さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.42 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和59年(1984)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 42
  • 2021.08.23

讃岐うどん界にアカデミックなアプローチが本格化の兆し、うどん店は「かな泉」が王者の時代に

 昭和59年は、うどん関連の記事がずいぶんたくさん見つかりました。傾向としては、相変わらず「うどんの慰問、接待」や「子供たちのうどん作り体験」「うどん関連の催しや小イベント」等の紹介記事がたくさんありましたが、加えて識者による讃岐うどんへのアプローチもいくつか登場。また、うどん店では「かな泉」がいよいよ「讃岐うどん界の王者」に君臨する勢いを見せています。では、まずはアカデミック分野の「さぬきうどん研究会」発足の話題から。

「さぬきうどん研究会」が発足

 のちに讃岐うどんのアカデミック分野の重鎮に君臨する香川大学農学部教授の真部先生が、この年の1月、「さぬきうどん研究会」を設立しました。

(1月26日)

我らが讃岐うどん 伝統知り、技術守れ 学者ら結集、研究会28日設立 消費者・業界に役立つ情報も

 「食は讃州」の誇りを支えて来た讃岐うどんを一つの文化としてとらえ、その成り立ちから将来までを多角的に探ろうという「さぬきうどん研究会」が28日、発足する。同種の会合にありがちな“遊び”の要素を排し、地道な調査、分析活動を続けたいとする専門家から愛好者までのユニークな集まり。中心メンバーの香大農学部、真部正敏教授(53)は「消費者や業界に利益をもたらせ、文化の発展にまで貢献できる会にしたい」と夢を膨らませている。

 同研究会は真部教授ら香大農学部の学者グループが中心となり、昨秋から設立準備を進めていたもので、今月初めの準備会で「名称は『さぬきうどん研究会』とし、同うどんの伝統を継承、発展させるための文化的、技術的活動を行う」ことなどを案としてまとめた。設立総会は28日午後2時から、高松市番町のさぬき荘で開く。農学や心理学の研究者、農業技術の専門家、製造業者らが核となり、讃岐うどんに深い関心を寄せている各分野の愛好者ら合わせて20人ほどが集まり、会の性格などを確認、発会の段取りだ。

 一連の動きのきっかけは、昨年、真部教授が全県で実施したうどんに関する意識調査。この調査で、90%を超える県民がうどん好きであることが改めて確認されたのと同時に、品質や技術、流通過程などにさまざまの問題を感じている人が多いことがわかった。「なんとかしてと訴える消費者の声、歴史や伝統の調査、研究の必要性を指摘する愛好者の声が非常に多く、びっくりしました。そんな県民の気持ちを大切にしなければというのが会結成の動機です」と真部教授。

 今後の運営について同教授は、一会員の意見と断った上で「うどんと県民のかかわりを歴史、民俗、心理学などの面から調べたり、品質や流通過程の問題点を洗い出す活動の一方、技術の保存、普及などにも力を入れたい」と話している。全国的にも東京水産大の天野慶之学長らが中心となり、伝統食品を見直す機運が高まっており、同研究会の成果が注目される。

 発足メンバーは、「農学や心理学の研究者、農業技術の専門家、製造業者らが核となり、讃岐うどんに深い関心を寄せている各分野の愛好者ら合わせて20人ほど」とのこと。「産(製造業者)・学(研究者、専門家)」協同の形ですが、会長の真部先生が国立の香川大学所属ですから当然「官」も関わってくるわけで、讃岐うどんの「文化」「歴史」「技術」を大きなテーマに、ここに「産・官・学」が連携した活動が始まったということでしょう。冒頭に「同種の会合にありがちな“遊び”の要素を排し…」とあるように、のちに讃岐うどん巡りブームを巻き起こした「麺通団」の「讃岐うどんをレジャーとして遊ぶ」というスタンスとは品格…じゃなくて方向性が全く違います(笑)。

 そしてさっそく7月に、「さぬきうどん研究会」の主催でうどん作りの講習会が開催されました。

(7月17日)

うどん作りを次の世代に 先生の卵、秘けつ学ぶ 香大で講習会

 「先生の卵たちに手打ちの技術を習得してもらい、伝統のうどんづくりを次の世代に伝えよう」という手打ちうどんの講習会が16日、香川大学教育学部で行われ、未来の先生たちがうどんづくりの秘けつを学んだ。これは「さぬきうどん研究会」(会長・真部正敏香大教授)が先月から実施している伝統技術の普及、保存活動の一つ。同学部家政学研究室の協力で、同研究室の女子学生約45人が参加した。

 講師は同研究会のメンバーで、手うち一筋のうどん店を経営している谷文雄さん(40)。午後2時から行われた講習会では、県内産の小麦を使い、季節によって微妙に異なる塩かげん、水かげんを中心に、おいしいうどんづくりのコツを伝授した。白衣姿の学生たちは、ほとんどが教員志望。最近は小学校などでもゆとりの時間などでうどんづくりが取り上げられているとあって、真剣そのもの。「飲み込みが早い」と谷さんが驚く上達ぶりだった。

 「谷文雄さん」は「水車うどん」の店主で、「さぬきうどん研究会」のメンバーです。記事によると、当時は小学校で「ゆとりの時間」にうどん作りが取り上げられていたとのこと。「学力低下を招いた」と言われて評判の悪い「ゆとり教育」ですが、香川では勉強の代わりに「うどん作り」もやってたみたいで、とりあえず、豊かな人間性が養われたことを願っています。そして、翌月、谷さんが新聞に人物紹介として載っていました。

(8月9日)

にんげん賛歌/おふくろの味普及に努める 高校、大学で“うどん教室”を開いた谷文雄さん(50)

 うどんの味は「うどん職人の腕で勝負が決まる」ということよりも「小麦の産地、製粉、職人の腕という三拍子が味を大きく左右する」と、毎日手打ちうどんを打ち続ける谷さん。根っからの“手打ちうどん”論者。谷さんが一度うどんについて話し出すと、エネルギッシュな口調でまくしたてる。その谷さんがこのほど、農業経営高校と香川大学教育学部の生徒、学生のうどん教諭、教授となって手打ちうどんの打ち方教室を開き、“うどん職人一筋人生記”を説いた。“うどん先生”の谷さんは「これといった肩書もない私が高校と大学で先生となってうどん教室を開講、うどんを打たせてくれたことに喜んでいる。うどん打ちは鬼に金棒ですが、教えながらの指導、生まれて初めて務めた“先生役”には脂汗が流れる思いがした。生徒たちも心得たもの、最後まで講義を聞いてくれた。感謝している。これからも機会があればうどんの指導と普及を図りたい」と麺棒を力強く握りしめた。

 谷さんが農業経営高校と香川大学で先生を務めたきっかけは、さぬきうどん研究会(真部正敏香大教授会長)に“うどん屋”という立場で参加していたことからだ。谷さんは、これまで「こんぴらうどんの会」にも参加、福岡、東京、京都、大阪など全国の天満宮へ何回となく足を運んで手打ちこんぴらうどん、観光香川宣伝隊の一員としして活躍したというキャリアの持ち主。手打ちうどんの先生、うどんを全国に普及したいという谷さんは、仲南町買田の国道32号沿いで「水車うどん」を経営している。谷さんは「故大平首相が口癖のように言っていた“さぬきのうどんとばら寿司はいつ食べてもおいしい”という言葉には、おふくろの味が含まれている。だから私はおふくろの味を子や孫に幅広く伝えたい」と限りないエネルギーを発散させる。

 続いて、「さぬきうどん研究会」会長の真部先生が四国新聞に随想を寄せていました。

(8月20日)

月曜随想/讃岐うどん考(真部正敏)

 かつて地域に根ざしていた伝統食品の中には、日本人の食生活が豊かになるにつれて姿を消したり、顧りみられなくなったものが少なくない。近年、これらの伝統食品を今のうちに調査したり、記録にとどめておこうとする機運が活発になっている。さらには「長年にわたり継承されてきた伝統食品には食べ物としての優れた特性が備わっているから、作り方の技術も含めて伝統食品を積極的に生かしていくのが望ましい」とする意見がみられる。日本伝統食品研究会が今春設立されたのもその一つの現れとみてよいであろう。香川県には讃岐うどん、しょうゆ豆をはじめとして、この故郷のこころを培ってきた伝統的食べ物が少なくない。とりわけ讃岐うどんはその代表であろう。今日讃岐うどんは県内はもとより全国にその名が広まっているが、讃岐名産の一つとしてこれからも大切に育てていきたいものである。

 ところで、昭和30年代までは家庭で手打ちうどん作りがしばしば見られた。また、農村部では諸行事にうどんは欠かせない食べ物であり、時には大勢が集い、しっぽくうどんや打ち込みうどんを作り、舌つづみを打ちながら談笑する風景が見られた。これは、家庭や地域の人たちのこころを結ぶきずなにうどんが一役買っていたものと考えられる。香川県民の90%以上がうどん好きというのは伝統的食習慣にもよるが、うどんにこころの故郷を感じさせる何かがあったのではなかろうか。しかし今日、うどん作りが一般家庭から遠のいているという事実から讃岐うどんの名声を手放しに喜んでばかりはいられないような気がしないこともない。

 うどんは小麦粉、食塩、水の素材を混ぜ合わせ、練り、伸ばし、線切りにする作業があるに過ぎず、麺棒があればいつでもどこでも手打ちうどんを作ることができる。一度試してみればわかるが、意外と簡単に作れるようになることは確かである。しかし、一人前の評価を得るにはかなりの経験と年数を要する。何十年とこの道一筋に歩んできたプロにしてうどん作りは大変むずかしいものといわしめる。その理由は一体どこにあるのであろうか。

 うどんは生き物だから難しいのだと語る人がいる。昔から土三寒六常五といって、うどん作りに用いる食塩水は、塩一に対して水を、夏は三、冬は六、春秋は五の割合でうすめたのがよいとされている。食塩は小麦粉のタンパク質(グルテン)をひきしめ、うどんのコシ、かたさをほどよく保つのに重要な役割を果たしており、食塩が多すぎても少なすぎてもよいうどんは作れないことになっている。うどんの質を左右する要因は食塩の他に、粉の質、練り方、熟成の温度と時間、生地の伸ばし方、切り方、ゆでる時の湯の量と温度などがある。これらの要因のうちの一つでも少し手加減すれば、うどんの質が異なってくるので、季節を通して同じうどんに仕上げるには高度な技術が求められる。従って讃岐うどんの手打ちの達人といわれる人々の技術は長年の経験ばかりでなく、日々の研究熱心から生まれてくるといってよかろう。

 今日、讃岐うどんに用いている粉の大半が外麦依存であることはよく知られている。また、技術も完全な手作業から機械打ちに移行しつつあるのが実情であろう。もし、外麦粉の機械打ちうどんを讃岐うどんと呼ぶとすれば、県民はこれをどのように受け止めるであろうか。幸い、県産小麦の生産が1万トンを超え、今後も増産が期待されるらしい。地粉によるうどんは香りがあって、口あたりもよろしいと評価をする人も少なくない。讃岐うどんは香川の伝統的文化遺産の一つであり、次代に正しく継承していく必要があろう。手打ちうどんを時には家庭で作り、家族の対話の一つとして取り上げるとともに、讃岐うどんの伝承が芽生えてくることを期待するものである。

 最近、県内の高校、大学、婦人会の各一ヵ所で手打ちうどんの講習会が催された。粉の練り、足踏み、伸ばし、ゆでなどをグループごとに進めたあと、ゆでたてのうどんを賞味した。初めて麺棒を握る仕草は少しぎこちないところもあったが、みんなで楽しみながら熱心に打ち込む姿が印象に残った。年齢にかかわりなく一人でも多くの方が、手打ちの技術を習得され、家庭でときどき手打ちうどんを作ることになれば、手作りとしての讃岐うどんの伝統は継承されていくことになるであろう。(香川大学農学部教授)

 内容はこれまで新聞に出てきた話が中心で、特に目新しい切り口はありませんが、文面から「讃岐うどんは県産小麦で作るべきだ」、「昔の讃岐うどん文化を壊してはいけない」といった主張が窺えます。そして、讃岐うどん界の論客としては、これまで山田竹系さんと佐々木正夫先生が二大巨頭だったと言えますが、このあたりから真部先生が“新論客”として頭角を現してきました。

(11月6日)

うどんの機関誌創刊 多彩で充実した内容(さぬきうどん研究会)

 全国的にも珍しいうどんを愛するグループによるうどんの雑誌が誕生した。「さぬきうどん研究会」(会長・真部正敏香大教授)が、機関誌として創刊した「讃岐うどん」。うどんを一つの文化と位置づけ、多面的に研究しようという会の方針を反映、歴史あり、科学あり、実践リポートありの多彩な内容。香川の名物雑誌への成長を予感させる充実した編集となっている。

 創刊号は週刊誌大で32ページ。巻頭のあいさつで、幡克美香大学長が述べている「さぬきうどんについての学術、生活文化、趣味などに関する情報交換と交流の場」というのがこの雑誌の目指すところ。従って創刊号の内容も製麺業者のうどん一代記や名物うどん店の探訪、うどんに関するエッセーなど柔らかいものから、学校給食におけるうどんの実態、さぬきうどんの特質などの調査・研究報告、研究会の実践活動報告など硬派のものまで多彩。中でも、京都の麺類研究家、小島高明さんの連載「私説・うどんの歴史」は、不鮮明な部分の多いうどんのルーツに光を当てる試みとして評判を呼びそう。

 装ていも豪華。題字は前川知事、表紙は洋画家の辻一摩さんの「うどんが出来るまで」の版画。カットは彫金家、鴨正雄さんが腕を振るう凝りよう。非売品として2500部を印刷。会員のほか県内の製麺、農業関係者、香大や明善短大の若い人たち、さらに東京や大阪の県人会、日本伝統食品研究会など県外団体や機関に配布、広くさぬきうどんに対する理解を求めることにしている。真部会長は「文化としてのうどんをさまざまの角度から掘り下げようと創刊した。中身の充実を図りながら、年1、2回ずつ発行してゆきたい」と話している。

 さぬきうどん研究会が、機関紙「讃岐うどん」の発行を開始しました。香川大学の学長が巻頭あいさつを飾り、県知事が題字を書き、県下の芸術家が表紙やカットを担当するというラインナップは、もはや「一研究会の会報」レベルを超えた存在で、ここから「さぬきうどん研究会」は、産・官を巻き込んで“讃岐うどん界の権威”になっていくことになります。

県が「うどん士」認定制度の検討を始める

 続いて、県も「讃岐うどんの技術の継承」に動き始めました。

(9月1日)

技術保証「讃岐手打ち」PR 「うどん士」認定制度、県が検討

 “手打ち”の味で全国的な知名度を得た讃岐うどん。しかし店によって販売方法も製法もまちまちなことから、県観光課は関係業界の協力を得て「うどん士」(仮称)認定制度の検討を始めた。今年中にも同制度の実行委員会を設け、認定証の交付を受けた「うどん士」による讃岐手打ちうどんをPRしていきたい考え。

 「脱サラするならうどん屋か喫茶店」と言われるほどのうどんの本場・香川。しかし“手打ち”をうたい文句としている店でも小麦粉を練り、生地(麺体)を熟成させ、延ばし、切り、ゆでる過程にどの程度人手を加え、一方で機械化しているかバラバラ。このため、県外観光客が一定水準のうどんを味わえる店と、職人の技量を保証する目的で同認定制度の検討を始めた。同制度ではうどんの歴史などの講習会も開いて、実行委が職人の技量と知識を審査。認定証を交付し、職人にはうどんづくりにふさわしい装束を指定するとともに、「讃岐手打ちうどん」の地図を作り県外観光客にPRする。認定証の名称には「うどん士」「うどん練達士」「うどん技能士」などが考えられている。

 事務局を担当する県観光課では今年中に実行委員会を設置し、来年3月末までに第1回の認定を行いたい考え。しかし、うどん店には業界団体がなく、手打ちうどんを販売している店も県下で約500店(職人数約1000人)と推計されるだけで、実態は不明。認定制度についても難易度の水準、審査方法、認定証を受けたことによる社会的信用の保障など委員会への課題は多い。

 これまで「2000軒、3000軒、4000軒」という数字が踊っていたのに「手打ちうどんを販売している店が県下で500店」という数字がサラッと出てきましたが(笑)、それはさておき、「実行委員会が職人の技量と知識を審査して認定証を交付するうどん職人の認定制度」という、いかにも“行政的”な構想の検討が行われたようです。しかし、「県外観光客が一定水準のうどんを味わえる店と、職人の技量を保証する」ために認証制度を導入すると、認証されていない店は「県外観光客に一定水準のうどんを出せない店、職人の技量が劣る店だ」ということになるわけですから、それに対して有無を言わせないような絶対的な選考方法がないような制度は、どう考えてもうまくいくとは思えません。さらに、「職人にはうどんづくりにふさわしい装束を指定する」というのもいかがなものかと(笑)。こうやって新聞記事になったということは、県の観光課は「実現の可能性がある」ということでマスコミに発表したのだと思いますが、まだ「検討を始めた」段階とは言え、記事の最後で懸念材料を挙げている通り、問題は山積みです(笑)。

 ちなみに、さっそく「一日一言」に四国新聞の反応が載っていました。

(9月19日)

コラム「一日一言」

 ライセンス時代にあやかろうというわけでは あるまいが、県では今「うどん士」(仮称)の認定制度を検討中だ。一定水準のさぬきうどんを味わえる店と職人の技量を保証するのが目的で、来年3月末までには第1回の認定をしたいという。

 さぬきうどんは、いわずと知れた香川の伝統的食べ物。昭和30年ごろまでは各家庭で手打ちうどんが作られていたし、今でも農村部では諸行事に欠かせない。さぬきうどん研究会会長、香川大農学部の真鍋正敏教授の調査によると、県民の90%までがうどん好き。一日一食はうどん、という人も少なくない。ところが、うどんの本場、手打ちをうたい文句としている店でも、最近は機械打ちが増えているという。これで果たして「讃岐の手打ちうどん」といえるかどうか。

 うどんの質は粉、塩かげん、練り方、熟成の温度と時間、生地の延ぱし方、切り方、ゆでる湯の量と温度に左右される。季節を通じてうまいうどんに仕上げるには高度な技術が求められるわけで、一人前になるにはそれだけ長い年数と経験を要する。「うどん士」認定制度は、さぬきうどんの質的低下を防ぐ一つの手段だろうが、制度の運用に疑問をいだく声もある。すなわち調理師免許と同じで、店に一人の職人がいれば、あとは従業員が相変わらず機械打ちのうどんを作ることにならないか、というのである。認定するだけでなく、運用にも目を光らせる必要がありそう。真鍋教授は、さぬきうどんを一つの文化としてとらえている。今はローカル文化が世界に通用する時代である。 牛どんがアメリカでうけているように、さぬきうどんが世界の味にならないとも限らない。そのためには、さぬきうどんを伝統的文化として正しく継承していく必要があろう。

 「うどん士に認定された職人がいても、店で従業員がクオリティの低いうどんを出す恐れがある」という懸念ですが、たぶん問題の本質はそこじゃない(笑)。「運営」じゃなくて「認定」のところでしょう。今、同じことをやろうとするとどうなるか、ちょっと考えただけでたぶんダメです(笑)。ちなみに今日、県下讃岐うどん界に「うどん士」の認定制度の話は聞きませんが、この後どうなったのか、新聞に続報が出てくることを期待しましょう。

5市38町の首長の「味自慢」

 一方、こちらは香川大学経済学部の井原健雄先生が「15の指標にみる5市38町の魅力度」を発表し(平成の大合併前は、香川県は5市38町ありました)、その内容が元日の四国新聞に4ページにわたって大特集で紹介されていました。井原先生は「地方経済」がご専門で、記事はいろいろな経済指標で5市38町を比較していたのですが、その中で番外編的にそれぞれの市長、町長が「我が市、わが町の味自慢」を挙げていたので、一覧で再掲しておきます。

(1月1日)

15の指標にみる5市38町の魅力度/味自慢は讃岐うどん

(本文略)

<首長の味自慢>
(高松市)……うどん、瀬戸の小魚、白みそあん入り雑煮
(丸亀市)……ばら寿し、うどん、柳川鍋
(坂出市)……タイの浜焼、早掘りカンショ、金時ニンジン
(善通寺市)…さぬきうどん
(観音寺市)…カニ、エビ
(引田町)……肉、ハマチのしゃぶしゃぶ
(白鳥町)……うどん
(大内町)……うどん
(津田町)……カレーライス
(大川町)……うどん
(志度町)……小魚、カキ
(寒川町)……栗おこわ
(長尾町)……竹めし どじょう汁
(内海町)……かきまぜご飯
(土庄町)……そうめん、小魚、ミカン、海産物
(池田町)……手のべそうめん、オリーブ
(三木町)……さぬきうどん
(牟礼町)……カキの海賊焼
(庵治町)……地のサカナ
(塩江町)……新鮮な野菜と肉
(香川町)……フナのてっぱい、しょうゆ豆
(香南町)……瀬戸内の魚
(直島町)……エビ、メバル、カニ
(綾上町)……マツタケ
(綾南町)……うどん
(国分寺)……どじょう汁
(綾歌町)……ハッサク
(飯山町)……桃
(宇多津町)…うどん
(琴南町)……生そば
(満濃町)……梅干しむすび、つけもの
(琴平町)……うどん
(仲南町)……うどん
(高瀬町)……お茶、農利センター弁当
(山本町)……うどん
(三野町)……ヒロハンぶどう、鳥坂まんじゅう
(大野原町)…山菜料理(雨ごい料理)
(豊中町)……うどん
(詫間町)……カレーライス
(仁尾町)……新鮮な魚
(豊浜町)……乾麺、梅ケ枝
(財田町)……マツタケめし、コイのあらい、コイこく

 ご当地の味自慢に「うどん」を挙げたのは、

(東讃)白鳥町、大内町、大川町、三木町、高松市
(中讃)丸亀市、宇多津町、綾南町、善通寺市、琴平町、仲南町
(西讃)豊中町

というラインナップです。過去の新聞によると昭和40年代にはすでに「うどんのメッカは中西讃、東讃はうどん文化が弱い」と言われていたようですが、東讃の町長がこんなにたくさん「わが町の味自慢はうどんだ」とおっしゃっています。首長さんは政治に忙しくて地元の食文化のことをあまり知らないのか、あるいは知ってるけど「うどん」以外に何もないのか…筆者は1990年代終盤、すでに全国から「うどん巡り客」が殺到していたのにそれを全く知らなかった某市の市長さんに会ったことがありますが(笑)。しかしそれにしても津田町長と詫間町長、自分の町の味自慢が「カレーライス」って(笑)。

高松駅構内のうどん店の売上が10年で半減!

 続いて、「駅のうどん」に関するあまり明るくないニュースが2本。まずは、「高松駅構内のうどん店の売上が激減している」というレポートです。

(1月14日)

国鉄高松駅構内、駅売りうどん落ち込む 10年前の半分 観光客減とダイヤ改正たたる

 讃岐はうどんどころだが、国鉄高松駅構内のうどん店が10年前に比べ、ぐんと売れ行きが落ち込んでいる。観光客の大幅減が大きな原因だというが、不況の影響も受け、試練の時。経営者は「新しいお客さんを開拓して何とかさぬきうどんの回復を」と躍起になっている。

 高松駅構内では、鉄道弘済会と高松駅弁会社が各1店の立ち食いうどん店を経営。ピークの49年には2店で1日平均5000杯の売り上げがあり、80%以上が観光客が利用していた。その後、二度のオイルショック、新幹線岡山開業があり、国鉄宇高連絡船の旅客は減少の一途で57年度にはピーク時(49年度)の62%、516万人と激減した。1日にして上下合わせると7000人近くの旅客減となり、うどんの売れ行きにも当然影響が出て2店合わせて1日約2500杯と半減した。

 鉄道弘済会高松営業所の前田瀞店長は「観光客が減ったこともあるが、以前に20~30分もあった連絡船と島内列車の待ち時間がダイヤ改正で短縮された。4、5分程度ではうどんを食べる時間がない」とこぼす一方、「これまで観光客中心だったものを、利用サービス券の発行などで通勤通学客を呼び込む方法も必要です」と新しい顧客の発掘に躍起となっている。

 高松駅構内の立ち食いうどんがこの10年で売上を半分に落としたそうで、原因として「新幹線の岡山開業」と「宇髙連絡線の旅客が4割減になったこと」と「ダイヤ改正でホームでの待ち時間が短縮されたこと」が挙げられています。それにしても、駅の立ち食いうどんは元々「80%以上が観光客の利用」だったんですね。

「かな泉箕浦店」が全焼

 昭和52年にオープンした「かな泉箕浦店」が、火災で全焼しました。

(6月14日)

国鉄箕浦駅構内のうどん店全焼

 13日午後9時22分ごろ、豊浜町箕浦の国鉄箕浦駅構内にあるうどん店「かな泉箕浦店」から出火、木造モルタル平屋建ての同建物約120平方メートルを全焼、さらに東隣の箕浦駅舎の一部を焦がし、約1時間10分後に消えた。同店は出火当時、営業中だった。観音寺署と三豊広域消防本部で原因、損害調査中。現場は国道11号に面しており、一時はヤジ馬で混雑、交通が渋滞した。また、ちょうど火災現場にさしかかった急行「いよ13号」西条行きが現場に35分停車したが、大きな混乱はなかった。

讃岐うどんの県産小麦使用率アップを目指して、小麦の増産計画が始まる

 3月に県議会で「讃岐うどん用小麦の自給率を上げるべきだ」という話が出ました。先述の真部先生の「県産小麦で讃岐うどんを」という主張と呼応していますが、申し合わせでもあったのでしょうか。

(3月13日)

小麦の生産拡大 讃岐うどん振興へ(県議会経済委農林部長答弁)

 讃岐うどんをめぐる原材料の県内自給率問題が、12日開かれた2月定例県議会経済委員会(都村忠弘委員長)で論議を呼び、笠井県農林部長は最終的には県内産の小麦による自給率を30%程度まで高めるとともに、製麺業者や消費者に県産小麦についての理解を働きかける考えであることを明らかにした。これは砂川保(社会・大川)、池田長義(自民・坂出)ら各氏の質問に対して答弁したもの。この中で、笠井農林部長は海外小麦に押されて栽培面積で800ヘクタール、麺用小麦粉の自給率で10%程度にとどまっている県内の小麦生産について「最終的には面積を3500ヘクタールまで拡大。小麦粉の自給率も30%程度に高めたい。併せて、業者や消費者にも県産小麦への理解と協力を求めたい」と県産小麦による讃岐うどん振興の方針を明らかにした。

 そして8月に、昭和59年産小麦の収穫量が発表されました。

(8月28日)

“純血”目指す讃岐うどん 59年産麦、空前の大豊作に 自給率18%に上昇 15年ぶり1万トンの大台回復

 県下の59年産麦は農林水産省の調査で空前の大豊作となり、小麦の生産量は1万1800トンと15年ぶりに1万トンの大台を回復したが、県農林部ではこの大豊作で讃岐うどんの原材料としての県産小麦自給率が18%程度まで高まると推計、今後さらに増反や生産コストの軽減などを図り、近い将来には自給率を30%程度まで伸ばして文字どおり県産小麦による讃岐うどんづくりを実現したいとしている。

 59年産麦は小麦のほか裸麦、二条大麦とも冬季の厳しい寒さやその後の高温、日照など気象条件に恵まれ、農林水産省香川統計情報事務所の調べで史上最高の大豊作となった。中でも小麦は10アール当たりの単位収量で過去最高である56年産の388キロをはるかに上回る440キロと水稲並みの収量を記録、県全体で15年ぶりに1万トン台を回復した。

 これに伴い、県農林部では讃岐うどんの原材料に占める県産小麦の割合が前年の12%から18%程度まで上昇したものと推計。59年度に単県事業として1億5500万円にのぼる小麦生産振興対策事業費を投入、新たに500ヘクタール規模の増反を行うなどで昭和62年度ごろには作付面積を現在の2680ヘクタールから3500ヘクタールまで拡大し、讃岐うどんの県産小麦自給率を30%程度にまで高める計画だ。

 讃岐うどんの原材料としての小麦については、自給率は52、53年度ごろまではわずか2、3%に低迷。その後、着実に増えているとはいえ、大半をオーストラリア産でまかなっているのが現状。国産麦の3分の1という価格が主な要因とみられ、今後の県産小麦の振興には品質の向上と同時に、生産性の向上や生産コストの引き下げなどが課題として残されている。

 小麦は3月に増産計画を出していきなりその年の8月に結果が出るようなものではありませんから、県産小麦の奨励はそれ以前から行われていたはずです。そして、このたび議員さんが改めてその話を持ち出してお役人さんがそれに答弁したという、議会にはよくある話ではないかと(笑)。ちなみに、記事からデータを拾ってみると、讃岐うどん用小麦の県産小麦使用率は、

(昭和52、53年頃まで)…2~3%
(昭和58年頃)……………10%ぐらい
(昭和59年)………………18%程度まで上昇
(今後)……………………昭和62年度頃に30%まで高める計画

ということのようで、この頃はすでに「大半はオーストラリア産」になっていたとのことです。参考のために以前にも掲載した「香川の小麦収穫量推移」を再掲すると、こういう状況です。

グラフ・香川の小麦収穫量推移

 これを見ると、確かに1980年代に入って収穫量が増え始め、1984年(昭和59年)に久しぶりに1万トンを超えて、1990年にかけてグラフに“ひと山”ができていることがわかります。でもその後また低迷状態に戻っているように、値段も味もすっかり県民に定着してしまったオーストラリア産小麦の牙城は、とうとう崩せませんでした。

イリコ生産の話題は、伊吹島ではなくて内海町

 久しぶりに「カタクチイワシ~煮干し生産」の話題が記事になっていました。

(8月30日)

“秋の使者”カタクチイワシ、煮干し用に天日干し 内海の海岸

 小豆島の内海湾で29日、煮干し用のカタクチイワシが今シーズン初めて獲れ、内海町日方の海岸では天日干しのカタクチイワシが強い日差しを受け、まぶしく映える。今獲れているカタクチイワシは秋物で、いわゆる“秋の使者”。この日獲れたカタクチイワシは体長4、5センチ。水揚げしたカタクチイワシを加工場で煮たあと浜辺に干すが、晴天なら3日もすれば完全に乾燥する。

 これまでに何度か触れましたが、うどんのダシに欠かせない「イリコ」の生産は新聞で見る限り「東讃」と「小豆島」がほとんどで、「伊吹のイリコ」は昭和59年になってもまだ大きな注目を集めていません。

豊浜の乾麺(干しうどん)はまだまだ健在

 続いて、豊浜の乾麺生産の記事が載っていました。

(11月28日)

“伝統の味”乾麺フル生産 すだれ模様も鮮やか年越しへ人気上昇(豊浜)

 豊浜町の伝統産業の一つ、乾麺作りが年末年始の需要期を控え、目下フル生産に入っている。広い乾燥庫に運び込まれた干しうどんは、幾重にもすだれ模様を描きながら、一昼夜かけてじっくりと乾燥、「讃岐干しうどん」として連日出荷されている。

 同町の製麺業は明治末期から大正にかけて始まったもので、現在4軒の業者が干しうどん、冷やむぎ、そうめんなどを生産。元来、乾麺の需要は主に夏場が中心だったが、最近では讃岐うどんの見直しとともに、歳暮など年末年始に干しうどんの需要が伸びたこともあって、生産ピークも年2回を数えるようになった。出荷先は主に中、四国方面だが、最近では特に都市部での消費の伸びが著しいという。町内のある業者はここ数日、1ケース7.5キロ詰めで1日約8200ケースを出荷。価格は前年同様1ケース2500円前後。「生めんよりもコシがある」と得意先の評判も上々で、“伝統の味”を守りながら年末年始の需要にこたえている。

 昭和20年代、香川の乾麺処は「小豆島」と「仏生山」と「豊浜」だったようですが(「昭和23年」参照)、そのうち「仏生山の乾麺」の記事は一切見られなくなったものの、「豊浜の乾麺」はまだ記事になるくらい健在です。

丸亀お城まつりで「第1回うどん早食い大会」開催

 この年は、うどん絡みのイベントに関する記事がたくさん出てきました。まずは、丸亀お城まつりで行われた「第1回さぬきうどん早ぐい競争日本一決定戦」の話題。

(5月21日)

ファンの度肝抜く さぬきうどん早ぐい競争、3分で大人10杯、子供6.3杯

 丸亀お城まつり協賛行事で早くから注目を集めていた「第1回さぬきうどん早ぐい競争日本一決定戦」が20日、丸亀市大手町の市民ひろばで行われ、大人は3分で10杯をたいらげた多度津町庄、会社員○○○さん(52)、子供の部は6.3杯の丸亀市土器町、城東小4年○○○○君(9つ)が見事日本一の座を射止めた。大会には大人5杯以上、子供3杯以上の出場資格を突破した60人が出場。おいしいさぬきうどんののど越しや歯ざわりを楽しむ暇もない早ぐいに挑戦した。「いったい何杯食べるのか」と興味深いファンが大勢見守る中、胃と心臓に自信のある“うどん食い”たちがツルツル、ツルツル。さすがにどの人も5杯目あたりからペースは落ちたが、10個重ねたうどん鉢がファンの度肝を抜いた。初代日本チャンピオンの○○さんと○○君には、日本一のしるしとしてミニ自転車や大型パズルなどが贈られた。

 「日本一」と言われても“昭和のギャル曽根”とか出てないのでいかがなものかとは思いますが(笑)、そこはもう、わかった上で大げさなタイトルをつけたということで。ルールはシンプルに「3分間で何杯食べられるか」だったそうですが、事前に出た参加者募集記事に「募集は中学生以上の大人50人、子供30人」とありましたから、どうやら定員に達しなかった模様です(笑)。今なら、テレビ東京に頼んで全国の大食いを集めて、大会を番組にしてもらったらちょっと話題ができるかも。会場は“食い逃げOK”の「ジャンボ高木」で激熱の釜あげうどんを(笑)。

第3回「さぬきうどんまつり」開催

 続いて、7月2日の「さぬきうどんの日」の恒例イベントとなった「さぬきうどんまつり」が第3回を迎えました。

S59年広告・さぬきうどんの日

 告知広告を見ると「さぬきうどんまつり」の中の一行事として位置づけられている「さぬきうどんラリー」がメインイベントみたいな扱いになっていますが(笑)、今回の「さぬきうどんまつり」のラインナップは「第4回さぬきうどんラリー」「献麺式」「さぬきうどんチャリティー接待」「母と子のうどん料理コンクール」の4本立てです。では、「献麺式」と「料理コンクール」の記事から。

(7月3日)

讃岐うどん永遠に うどんの日、高松で神妙に献麺式

 夏至から11日目。田植えの終期に当たり、県下では昔からうどんを食べる習慣があったという半夏(はんげ)の2日、高松市天神前の中野天満宮で県製麺組合連合会(鳥塚晴見会長)の献麺式が行われた。神前に手打ちの技とその精華を供える式典で、関係者は神妙な面持ちで「讃岐うどんよ、永遠に」と祈った。この日は、四国新聞社など提唱の「さぬきうどんの日」。例年、この日を中心にうどんの振興を目指して各種のイベントが催されており、献麺式もその一環。午前11時、同連合会の役員が裃(かみしも)姿で威儀を正す中、手打ち歴30年というベテラン職人、香川輝雄さん(56)が鮮やかな練り棒、包丁さばきで手延べ線切り作業を奉納。「県民食を守って」という関係者の願いを三宝に盛り神前に供えた。

 天満宮の祭神は、菅原道真公。関係者は「学問の神様として有名ですが、なにしろ讃岐の国司。われわれの願いは通じるはず」などと話していた。同連合会はこのほか、うどんの日関連行事として、5日午前11時から三越高松店前で「さぬきうどんチャリティー接待」、14日午後3時から高松市民文化センターで「母と子のうどん料理コンクール」を行うなど多彩な催しを予定しており、多くの県民の参加を呼び掛けている。

 記事中「さぬきうどんの日」は「四国新聞社など提唱の」とあります。今、いろんなところで「『さぬきうどんの日』は香川県生麺組合が制定した」と書かれていますが、当時は“手柄の取り合い”だったのでしょうか(笑)。

(7月6日)

手打ち1000食に長い列 さぬきうどん、高松でチャリティー接待

 4回目のさぬきうどんラリー(県製麺組合連合会、四国新聞社主催)の一環として県下各地でさぬきうどんのチャリティー接待が行われているが、5日、三越高松支店前で高松地区の製麺業者の協力で手打ちうどんの大盤振る舞いが行われた。午前11時過ぎから始まったチャリティー接待に用意されたうどんは約1000食分。開始時間30分ほど前から屋台の前に並ぶ人もおり、大変な人気。午後1時まで接待の予定だったが、正午過ぎには早くもタネ切れになるほど買い物客らが殺到した。

 同接待は、チャリティーと銘打ってるところから、うどんは無料だが「お心まかせの募金をお願いします」というシステム。ところが、屋台前に設置された募金箱の人気は今一つ。中には二度の“接待”にあずかりながら、募金箱前には素通りの人もいるなど現代人気質をのぞかせていた。この日集まった募金は、高松に象さんを呼ぶ運動に役立てることにしている。同接待は7日、坂出でも行われる。

 「さぬきうどんラリーの一環として県下各地でさぬきうどんのチャリティー接待が行われている」と書かれていて、もはや「さぬきうどんまつり」はサブ行事扱いです(笑)。ちなみに、記事の最後にある「高松に象さんを呼ぶ運動」は、当時栗林公園内にあった栗林公園動物園にいた象の「はなこ」が死んだため、「新しい象を呼ぼう」ということで、当時丸亀町商店街にあった宮武画廊(宮武書店)の代表の小西百々代(こにし・ももよ)さん(めちゃめちゃエネルギッシュなおばさんでした)が音頭を取って始めた運動です。その結果、栗林公園動物園に新しい子象がやってくることになって、小西さんの功績をたたえて子象は「ももこ」と名付けられました。

(7月8日)

1000食分を無料接待 さぬきうどんラリー 通行人らでにぎわう(坂出)

 第4回さぬきうどんラリー(県製麺組合連合会、四国新聞社主催)の一環として、うどん無料接待が7日午前11時から坂出市のニチイ坂出店前で行われた。この日は、坂出製麺組合(多田羅良一組合長・会員26人)の組合員が奉仕、1000食分のうどん玉をふるまった。土曜日とあって、テント張りの接待所はオープンと同時に買い物帰りの子供連れの主婦や通行人たちで大にぎわい。午後からは勤め帰りのサラリーマンやOLたちも立ち寄り、細ネギに新ショウガをきかせた腰のあるさぬきうどんの味に舌つづみを打った。午後1時過ぎには1000食分がはけてしまう盛況ぶり。

 さらに坂出会場の記事でも、チャリティー接待は「さぬきうどんラリー」の一環扱いされていました(笑)。ちなみに、チャリティー接待は県下11カ所で行われましたが、たぶん同じような内容なので記事はこの2本だけでした。

 続いて「母と子のうどん料理コンテスト」の記事です。

(7月15日)

わが家自慢のうどん料理、高松で母と子のコンクール 洋風、中華、工夫凝らす

 「讃岐うどんをより親しみやすい家庭料理に」をねらいに14日、高松市松島町の市民文化センターで「母と子のうどん料理コンクール」が開かれた。洋風あり、中華風あり。海上は伝統のうどんを現代風にアレンジしたメニューでいっぱい。母が子に古里の味を伝えようとする熱意も伝わるほのぼのコンクールとなった。これは県製麺組合連合会、四国新聞社などが、半夏生(はんげしょう)の日を中心に行っている第3回さぬきうどんまつりの協賛行事。6月15日から「うどんを主体にした母と子の料理」を公募したところ、知恵を絞った81点の作品が集まった。この日は、うち一次審査をパスした18組の母子が主役。午後3時から、県生麺組合連合会の鳥塚晴見会長、北川料理学校の北川保夫校長ら5人の審査員が見守る中、エプロン姿もかいがいしく、自慢の料理づくりに挑んだ。

 料理は、うどんの洋風茶わんむし、牛乳の煮込み、中華風ハンバーグなど、工夫をこらしたものばかりで、審査員も驚くバリエーション。中にはおばあちゃんが孫と一緒に料理する姿も見られ、会場はほのぼのムードが漂った。審査はアイデア度、味、母と子の協力度などをチェックポイントに行われた。…(中略)…入賞作品は次の通り。

【最優秀賞】
「中華風ハンバーグうどん」
「うどんのトマトあんかけ」
【優秀賞】
「うどんとカボチャの変わりおやつ」
「スタミナうどん」
「のり巻きうどん」
【アイデア賞】
「ヤマイモとフグの冷汁かけうどん」
「うどんオムレツ」

 うどんを使ったアイデア料理のコンテストは近年もたまに行われているようで、うどん関連イベントの定番コンテンツの一つのようです。ただし、お遊びイベントですから、なかなかこういうところから店の人気メニューとして定着するものは出てきません(笑)。

第4回「さぬきうどんラリー」開催

 そして、「さぬきうどんまつり」を乗っ取る勢いになってきた「さぬきうどんラリー」が、第4回を迎えました。

S59年広告・さぬきうどんラリー1

S59年広告・さぬきうどんラリー2

S59年広告・さぬきうどんラリー3

S59年広告・さぬきうどんラリー4

 広告枠数は、第1回から28枠、48枠、53枠、48枠と、まずまずの高値安定状態です。ちなみに、第3回まではページ内に讃岐うどんのウンチク(内容と文章がちょっと変だったけど・笑)が載っていましたが、今回は「広告企画だ」と開き直ったのか、何の文章も載っていませんでした。ラリーの記事は、結果発表の1本だけ。

(7月21日)

角田さんら60人に特賞 さぬきうどんラリー

 県下のうどん店60店が参加して行われた第4回さぬきうどんラリー(県製麺組合連合会、四国新聞社主催)の抽選会が20日、高松市中野町の四国新聞社会議室で開かれ、各店から集められた投票箱ごとに鳥塚晴見製麺組合会長、上原実同専務理事らが厳正に選んだ結果、特賞に同市宮脇町、主婦○○○○さん(34)ら60人が、またラッキー賞には綾南町、会社員○○○○さん(21)ら900人が当選した。特賞当選者には自転車かカメラ、ラッキー賞当選者には調味料製品が参加店で引き換えられる。同ラリーは去る2日の「うどんの日」を中心に参加店でうどんを食べた人に1回1枚の応募券を渡し、10日に投票を締め切ったもの。“うどん王国”を反映して年ごとに人気は高まり、今回の応募総数は5万枚を突破した。

綾上町の「どじょう汁(うどん)」

 綾上町に昭和43年から、ドジョウ汁を囲んで世代間交流を深める「どじょう会」という集まりがあったそうです。

(9月11日)

伝統の味囲み世代間交流 綾上町の「どじょう会」 広がる談笑の輪 県下独特のスタミナ源

 「打ち込みうどんのだしをとる煮干し代わりにドジョウを入れたのがそもそも」と伝わるドジョウ汁。そのドジョウ汁に舌つづみを打ちながら語らいの場を持つ「どじょう会」(岩瀬登会長、21人)なるグループが綾上町山田上の川北地区にあり、世代間交流に大きな役割を果たしている。

 ドジョウ汁はうどんの本場である県下独特のスタミナ源。中でも、海魚が手に入りにくかった内陸部の綾上町周辺は、昔から事あるごとにドジョウ釜を囲むのが一つの伝統にさえなっている。どじょう会は、こうした下地の下、43年春に同地区の約10人の住民で結成。現在20代から50代の21人が毎月1日、ドジョウ定例会を各戸持ち回りで開き、伝統の味を楽しみ、希薄になりがちな世代間交流を深めている。初代会長の自営業前田富夫さん(52)は「疎遠になりがちな若者との交流の場。もう一つは酒酔い運転を誘う町外での飲酒を少しでも控えるために生まれたようなもので…」と「どじょう会」のルーツを説明。今では、和やかな雰囲気も手伝い、メンバー全員が毎月1回開かれる定例会を心待ちにしているという。

 毎回、ドジョウ200匹とナス、ゴボウなど5種の野菜、手製の打ち込みうどんが用意され、メンバーが交代で4時間がかりで炊き上げる。ドジョウ汁は、その豊富なスタミナ量から夏に味わうものとされているが、本来、稲の花が実る秋口の9月が骨が柔らかくて最もおいしい時期。それも「冷や酒を口に含みながら味わうのがコツ」という。定例会に時折顔を見せている三居綾上町長も、綾上を「ドジョウ汁の里」とPR。会員らは「会を通して後世に伝統の味を伝えたい」と意気込んでいる。

 香川の「ドジョウ汁(うどん)」といえば、今は「さぬき市(旧長尾町あたり)」が本場と言われています。旧長尾町にあって惜しまれつつ閉店したうどん店「いこい」は「ドジョウうどん」の代名詞のような店でしたし、1993年に始まった“創作どじょううどん大会”の「どじょ輪ピック」は今もさぬき市で開催し続けているのですが、当時は何と、綾上町が「ドジョウ汁の里」をPRしてたんですね。そう言えば、昭和57年に「綾上町でドジョウ釜開きが開かれる」という記事がありましたから、かつては「ドジョウ汁の里」といえば「綾上町」だったようです。しかし、ドジョウうどんが新聞に最初に出てきたのは、昭和43年の「仏生山のドジョウ汁」です(「昭和43年」参照)。しかも、当時の山田竹系さんの著書の中にも「仏生山のドジョウうどん」が出てきます。

 ということで、香川の「ドジョウうどんの本場」は「仏生山が最初で、次に綾上町、最後に長尾町(現さぬき市)が名乗りを上げて、仏生山と綾上は為す術もなく長尾の軍門に降って今日に至る」としておきましょう(笑)。

 ちなみに、これまで出てきた「昔はああだったのにいつの間にかこうなった」話としては、

●昔は「讃岐うどん発祥の地は琴平」だったのに、今は「うどん発祥の地は綾川(綾南)」になっている。(「昭和47年」参照
●昔は「うどんの原型は奈良時代に渡来した唐菓子」だったのに、今は「うどんの原型は平安時代に空海が中国から持ち帰った」が主流になっている。(「昭和48年」「昭和50年」「昭和53年」等参照)
●昔はうどんの麺の食感を表す表現は「コシコシ」だったのに、今はすっかり「シコシコ」になってしまった。(「昭和44年」「昭和46年」「昭和51年」参照)
●昔は「『さぬきうどんの日』はいつ頃呼び始めたのかわからない」だったのに、その後「四国新聞社などが提唱」となり、今は「香川県生麺組合が制定した」となっている。(「昭和54年」等参照)

などがあります。正解がわからないものは「先に言った者勝ち」、あるいは「大きな声を出した者勝ち」、さらに「言い続けた者勝ち」、そして「うまいことやった者勝ち」という、“世の中あるある”かもしれません(笑)。
 

子供対象の「うどん打ち体験」の記事が続々

 昭和53年から子供対象のうどん教室の話題がパラパラ載り始めましたが、この年は一気に増えました。催しが増えたのか記事だけが増えたのかわかりませんが、とにかく当時はいろんなところで子どもたちにうどん作りを教えていたようです。

(1月28日)

手打ちそばに挑戦 上西小でふるさと学習(塩江)

 塩江町上西小学校で27日、ふるさと学習が行われ、全児童35人がそば打ちに挑戦、手作りのしっぽくを地区のお年寄りと一緒に試食した。ちょうどこの日、昨年春から始めていたふるさとの聞き書きが「わたしたちのふるさと、その一」として製本されたばかりで、児童たちは大喜びしていた。

 「ふるさとのふれあい」をテーマに毎月1回行事を計画している同小は、今月、“手作り給食”に手打ちそばを取り上げた。4キロのそば粉と10キロの小麦粉を用意、地区のお年寄り藤沢豊幸さん、藤沢チヨコさんらが麺棒と打ち板を持ち込んで指導に当たった。児童たちにとって水加減、練り加減はちょっと難しく、鮮やかなお年寄りの手さばきに見入っていた。それでもそば切り、ゆでる作業はみんなが手分けして行い、テーブルについたお年寄りの給仕は手ぎわよくやっていた。“おしょうばん”のお年寄りも孫たちと“しっぽくそば”を楽しく食べながら目を細めていた。(以下略)

(2月14日)

手打ちうどんの作り方伝授、お年寄りとチビっ子交流(琴南)

 琴南町教委は、ふる里学級の一環として12日、町総合センターと町集会場で「手打ちうどん講習会」を開き、参加したお年寄りと児童が交流を深めた。両会場には、13人のお年寄りと約50人の児童が参加。40キロの小麦粉を使って手打ちうどんに挑戦した。チビっ子たちは、練り上げから麺棒を使っての延ばし、包丁切り、ゆで揚げまでの流れ作業にお年寄りの指導を受けながら取り組み、食文化の継承に一生懸命だった。

(7月23日)

めん棒とり合い、うどんづくり ミニ・キャンプで子ら挑戦(高松・松縄) 

 夏休み入りした県下は、あちこちでチビっ子たちのお楽しみ行事がいっぱい。高松市松縄町、松縄南一班子ども会(桑嶋紀二会長)の児童たちも21日夕、地域の広場でミニキャンプを張り、手打ちうどんづくりなどを楽しんだ。

 このミニ・キャンプは同子ども会が「地元の自治会の人たちと一緒に夏の思い出づくりを」と企画したもので、主役は中央小1年生から6年まで75人の児童たち。メーン行事は、鉛筆が削れない、りんごの皮がむけない子供たちに何か生活技能を教えようと、お父さんたちが考え出した手打ちうどんづくり。午後6時過ぎ、同町下所の広場で始まったキャンプでは、打ち板の周りに児童が群がる人気ぶり。2.5人前ずつ熟成させたうどんをビニールパイプの麺棒で延ばす作業は、児童たちにとっては粘土細工と同様の楽しさ。麺棒を奪い合いながら、瞬く間に200食分の不揃いなうどんを打ち上げた。同キャンプはこのほか、花火大会、カラオケ大会、お楽しみ抽選会などと盛りだくさん。地区の大人たちと児童との交歓の声が夜遅くまで続いた。

(9月4日)

古老にうどんづくり教わる チビっ子、打ちたてに舌つづみ(三木)

 うどんづくりで世代間のふれあいを深めようと「小学校と高齢者のつどい」が2日、三木町福祉センターで開かれた。うどんの本場ならではの珍しい交流モデル事業に、お年寄りは大張り切りだった。

 風変わりな交歓会を催したのは、三木町子ども会育成連絡協議会と町教委。つどいには、町内各地区の高齢者20人、そして育成会関係者らを合わせた80人が参加した。同センター東側の広場にうどんの打ち台や大釜を特設。2キロの小麦粉が準備され、子どもたちを6グループに分けて、お年寄りたちは小麦粉を練り、延ばし、切るなどの手順を親切に指導した。子どもたちと高齢者は初めて出会ったものだが、手打ちうどんがとり持つ交歓の盛り上がりに育成会員らはにっこり。このあと、出来たてのうどんに舌つづみを打った。

(9月18日)

僕らが作った味格別 手打ちうどんに挑戦(安田小)

 「ぼくらは手打ちうどん屋さん」。内海町安田小学校(高橋順一校長、児童352人)の6年生たちが17日、同校の理科室で生まれて初めて手打ちうどん作りに挑戦、出来たうどんに舌つづみを打った。5、6年生が学校農園で栽培、6月に収穫した小麦100キロ余のうち60キロを製粉してもらい、これを原料に手打ちうどんを創ることになった。

 この日、6年生67人は午前10時40分から理科室で佐伯茂男教諭の指導で手打ちうどん作り。あらかじめ業者に水、食塩を混ぜ、手もみ、押し固め、熟成までの作業をしてもらっており、児童たちは熟成されたうどん生地を、麺棒で何回も延ばし、包丁で慎重に切ってうどんを作り上げた。うどんは平均に太かったが、児童たちの表情はいかにも満足そう。大きな釜でゆで上げ、水洗いして食べたが、原料が自分たちが一生懸命育てた小麦だけに味は格別。

(9月30日)

手打ちうどんも体験 横浜の高校生、研修旅行で琴平訪れる

 「四国をテーマに学び、四国を知ろう」と、横浜市内の高校生が28日、琴平町を訪れた。一行は“門前町こんぴら”を学んだ後、29日は5班に分かれて実地研修に取り組んだ。この高校生は、横浜市の関東学院高校(平塚敬一教頭引率)2年生50人。28日午後、琴平入りし、こんぴら信仰で栄えた門前町を歩いて調査。29日は午前8時半から「さぬきうどん」「浦島太郎」「小豆島文学散歩」「少林寺拳法」「大歩危小歩危」の5班に分かれて実地研修に参加した。そのうち、久能弘樹君ら7人は、仲南町買田にある水車うどん(谷文雄さん経営)を訪ね、谷さんからさぬきうどんの歴史と作り方、味についての説明を聞いた。このあと、手打うどんの作り方実演指導を受け、かま揚げうどんを試食、“さぬきの味”を満喫していた。

 平塚教頭は「7年前から修学旅行をこのような研修旅行にして続けている。四国へ渡ってきたのは初めて。四国の生活、自然にふれ、学ぶことに大きな意義があると思う。これからも毎年生徒を連れて来たい。生徒たちは自分の足で体験した研修をレポートに書き上げ発表する。四国コースは他のコースに負けないようなレポート発表が出来そうだ」と喜んでいた。

 一方、「さぬきうどん研究会」も前出の香川大学でのうどん作り講習会に続き、満濃町公民館で「手打ちうどん講習会」を行いました。こちらは参加者の属性が書かれていませんが、講演もあったということは大人が対象だったと思われます。

(7月29日)

うどんづくり学ぶ(満濃)

 地区民の食生活改善を図るため、満濃町長炭公民館は27日、同公民館で「手打ちうどん教室」を開いた。同うどん教室では、さぬきうどん研究会の会長で香大教授の真部正敏さんの「うどんの作り方と健康食」をテーマにした講演があった後、谷さんのうどん教室へと移り、参加者全員が1キロのうどん粉を使って粉の練り方、延ばし方などの指導を受け、汗だくでうどんづくりに挑んだ。

うどんの慰問先の定番は「お年寄り」と「おまわりさん」

 続いて、うどんの慰問や接待の記事も4本見つかりました。うどんによる慰問先の定番は断然、「お年寄り」と「おまわりさん」です。

(2月5日)

豆まきやうどん接待 吉野里神楽保存会、満濃荘へ節分慰問

 満濃町の吉野里神楽保存会(藤井清会長、会員20人)が楽しい節分を味わってもらおうと4日、同町長尾の老人ホーム満濃荘(篠原正美園長、老人90人)を訪ね、豆まきと手打ちうどんをサービス、お年寄りたちの無病息災を祈った。この慰問には、藤井清会長ら6人の会員が豆まきの後、うどん粉20キロとそば粉3キロでうどん玉250個、そば60個を作り上げ、うどん、そばを接待した。お年寄りたちは「麺棒で延ばすうどんづくりは懐かしい。うどんの味は格別だった」と喜んでいた。同保存会の手打ちうどん慰問は昨年に次いで2回目。

(7月21日)

ドジョウ汁で夏乗り切って 綾南署へ今年も慰問

 「古来のスタミナ源で夏バテ防止を」と綾南町の綾南ボランティア協議会(塩田皓会長、会員16人)の面々が20日、鍋、釜持参で綾南署を訪問、ボリュームたっぷりのドジョウ汁を署員にふるまった。夏の交通安全県民運動や同日から始まった夏期犯罪予防取り締まり月間など警察官が多忙を極めるこの時期に毎年行っている恒例慰問で、塩田会長以下8人の会員が午前8時半から同署駐車場に陣取り、約3時間がかりの調理を開始。大釜2基を据え、煮立っただしにサトイモ、ナス、油揚げ、豆腐、ネギの具を入れ、ほどよく煮えたところへドジョウ3キロとさらに生うどんを100玉。同署員の招集行事が終わる正午前にはみそ仕立てのドジョウ汁80人分が出来上がった。木谷署長以下40人の署員は「夏バテ克服にはこれが一番」とばかり、早速どんぶりにつがれたスタミナ源を2杯、3杯と胃袋におさめ、古里の味覚に舌つづみを打っていた。

(8月7日)

1400人にうどんを接待 善意の募金は福祉団体へ 池戸・七夕まつり

 さぬきうどんまつり(四国新聞社、県製麺組合連合会主催)のチャリティーバザー「うどん無料接待」が6日夜、七夕まつりの催された三木町池戸で行われ、約1400百人に“さぬきの味”がサービスされた。主会場の池戸ひろばで店開きしたのは高松市東部製麺組合(入谷操会長)の会員ら13人。特設の屋台でうどんづくりを披露、最高潮となった夏祭り会場で接待したため、1時間ほどで予定の量がさばかれる人気となった。主催者は無料接待に併せ、募金を呼びかけたため多くの善意が集まった。募金は集計した後、四国新聞社を通して福祉関係団体へ寄贈される。

(12月12日)

打ち込みうどんで丸亀署員を激励 青年会議所の15人

 丸亀青年会議所(秋山憲夫理事長、97人)は10日夜、丸亀署を訪れ、年末特別警戒に当たる署員たちに、熱い打ち込みうどんをふるまって激励した。同JCの会員たち15人は午後6時半ごろから丸亀署の駐車場で料理を開始、用意した2つの大鍋に鶏肉、油揚げ、ゴボウ、ネギなどをうどんと一緒に入れ、手際よく打ち込みうどんを作った。同署の細川署長やこの日警戒に当たっていた約60人の署員たちは、ボリュームたっぷりの打ち込みうどんで体力をつけ、歳末の市内に飛び出して行った。

 他にも記事になっていないうどんの慰問やお接待がおそらくたくさんあったのだろうと思います。近年はあまり聞かなくなりましたが、どうなんでしょう。

「うどん屋と信号機の数」の話が出てきました

 かつて、うどん屋の数が多いことを「香川にはうどん屋が信号機の数ほどある」とか「電柱の数ほどある」とか言われていましたが、その「信号機」の方の言い回しが新聞に初めて出てきました。

(10月7日)

コラム「一日一言」

 こんなクイズはどうだろう。県下のうどん屋さんと、信号機は、どちらが多いか。答えは、うどん屋さんだそうな。うどん屋さんはおよそ2000軒といわれている。信号機の方は990所ほどある。昭和28年に、高松の五番丁交差点に設置されて以来、30年間に1000基に手が届くほどになった。…(以下略)

 まだ「うどん屋は2000軒」という表現が出ていますが、筆者が2006年に調べたデータでは、うどん店約820軒に対し、信号機は約8100本、電柱は約17万本ありました(笑)。ただし、日本で電気式信号機が初めてできたのは昭和5年、電柱が初めてできたのは明治時代だから、その頃からうどん屋があったとすれば、最初は信号機や電柱よりうどん屋の方が多かったはずで、それが逆転したということは、どこかで「うどん屋と信号機の数」や「うどん屋と電柱の数」が一致した瞬間があるはずだと。そして電柱埋設工事が進む中、将来再び「うどん屋と電柱の数」が一致する瞬間が来るのではないかとにらんでいるのですが(笑)。

香川大学生が「うどんコラム」を寄稿

 続いて、香川大学の編集集団「極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ)」が、四国新聞にコラムを寄せていました。

(7月8日)

コラム「蜻蛉の目」/県外生にも人気、政令指定のうどん都市? 由来知れば美味倍増

 香川県の名物は、と言えば、必ず出てくる「うどん」。香大生は県外出身者が6割以上を占めますが、このさぬきうどんについてどう思っているか、アンケートをとってみました。まず、「あなたはうどん・そば・ラーメンのどれが好きですか?」結果は1位ラーメン54%、2位うどん29%、3位そば14%となっています。なぜ、讃岐にいながらラーメンが1位なのか、と疑問をもつ人もいるかと思いますが、ラーメンとはいってもこれは、インスタントラーメンのことです。下宿していて、手軽につくれて保存がきき、安いインスタントラーメンは、学生にとって必需品なのであります。ですから、2位のうどん29%は、たいへん高い数字であり、讃岐ならではの結果といえます。

 次に、「なぜ香川県には、うどん屋さんが多いのですか?」と質問したところ、「郷土の名産だから、本場だから」という人が大多数を占め、おもしろい回答としして「政令指定のうどん都市だから」とか、「香川の意地だから」とか「香川にはうどんしかうまいものがない」という過激(?)な意見もありました。では、本当に、なぜ、さぬきは、うどんの名産地なのでしょうか。調べてみたところ、それは讃岐はうどんづくりの三要素がみたされていたからだそうです。第一に暖かいから、小麦がよくとれたこと。特に西讃の象頭山あたりの小麦が最適だったそうです。第二に、近くに坂出の塩田があり、うどんに必要なにがり分の多い塩がとれたこと。そして第三に、まあ少ないながらうまい水があることです。若者のみなさん、特に学生のみなさん、こんなことを知って、うどんを食べてみたら、またおいしいのではないでしょうか。そしてさぬきうどんを見直してはいかがですか。(香川大学編集集団「極楽蜻蛉」)

 大した内容のコラムではないけど香川大学の学生だからまあええか…と厳しい評価を下したのにはワケがありまして、実は筆者はタウン誌を創刊して2年目のちょうどこの頃、この「極楽蜻蛉」という編集集団の学生編集長たちを編集のアルバイトとして使っておりました(笑)。ま、いかに人材不足だったかということで(笑)。

主婦が“一日記者”になって「かな泉」本社工場を取材

 続いて、「主婦の一日記者」という企画で、高松市内の主婦の方が「かな泉」の本社工場を訪ねて記事にしていました。

(7月23日)

「主婦の“一日記者”」/さぬきうどん…うっとり職人芸、明るくてきれいな環境

 高松市のメーンストリート、中央通りを東に約20メートル、日銀跡西側に「かな泉」本社工場がある。讃岐で生まれ育った私は、大のうどん好き。関心の深い今日の見学である。真夏日の午後2時ごろ、工場を訪ねた。

 「神武天皇の古さもさることながら、うどんの歴史もかなりさかのぼる。その古さの価値は手でこね、足で踏み、手で切るところにある。その良さを生かした、いいものを、最高の時点でお客様に召し上がって頂くことをモットーにしている」と泉川隆亮社長は話してくれた。お客様の前で手打ちうどんの実演を始めたのが17年前。今では丸亀、箕浦、松山など12店舗、従業員も人海戦術をとってパートを含め230人。25キロの小麦粉を1日平均30袋使い、日産3万食。讃岐人のうどん好き、全国平均の6倍がうなずける。

 讃岐の手打ちうどんは、良質の小麦粉を使い、塩に対する水の量を寒には土用の倍加える「土三寒六」と呼ぶ独特の製法がおいしさの秘けつ。「味には小麦粉と食塩の濃度、加水、熟成、温度と5つのポイントがあります。こしの強さは、生地の練り方、こね方、ゆで方で決まります」。説明してくださる社長さんの口調に力がこもった。

 工場内に入ると、小麦粉の袋の山、周りは真っ白。職人さんが慣れた手つきで作業をしていた。粉を練って生地にする。熟成、生地を踏み機にかける。麺棒で生地を延ばす。沸騰している釜(かま)に麺(めん)を入れる。竹棒でまぜる。沸いて来ると湯の粘りを加減しながら差し水。麺が白く透明になるまで12~13分。10度の冷水に入れ、粘りをとること3回、ザルに打ち上げる。出来上がるまで約3時間の製造工程だ。

 出来るだけ手打ちの工程を残そうとしているのが特徴。県の条例で禁止された足踏みにかわって、独自に開発した踏み機も使っている。最終段階の線切り作業では、職人さんが一枚包丁を使ってリズミカルに麺を切っていた。高く上げると幅広く、低くすると幅狭く、同じ高さ、幅で切るのは、さすが職人芸だと感心した。

 社長さんは「ゆで上がって15分以内に食べるのが、一番おいしい食べ方だ」と教えてくれた。ここではつくりだめはしていない。同社のメニューは約30種。このところのヒット作品は「梅干しうどん」と「ワカメうどん」。「消費者が食べ物にも健康を求めているのがよくわかります」と社長さん。民芸風の店づくり、京都の老舗から取り寄せた自慢の桶、気配り十分のディスプレー環境はもちろんのこと、明るく、きれいで、安心して食べられるように努力されていることがよくわかった。旅の途中で食べた「かな泉」のうどんに魅せられて、そのまま「教えてださい」と居ついた職人もいるとか。県外修業者は約40人に上っている。“地の利”とはいえ、こんな魅力たっぷりの讃岐うどんを常に食べれる私たち。本場に生まれた幸せを実感した一日記者だった。

 一般の主婦とは思えない流ちょうな記事は、おそらく新聞社のプロの手が入っているからですが(笑)、
・昭和42年に「手打ち実演」を始めた。
・従業員は12店舗で230人もいた。
・工場内では職人が粉から手作業でうどんを作っていた。
・足踏みは「踏み機」を使い、切り作業は「高く上げると幅広く、低くすると幅狭く」とあるので、今も多くの店で使われている「麺切り台」が使われていた。
・社長は話に神武天皇まで出してくる博学の人だった(笑)。
等々、当時の讃岐うどんを代表する「かな泉」のリアルな情報がいくつも出てきました。ちなみに、文中に「県の条例で禁止された足踏み」とありますが、今、讃岐うどんの歴史を語るいろんな方が「足踏み禁止令は出ていなかった」と言っています。事実はどうだったんでしょう。

三木武吉の「うどん食い逃げ事件」が久しぶりに登場

 郷土が生んだ豪傑政治家・三木武吉先生を語る時に必ず出てくる「うどん食い逃げ事件」のエピソードが、久しぶりに「讃岐人物風景」というコラムの中に登場しました。文責は四国新聞の津森さんです。

(10月28日)

讃岐人物風景/三木武吉 “うどん食い逃げ”で高中退学

(前略)…このバンカラなタケヤンにとって虚実入り混じって伝わっているのが高松中2年のときの“うどん食い逃げ事件”である。この事件が三木の人生を決定づけたのであった。いたずらざかりの数人(11人とも、5、6人ともいう)が、夜なきでうどんを食い、そのうちの1人が逃げた。
「あの子はお前たちと一緒か」
「あんなやつ知らん」
「あいつ食い逃げだ」
 おやじがあとを追っているうちに三木らもいなくなってしまった。事実はともかく計画的に“共謀”したということになった。また一説では、この事件の“真犯人”はまったく別人で、その少年が松平家の重役の家柄の子弟だったので事件が知れるとその少年が父親に殺されるかもしれないと、みんなで三木を首謀者にしたのだというのだ。また、食い逃げ事件を起こして逃げる少年たちのところにたまたま三木が出くわし、少年らが「オイ三木、そっちに行くとあぶない。オイ三木」と呼んだので、追っかけて来たおやじが「三木という少年が犯人だ」と言い、ついに犯人にされたという“エン罪”説もある。このため、学校側への届け出で三木ら4人が退校になった。三木は何の弁解もせず退校処分に応じた。父古門も「食ったものならうどん代くらいは払うべきだ」とのんきなことを言っていたという。

 この話は、とっくに人々の口から消えていたが、のちに講道館八段となった同じ退校組の高橋数良が昔話をしたのに尾ヒレがつき、“三木伝説”となったといわれる。大政治家・三木武吉だけに愉快な話となった。生前の三木はこの“うどん食い逃げ事件”について何もいわず、ただニコニコするだけで聞き流していた。退校になった三木はあっさり高松を出る決意をして京都の同志社中学校へ転校をするのだ。18歳の少年、三木のひとつの転機である。この“うどん事件”は、三木にとって大きい事件であったが、もしこのことがなければ三木は平凡に高松に居たことになる。…(以下略)

 「三木武吉のうどん食い逃げ事件」の真相は微妙によくわからないみたいで、いろんな人が話に尾ひれを付けて語り継いでいるみたいですね。しかも、国会では「家賃を3年以上ためている」とか「妾が5人いる」とか堂々と話していたらしい三木先生も、この事件の真相は語ってないみたいですし(誰かをかばっているのかもしれませんが)。とりあえず、「三木先生が高松中2年の時の話である」、「夜なきうどんだから屋台のうどん屋での出来事である」の2点だけ確定ということにしておいて、あとは「伝説」として語り継ぎましょう(笑)。

 ちなみに、讃岐うどんに関連する「伝説」は他に、

●その昔、四国で悪さをしていたキツネを弘法大師が「鉄の橋が架かるまで帰ってくるな!」と言って本州に追い払った。ところが、1988年に瀬戸大橋ができて本当に「鉄の橋」が架かってしまい、「これは悪いキツネが帰ってくるぞ」と思っていたら、瀬戸大橋効果で殺到してきた観光客相手に「1杯900円」の「悪いきつねうどん」が出てきた。

という小ネタがあります(笑)。あと、“微ネタ”としては、

●讃岐うどん巡りブームで「ゲソ天」が飛ぶように売れ始めたため、香川県内の水産会社で「イカの胴」が余っている。
●讃岐うどん巡りブームで超人気店になった「山越」がいつも県外客の大行列になって地元客がなかなか食べられなくなった時、「山越の近くの滝宮病院の病院食に山越のうどんが入っているらしい」という噂が流れたところ、滝宮病院に入院患者が増えた。
●讃岐うどん巡りブームが頂点に達した2000年頃、携帯電話の普及のために全国の「人の多い場所」にアンテナを立てて回っていたDDIポケットが綾上町で一番人の多い場所を調査した結果、町内で一番人が集まるのは「山越の行列」であることがわかって、「山越」のすぐそばにアンテナを立てた(当時筆者の会社でDDIポケットを担当していた営業社員の話)。

等々がありますが、基本「デマ」なのであまり拡散しないように(笑)。

うどん広告は依然、好調です

 では最後にいつものように、うどん関連広告(大半は一般協賛広告と「さぬきうどんラリー」の協賛広告)を出した店(会社)と、その広告本数の一覧です。

<県内うどん店>
【高松市・中心部】

「かな泉」(高松市大工町他)……… 27本
「あわじ屋」(高松市丸の内)…………6本
「川福」(高松市ライオン通)…………8本 10月9日「ライオン通中店」オープン
「更科」(高松市ライオン通)…………1本
「都由」(高松市ライオン通)…………6本
「鶴丸」(高松市古馬場町)……………6本
「番丁」(高松市番町他)………………8本
「めん」(高松市番町)…………………8本
「源芳」(高松市番町)…………………1本
「久保製麺」(高松市番町)……………7本
「こんぴらうどん小河」(高松市番町)6本
「福八」(高松市今新町)………………7本
「井筒製麺所」(高松市西の丸町)……8本
「丸川製麺」(高松市中新町)…………8本
「さぬき路」(高松市中新町)…………6本
「空海」(高松市福岡町他)……………5本 10月9日「本店」オープン、12月6日「末広店」オープン
「源氏うどん」(高松市上福岡町)……1本
「すゑひろ」(高松市中野町)…………7本
「松下製麺所」(高松市中野町)………7本
「さぬきうどん」(高松市栗林町他) 10本
「上原製麺所」(高松市栗林町)………6本
「丸山製麺」(高松市宮脇町)…………6本
「さぬきや」(高松市松島町)…………6本

【高松市・郊外】

「さぬき麺業」(高松市松並町他)……8本
「大島製麺所」(高松市太田上町)……1本
「大島製麺所」(高松市太田上町)……6本
「大にし」(高松市多肥上町)…………6本
「わら家」(高松市屋島中町)…………1本
「ふるさとうどん」(高松市春日町)…6本
「善や」(高松市新田町)………………6本
「やしま」(高松市高松町)……………6本
「ふじむら」(高松市東山崎町)………1本 11月15日オープン
「うどん矢」(高松市林町)……………1本
「花車」(高松市元山町)………………1本
「さぬき一番」(高松市一宮町他)……6本
「元」(高松市一宮町)…………………6本
「元禄」(高松市檀紙町)………………6本
「田中松月堂」(高松市御厩町)………6本

【東讃】

「権平うどん」(白鳥町)………………1本
「門家」(志度町)………………………1本
「雲海」(志度町)………………………1本 3月1日オープン
「入谷製麺」(長尾町)…………………1本
「つるわ」(長尾町)……………………1本
「八十八庵」(長尾町)…………………8本
「入谷製麺」(長尾町)…………………6本
「ねんごや」(三木町)…………………6本
「つゞみ屋」(牟礼町)…………………6本
「山田家」(牟礼町)……………………1本
「山進」(香川町)………………………6本

【中讃】

「山下うどん」(国分寺町)……………1本
「和香松」(坂出市京町)………………7本 12月14日オープン
「上原製麺所」(坂出市室町)…………6本
「やじろべえ」(丸亀市土器町)………1本
「まごころ」(丸亀市蓬莱町)…………8本
「吉田屋」(丸亀市今津町)……………6本
「木村」(飯山町)………………………1本
「オビカ食品」(綾上町他)……………1本
「長田うどん」(満濃町)………………3本 6月8日「丸亀店」オープン

【西讃】

「うどん心」(詫間町)…………………1本
「フジうどん店」(仁尾町)……………1本

【島嶼部】

「すえ宏」(内海町)……………………1本

<県外うどん店>

「川福」(大阪市南区)…………………1本
「玉藻」(東京都新橋)…………………1本

<県内製麺会社>

「松野製麺所」(高松市花ノ宮町)……8本
「国方製麺所」(高松市多肥上町)……6本
「民サ麵業」(高松市勅使町)…………1本
「高松製玉部」(高松市)………………1本
「日根うどん」(大内町他)……………1本
「藤田製麺」(志度町)……………… 11本
「藤井製麺」(三木町)…………………7本
「石丸製麺」(香南町)…………………1本
「柳屋」(坂出市白金町)………………9本
「日の出製麺」(坂出市富士見町)……1本
「丸亀製麺」(丸亀市城西町)…………1本
「わたや製麺所」…………………………1本

<県内製粉会社>

「日清製粉」(坂出市)…………………1本
「吉原食糧」(坂出市青葉町)…………1本
「木下製粉」(坂出市高屋町)…………1本
「日讃製粉」(多度津町)………………1本
「豊国製粉所」(観音寺市粟井町)……1本
「安田製粉」(内海町)…………………1本
「日本製粉」………………………………1本

<その他うどん業界>

「福井工作所」(坂出市)………………1本
「さぬき麺機」(高瀬町)………………3本

オープン広告は7本

 続いて、オープン広告を開店順に。

●「雲海」(志度町)…3月1日オープン

S59年広告・雲海・オープン

●「長田うどん・丸亀店」(満濃町)…6月8日オープン

S59年広告・長田丸亀店・オープン

●「川福・ライオン通中店」(高松市ライオン通)…10月9日オープン

S59年広告・川福中店オープン

●「空海」(高松市福岡町他)…10月9日オープン

S59年広告・空海オープン

●「ふじむら」(高松市東山崎町)…11月15日オープン

S59年広告・ふじむらオープン

●「空海・末広店」(高松市末広町)…12月6日オープン

S59年広告・空海末広店オープン

●「和香松・京町店」(坂出市)…12月14日オープン

S59年広告・和香松オープン

攻めてくる「かな泉」の広告(笑)

 以前、「森村さんも食べに来ませんか?」という謎のキャッチコピーのついた広告を出した「かな泉」が(「昭和57年」参照)、今度はCMクイズを出してきました。

S59年広告・かな泉CMクイズ

 ほとんどのうどん店、うどん関連会社が「協賛広告」しか出さない中、唯一、ビジュアル(写真等)に凝り、コピーに凝り、デザインに凝って広告らしい広告を展開しているのは「かな泉」だけですが、今回は例の「中高年以上の香川県民が頭を巡るローカルCMソングランキング」の第2位(第1位は「ビデオインロッキー」・笑)の「♪かないずみ~」のCMで美しくうどんを盛るあの“手”のクイズです。正解しても商品も何もありませんが、多くの人がこの日のCMで確認したことと思います(笑)。

 続いては、同じく「かな泉」のお土産うどん「しこしこさぬき」の広告。

S59年広告・しこしこさぬき

 うどん商品にこの手のネーミングをするのも「かな泉」ならではですが、「かな泉」が「しこしこさぬき」を出したということは、かつては「コシコシ」だった麺の食感の表現が、もはや完全に「シコシコ」に統一されたと言わざるを得ません。こうやって周りにぐるぐる回されたら「こしこし」も見えますが(笑)。

ハウス食品が「花さぬきざるうどん」を新発売

 天下のハウス食品が、あの当時一世を風靡した「マダムヤン」と並べて「花さぬきざるうどん」を発売しました。

S59年広告・ハウス花さぬき

 この2商品を並べたのは香川県の広告だけの仕様かもしれませんが、いずれにしろ、全国ブランドが「讃岐うどんが商品になる」と判断して新商品を作ったという意味で、ちょっと注目です。ただし、写真のうどんの盛り方が麺をざるにバサッと置いた感じで、ざるそばみたいな扱いになっているところが甘い(笑)。「かな泉」のCMの、あの美しいうどんの盛り方(筆者はあれを「讃岐盛り」と命名しましたが、ちっとも定着しませんでした・笑)を見習ってほしいものです。

(昭和60年に続く)

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