夏はうどんの季節」とさぬきうどんのPRに努めた。県、県製麺組合連合会、四国新聞社では3年前から7月2日を「さぬきうどんの日」としてPRに努めており、この日の無料サービスもこの一環行事。会場にはテント二張りが設けられ、組合員10人が1000玉のうどんを持ち寄って午前11時から勤め帰りのサラリーマンや買い物客らにサービス。打ちたてのうどんは人気上々で、用意された1000食は約2時間でさばかれた。

(11月30日)

うどんを無料配布 東京駅前、観光さぬき路PR

 「瀬戸大橋完成まで800日Xdays」。高松とさぬき路観光キャンペーン実行委は29日、東京駅前でさぬき路観光街頭キャンペーンを実施した。折から発生した国鉄多発ゲリラ事件で首都圏の足は大混乱、道行く人の姿が少なく心配されたが、昼休みになって近くのビルからサラリーマンやOLが姿を見せ、ほっとひと安心。

 東京駅八重洲口噴水広場で行われたキャンペーンには、県、高松市、県観光協会など11団体で組織する実行委員会のメンバー、ミス高松ら約40人が参加。丸亀八幡太鼓の勇壮な音が響く特設会場では、そろいのTシャツ姿のミスらが道行く人に手打ちうどん3000個を無料配布して「観光さぬき路」をPRした。この日は国鉄ゲリラ事件で首都圏の足が大混乱。東京駅からも東海道新幹線だけが運転されている状態とあって人の波もまばら。先行きが心配されたが、やっと昼飯時になって近くのビルのサラリーマンやOLが大勢訪れ、関係者を喜ばせた。

(12月12日)

特別警戒ご苦労さま 署員に肉うどん接待(善通寺)

 善通寺交通安全を考える会は10日夜、善通寺署を訪れ、年末特別警戒中の署員に肉うどんを接待し励ました。肉うどん接待には、横田会長ら会員20人が大釜とうどん130玉、だし汁、牛肉、ネギなどの材料を持参して訪れ、年末特別警戒に出動する前の署員に食べてもらった。警戒勤務のための腹ごしらえをした署員は、熱々の善意に感謝しながら寒風の中、パトロールや交通検問に飛び出して行った。この夜の年末警戒慰問には平尾善通寺市長、芝市議会議長、善通寺警友会員らも訪れ、警戒中の署員たちにカップヌードルやコーヒーなどをプレゼント、年末特別警戒中の労をねぎらった。

麦作振興で、うどん用小麦の自給率が20%近くに

 続いて、小麦事情の記事を一つ。

(5月20日)

小麦15年ぶり大台回復 県下60年産の作付け3200ヘクタール、対前年19.4%増 うどん用自給率高まる

 讃岐路は「麦秋」を迎えて一部地域で早くも麦刈りがスタート。こうした中で、県下の60年産麦の作付面積は順調に伸び、中でも讃岐うどんの原材料となる小麦の作付けは3200ヘクタール程度にまで増加。実に15年ぶりに3000ヘクタールの大台を回復したことが県農林部の推計で明らかになった。県下では麦作を本来の伝統的な作物としてカムバックさせようと60年度から3年計画で「麦づくり運動」が進められており、この麦作振興が実ったものと県農林部では評価している。

62年には全麦1万ヘクタール目標

 米麦など農産物についての各種データは、正確には農林水産省の統計調査を待たなければならないが、県農林部が各農業改良普及所の生産指導を通じて積み上げた推計によると、60年産麦の作付面積は裸麦約3200ヘクタール、二条大麦約900ヘクタールの計約7400ヘクタール。前年の7330ヘクタールをわずかとはいえ上回り、5年ぶりの増加となった。この中でも小麦は前年より19.4%の大幅アップを示し、45年の3410ヘクタール以来15年ぶりに3000ヘクタール台を記録した。これに伴い、小麦は麺用として讃岐うどんの原材料に使われており、県産小麦の自給率も前年の18.4%からこれで一歩前進、20%程度まで高まったものとみられる。

 これは、麦を伝統的作物としてよみがえらせようと県をはじめ県農協中央会、県農業会議などが力を合わせて60年度から取り組んでいる「麦づくり運動」の成果がここで早くも出てきたものと県農林部ではみている。運動では、62年度で全体の作付面積を1万ヘクタールに増やし、10アール当たりの単位収量を平均420キロまで高める計画。もっとも、60年産麦の収量については、前年は裸麦、小麦、二条大麦の単位収量が過去30年間では初めての400キロ台を記録するという空前の豊作となったが、本年産は麦まきのあとの暖冬が響いて当初の生育がやや進みすぎ、平均で350~360キロあたりに落ちつくものと見込まれている。

 前年に香川県の小麦生産量の推移グラフを再掲しましたが(昭和59年」参照)、昭和59年から平成2年あたりまでは、それまで壊滅状態だった県下の小麦が少し盛り返してきた時代です。小麦の作付面積は「15年ぶりに3000ヘクタール台を記録した」とありますが、平成6年以降は再び2000ヘクタールに届かない時代に入っていきます。

広告から見た勢力図は「かな泉」一強時代!

 では最後に、讃岐うどん関連広告とオープン広告の状況。まず、広告を出していた企業や店の名前と出した広告の本数はこうなりました。

<県内うどん店>
【高松市・中心部】

「かな泉」(高松市大工町他)……… 25本 4月24日高松グランドホテル店オープン
「さぬきうどん」(高松市栗林町他) 6本
「久保製麺」(高松市番町)……………5本
「三福」(高松市兵庫町)………………3本
「川福」(高松市ライオン通)…………3本
「めん」(高松市番町)…………………3本
「井筒製麺所」(高松市西の丸町)……3本
「丸川製麺」(高松市中新町)…………3本
「すゑひろ」(高松市中野町)…………3本
「松下製麺所」(高松市中野町)………3本
「上原製麺所」(高松市栗林町)………3本
「あわじ屋」(高松市丸の内)…………2本
「番丁」(高松市番町他)………………2本
「都由」(高松市ライオン通)…………2本
「鶴丸」(高松市古馬場町)……………2本
「源芳」(高松市番町)…………………2本
「空海」(高松市福岡町他)……………2本
「さぬき一番」(高松市福岡町)………2本
「誠」(高松市亀岡町)…………………2本
「丸山製麺」(高松市宮脇町)…………2本
「高橋」(高松市宮脇町)………………2本
「さぬきや」(高松市松島町)…………2本
「更科」(高松市ライオン通)…………1本
「味味」(高松市トキワ街)……………1本
「はやかわ」(高松市瓦町)……………1本 9月19日オープン
「福」(高松市福岡町)…………………1本
「吹上うどん」(高松市栗林町)………1本

【高松市・郊外】

「さぬき麺業」(高松市松並町他)……7本
「大島製麺」(高松市太田上町)………4本 10月8日改装オープン
「イエロー&ホワイト」(高松市木太町)4本 5月31日オープン
「三里」(高松市太田下町)……………1本 12月7日オープン
「馬渕」(高松市太田下町)……………2本
「善や」(高松市新田町)………………2本
「やしま」(高松市高松町)……………2本
「大谷製麺所」(高松市松島町)………2本
「元」(高松市一宮町)…………………2本
「田中松月堂」(高松市御厩町)………2本
「げん禄」(高松市檀紙町)……………2本
「古川食品」(高松市川島東町)………2本
「わら家」(高松市屋島中町)…………1本
「花車」(高松市元山町)………………1本
「北山製麺所」(高松市鬼無町)………1本
「よこくら」(高松市鬼無町)…………1本
「桃太郎館」(高松市鬼無町)…………1本

【東讃】

「入谷製麺」(長尾町)…………………3本
「八十八庵」(長尾町)…………………3本
「入谷製麺」(長尾町)…………………2本
「つゞみ屋」(牟礼町)…………………2本
「郷屋敷」(牟礼町)……………………2本
「いろり家」(香南町)…………………2本
「寒川食品」(三木町)…………………2本
「味呂」(庵治町)………………………2本
「山進」(香川町)………………………2本
「権平うどん」(白鳥町)………………1本
「山田家」(牟礼町)……………………1本
「吉長」(津田町)………………………1本 6月14日オープン

【中讃】

「まごころ」(丸亀市蓬莱町)…………6本
「小縣家」(満濃町)……………………3本
「和香松」(坂出市京町)………………2本
「上原製麺所」(坂出市室町)…………2本
「やじろべえ」(丸亀市土器町)………2本
「彦江製麺所」(坂出市横津町)………2本
「多恵寿」(丸亀市本町)………………2本
「オビカ食品」(綾上町他)……………1本
「家紋」(国分寺町)……………………1本 4月11日オープン
「虎屋」(丸亀市)………………………1本
「うしだ」(丸亀市)……………………1本 11月19日オープン
「金山奉行」(坂出市福江町)…………1本

【西讃】

「フジうどん店」(仁尾町)……………3本
「将八」(観音寺市)……………………2本
「さぬき一番」(高瀬町)………………1本
「渡辺」(高瀬町)………………………1本

【島嶼部】

「すえ宏」(内海町)……………………1本

<県外うどん店>

「川福」(大阪市南区)…………………1本
「玉藻」(東京都新橋)…………………1本

<県内製麺会社>

「日糧」(詫間町)………………………7本
「石丸製麺」(香南町)…………………5本
「柳屋」(坂出市白金町)………………3本
「国方製麺所」(高松市多肥上町)……2本
「日根うどん」(大内町他)……………2本
「香川食品」(善通寺市)………………2本
「宮武讃岐製麺所」(丸亀市蓬莱町)…2本
「藤井製麺」(三木町)…………………1本
「日の出製麺」(坂出市富士見町)……1本

<県内製粉会社>

「日清製粉」(坂出市)…………………2本
「日讃製粉」(多度津町)………………1本
「川田製粉製麺工場」(香南町)………1本

<その他うどん業界>

「さぬき麺機」(高瀬町)………………3本
「大和製作所」(宇多津町)……………2本
「香川県製麺組合連合会」………………1本

 このところずっと広告本数トップを走っている「かな泉」ですが、過去7年の広告本数トップ2を並べて見ると、こうなっていました。

(昭和60年)●「かな泉」25本  ●「さぬきうどん」 6本 
(昭和59年)●「かな泉」27本  ●「さぬきうどん」10本
(昭和58年)●「かな泉」17本  ●「さぬきうどん」 6本
(昭和57年)●「かな泉」18本  ●「さぬきうどん」 9本
(昭和56年)●「かな泉」19本  ●「さぬきうどん」 9本
(昭和55年)●「かな泉」11本  ●「さぬきうどん」 8本
(昭和54年)●「さぬきうどん」9本  ●「かな泉」 6本

 「かな泉」は昭和55年にトップに躍り出て以降、2位との差をだんだん広げ始め、ここにきてぶっちぎりの独走状態になりました。「讃岐うどんと言えばかな泉」の時代です。

オープン広告は8本

●「家紋」(国分寺町)…4月11日オープン
S60年広告・家紋・オープン
●「かな泉」(高松市大工町他)…4月24日高松グランドホテル店オープン
S60年広告・かな泉グランドホテル・オープン
●「イエロー&ホワイト」(高松市木太町)…5月31日オープン
S60年広告・イエロー&ホワイト・オープン
●「吉長」(津田町)…6月14日オープン
S60年広告・吉長オープン
●「はやかわ」(高松市瓦町)…9月19日オープン
S60年広告・はやかわオープン
●「大島製麺」(高松市太田上町)…10月8日改装オープン
S60年広告・大島製麺改装オープン
●「うしだ」(丸亀市)…11月19日オープン
S60年広告・うしだオープン
●「三里」(高松市太田下町)…12月7日オープン
S60年広告・三里オープン

(昭和61年に続く)

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