さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.5 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和23年(1948)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 5
  • 2018.09.03

まだまだ厳しい統制経済下なのに、庶民生活は次第に“ご陽気”に?!

 終戦から3年目、昭和23年に入りました。新聞記事には相変わらず米と麦と乾麺とニボシの「ヤミ取引」検挙のニュースが頻繁に登場していましたが、一方で、庶民生活を紹介した記事には県民が結構楽しくやっていたような描写も出てきて、新聞からだけでは香川は大変だったのか元気だったのかよくわかりません(笑)。まあ、戦後の荒廃期といっても、日本全国も香川も「隅から隅までことごとく荒廃していたわけではない」ということでしょうか。ちなみに、讃岐の食文化としてのうどんの風景は、まだまだ新聞には出てきません。

 では、終戦から3年経った昭和23年の香川の、食生活がらみの事情がわかる記事をいくつか拾ってみましょう。まずは年明けのこんぴらさんの様子から。

こんぴらさんの旧正月は大にぎわい

(2月11日/四国新聞)

新正よりも人出
金毘羅さん遠来の客で人の波

 旧正元日の10日は、讃岐金比羅さんでは早朝から詰めかけた参拝客で大賑わいを呈し、そのほとんどが供米も終わりほっと一息をついたお百姓さんたちで、新正よりもぐっと人出が多く、高琴、琴参両電車は大入り満員。省線琴平駅では午前中の三本列車で岡山、姫路などの遠来の客を500名ほど運んだ。一方、かき入れ時の同宮では、みくじ、お守なども飛ぶように売れて行き、午後からは昇殿祈祷の四国四県下の講中その他の団体が目立ち、鳥取地方から来た約150名の参拝客が同宮でおかゆをすすり、年越した。人波の蠢く参道では、農村景気を反映してかファッションスタイルの若い男女が人目をひき、晴姿を写真にと店先に立ち並ぶ人たち、開帳中のむしろトバクで2500円也をちょろりと負けてあっけなく立去るお百姓さん衆もあり、さまざまの風景を描き出した。

 旧正月のこんぴらさんは、新正月より大にぎわいだったという記事です。この頃、琴平へは高琴、琴参、省線の3つの鉄道が通じていました。「高琴」は高松琴平電鉄で、今の「ことでん」の前身。「琴参」は坂出から丸亀〜善通寺赤門を経由して琴平に行く路線と多度津から赤門を経由して琴平に行く路線を持っていた電車(昭和38年に廃止)、「省線」は省営鉄道で、のちの国鉄〜JRです。岡山、姫路、鳥取など、県外からもこんぴらさんへの参拝客が押し寄せていたそうですが、県内では「農村景気」でお百姓さんたちがなかなか派手に振る舞っていたようで、「むしろトバク」で散財していたらしい。というか、当時のこんぴらさんでは賭博の御開帳がオッケーだったんですね。もちろん、ギャンブル依存症なんか誰も言っていなかったようです(笑)。

香川の乾麺どころは「小豆島」と「仏生山」と「豊浜」だった

 さて、昭和23年の四国新聞から、戦前の香川県の乾麺どころを窺わせる記事が発見されました。

 まず1つ目は仏生山町(この頃は高松市ではなく香川郡)。4月14日の四国新聞によると、仏生山町が町制実施50周年を迎えていろんな行事を開催したそうですが、そこに「よみがえるカサの町」という見出しで、「かつての主産品そうめんは食管法で姿を消し、代わって現産業の筆頭はカサで業者40軒を数え、年産5000万円にのぼり、ついで竹細工100万円、バツカン真田(麦稈真田=麦わらを編んだ入れ物などのサナダ製品)50万円などがあげられる」とありました。つまり、戦前の仏生山は「カサ」と「そうめん」の名産地だったそうで、その後、そうめんは食管法で姿を消したけど、カサは甦ったという記事です。今や、カサも竹細工もサナダも面影なしですけど。

 そして2つ目は、豊浜町。10月25日付けで豊浜町の特集ページのようなものが組まれていましたが、そこにこういう記事が。

西讃に雄飛する豊浜町産業界の展望
全国的に雄飛する乾麺、創業と古い歴史の誇り

 当町の乾麺業は、小豆島の乾麺と相まって自由経済時は遠く山陰、北陸、九州、朝鮮、台湾等全国的に雄飛して、その名声高きものがあった。現西讃乾麺組合出張所理事長合田輝一氏は金栄丸製麺所の所主で、創業明治28年、三代にわたる業界の功労者である。大寿屋、萬城屋、美濃屋も西讃乾麺界の人々で、有数の人として県内外に知られている。

農林省指定乾麺工場 農林省指定製粉工場
金栄丸製麺所 合田照一
大寿屋製麺所 合田平三
萬城屋製麺所 合田武雄
美濃屋製麺所 大西重一
萬城屋製麺所 合田金次

 戦前の豊浜町は、小豆島と並ぶほどの「乾麺」の産地だったそうです。今、当プロジェクトの萬谷調査員が「豊浜町のそうめん」の話を発掘していますが、そのあたりの取材中にお話を聞いた「金栄丸の合田照一さん」(「昭和の証言vol:275」参照)や、県下最長カウンターのあったセルフうどん店「萬城屋」さん(閉店)の名前がここに見えます。

 加えて、記事の冒頭に「小豆島の乾麺と相まって」とあることから、小豆島が乾麺どころだったことはすでに周知の事実。ということは、戦前の香川県の乾麺の名産地は小豆島と仏生山と豊浜で(まだどこかから出てくるかもしれないけど)、そのうち、まず「仏生山のそうめん」が戦後の食管法で姿を消し、昭和23年時点でまだまだ隆盛だった「豊浜の乾麺」も今日までにその多くが姿を消し、「小豆島の乾麺」が「小豆島そうめん」として今も残っている…ということでしょうか。

小豆島の名産は「そうめん」だったのか? 「乾うどん」だったのか?

 ただし、この昭和23年時点では小豆島は「乾麺」と表示されていて、仏生山みたいに「そうめん」とは明記されていません。また、8月11日の記事にも「好天気で順調、小豆の干メン」という見出しで、記事も「香川県小豆郡池田町を中心とする各干メン業者が好天気に恵まれ全運転し、第二・四半期分の製造を急いでいるのが10日現在で1万5000箱となっている。香川県全体では内地小麦10万袋を原料とする第二四半期生産計画量12万5000箱中、10日現在で4万箱の生産となっている」とあり、四国新聞を読む限り、小豆島の乾麺に「そうめん」という表記は出てきません。

 そういえば、「新聞で見る昭和21年」の中には「小豆島の香川県乾麺統制組合理事長の藤本氏が、島内の機械乾麺業者12名と協力して小豆島中学の寮生40人に乾うどん19キロを寄付した」という記事が載っていて、この時に寄付したのは「そうめん」ではなくて「うどん」でした。うーむ、どういうことでしょうか? 今でこそ「小豆島はそうめん」と言ってブイブイいわしとるけど、戦後の小豆島はそうめんより乾麺のうどんの方がたくさん生産されていたのか? あるいは、そうめんは名産でいっぱい作ってたけど、高くてもったいないから安いうどんの方を寄付したのか?(笑) ちっちゃな謎が出てきたけど、頑張って調査する余裕がまだないので、そのうちどこかから何かの証言とか資料が出てくるのを待とう。

ミナト高松は浮かれてるぞ(笑)

 続いて、今度は7月1日付けで、高松市街地の風景を紹介したコラムを見つけました。何やら様子がメチャメチャごきげんです(笑)。文章が七五調になっていたので、調子で区切って再掲してみましょう。

その昔、
夕ともなれば、このあたり
ネオンライトとジャズの波
ミナト高松の賑わいを 
一手に集めた歓楽街

キャバレー、カフェー、レストラン 
天神さまのおぜんざい
平安、常磐、三友堂 
甘いも辛いも好み次第

映画帰りの一刻は 
おすし食べよか、おそばにしようか
バナナやおまんじゅうみやげに買って 
一夜の歓喜をふところに 
楽しく遊べた夢の町

片原町は観光地 
サヌキ高松をシンボライズする
エトランゼ達の夢の宿だったが
戦火に消えて三年目 

きょうこのごろのこの町は
ジープ、トラック、自転車と 
人、人、人のはんらんだが
今は昔の夢はなく 
ただひたむきの再建に 
インフレ苦難を乗り切ろうと 
歩み続ける姿です

 この名調子のあと、「遊都高松を代表する歓楽街は、終戦後、新興常磐街に立ち遅れ、未だ騒然とした乱調子ですが、琴電片原町駅の開設はこの地の復興に拍車をかけ、日ごとに活況を取りもどし、急テンポの復興気配が見えて来た」という記事がありました。すなわち、戦前の高松市片原町は、なかなかの歓楽街だったようですが、戦争で一旦廃墟と化し、それが昭和23年には「ネオンライトとジャズの波」に復活した、と。けど、どうも戦後の高松は「新興常磐街」が先に歓楽街として復興したみたいです。今はシャッター街の代表みたいなトキワ街ですが、こう見てくると、昭和の高松の商店街エリアはかなりダイナミックに動いてきたことがわかりますね。

食糧事情はまだまだ配給制度下です

 しかしそれでも、日本はまだまだ「主食は配給、飲食店で主食を扱えるのは指定を受けた外食券食堂(配給された外食券を持つ人だけが食べられる)だけ」という、とても浮かれていられるような状態ではありません。また、6月23日付の新聞によると、この年の7月、アジア救済公認団体「ララ」(「新聞で見る昭和22年」参照)から日本に大量の小麦が到着し、それを受けて文部省が全国200以上の都市の学童に給食用の「うどん」が贈られたとのことで、学校の給食もまだまだアメリカからの支援がなければ十分に出せないという状況が続いていたようです。では、庶民の食生活を左右する「主食の配給制度」に関する記事を拾ってみましょう。

 まず、8月1日から「新配給通帳制度」なるものが実施されました。それまで46種類もあった米穀配給通帳(通称「米穀通帳」)を、家庭用、農家用、労務者用、旅行者用、船員用、その他の6種類に統合したそうです。米穀通帳は、これがないと米や主食代替品の配給が受けられなかったり飲食店で米を使ったものが食べられなかったりするという食料統制時代の必需品で、身分証明書代わりにも使われていたそうですが、ヤミ受配等に悪用するものが絶えなかったため、新しいバージョンを出して不正防止の効果を狙ったようです。

 ちなみに、発表された「制度の改善点」の中に「外食者は朝昼夕食ごとにそれぞれ違った食堂を利用し得る」という項目がありました。ということは、それまでは違う食堂で食べちゃいけなかったのか? でも、店はあちこちにいっぱいあったみたいだし、「ミナト高松はネオンライトとジャズの波」だったらしいし(笑)…謎だ。

 続いて8月12日の記事に、「香川県うどん賃加工業協同組合が、食糧公団からの粉食配給中にパンなどと同様うどんを加えることにし、秋口からは生うどんの配給を実現しようと準備中」とありました。具体的な内容や配給の仕組みはよくわかりませんが、とりあえず、当時の香川県には「香川県うどん賃加工業協同組合」というのがあった、と。「賃加工」というのは「農家から小麦粉を預かって、注文に応じて加工賃をもらってうどんに加工する」という仕事のことだから、要するに「開業ヒストリー」や「昭和の証言」でよく出てくる「玉売りだけの製麺業者」だけの組合ですね。その「うどん賃加工組合」が、配給を仕切っている食糧公団に対して「小麦粉の配給に“パン用”があるのと同じように、香川は“うどん用”も加えてくれ」という要望をして、それが受け入れられたので「秋からそれをうどんに加工してみんなに配給するよ」ということでしょうか。

 続いて8月29日付けで「配給」の内容がわかる記事が載っていましたので、ご時世を知るために並べてみましょう。

<香川県食糧課による主食配給(9月分)>
・米…9日分
・精麦…13日分
・小麦粉…4日分(うちパン5食分)
・干メン…2日分
・砂糖…2日分

<高松市物資課扱いの副食物配給(昭和23年上半期合計)>
・煮干いわし…35匁
・いわし削節…15匁
・するめ…20匁
・こんぶ…40匁
・塩製鯨肉…30匁
・寒天…1匁
・輸入のり…2枚半
・魚粉…100匁(妊産婦1人当たり)
・焼ふ…20匁(妊産婦1人当たり)

 「主食配給」を見ると、米と麦と小麦粉と干メンと砂糖を合わせて30日分になりますね。ということは、9月は30日だから、米を9日食って、麦を13日食って、小麦粉でパンか団子か何かを作って4日食って、干メンを2日食って、あと2日は「砂糖をなめて頑張れ」ということ・・・じゃなくて、この配給の上に、農家の人は自分ちで穫れたものが上乗せになり、農家以外の人は別のお仕事で得た収入で別途に食糧を買って食べてたということでしょう。あと、「副食物配給」は「前年の約2倍に増え、下半期もさらに増える予定」とありました。妊婦さんには魚粉と焼ふが上乗せ配給です。

 さらに、翌8月30日には、こんな記事が載っていました。

穀類は一人3キロまで
旅行者主食携行量、全国一律となる

 これまで、旅行者や移転者の主食携行量に対する各県の取締がまちまちであったが、農林省はこのほど全国一律の方針を立て、各県知事にあて通達した。その内容は、旅行者の場合、穀類(米、大麦、裸麦、小麦、雑穀、でん粉、めん類、パン)は一人3キロ(約二升一合)まで、芋類(サツマ芋、ジャガ芋)は二貫目まで。証明書は一切不要である。

 転出者の場合は穀類5キロ(約三升五合)と芋類三貫目までだが、これは転出証明書持参の者に限る。その他、砂糖などは穀類に応じて取扱うことになっているが、穀類と芋類はそれぞれ制限一杯になっているので、旅行者は穀類3キロ、芋類二貫、転出者は穀類5キロ、芋類三貫を同時に携行できる。

 何やらいろいろなルールができていますが、食糧事情はまだまだ厳しいようです。

相変わらずヤミ物資は後を絶たず・・・

 では、この厳しい食糧管理の裏で、前年に引き続きヤミ物資で一儲けを企む輩がどんどん捕まっていますので、抜粋してみましょう。

●1月8日付…日通倉庫に不正品
 高松市浜ノ町の日通倉庫から「三人組の賊が倉庫に侵入し、保管中の缶詰約100個、タバコ2万2000本、多量の干めん等が盗まれた」との通報があり捜査したところ、倉庫内に多量の専売品が隠されていることが発覚。泥棒の被害を届けたら自分の悪事がばれるというおマヌケな事件があった。

●1月23日付…拾った通帳で主食1570キロを詐取
 高松市宮脇町無職○○○○○(38・女)は21年2月頃、市内栗林公園東門付近で同市中之町○○○○さん名義の米麦通帳を拾い、22年1月頃、当該通帳に9名の架空の人物を記入して市役所から新通帳の再交付を受け、同年1月4日から11月末日までの間、前後23回にわたり食糧営団栗林配給所他から米麦、カンメンなど主食1578キロを詐取していたことが発覚し、現在高松署で取り調べ中。

●1月25日付…坂出でヤミニボシ検挙
 1月21日、坂出駅で張り込み中の坂出署員が、ニボシのヤミ物資11袋を運んでいた男2名を検挙。

●2月11日付…ニボシの集団ヤミ屋を検挙。
 2月9日、坂出市警察署が坂出駅でニボシの集団ヤミ屋(男6人)を検挙、40袋のニボシを押収した。違反ニボシは国民に配給される。

●6月5日付…高松署、ヤミ屋退治に写真機を導入
 高松水上署で、ヤミ常習者や悪質ブローカーを撮影して二度と仕事をできなくするために、写真機2台を備え付けた。

●6月13日付…坂出港のヤミ主食取締り
 坂出署が坂出港中央岸壁で主食取締り陣を展開した。まず、入港した弘仁丸の乗客40人から、リュック、風呂敷包み、トランク等に隠し持っていた主食を押収。続いて入港したときわ丸からは、デッキの救助ボートの中から麦入りの風呂敷包みを5〜6個、船内の畳を上げた床板の下からヤミ主食を発見し押収し、合わせて68名の男女を検挙した。違反物資は、米一石二斗、麦二石一斗五升、小麦粉21貫、干めん20貫、ケイ卵942個。

●7月30日付…ヤミ船急襲、米30石を押収
 7月28日に、小豆島の土庄港に武装警官など120名が出動した大捕物が決行された。捜索されたのは尼崎汽船・日海丸(多度津〜阪神航路)と近海汽船・葵丸(観音寺〜阪神航路)の二隻で、押収されたヤミ物資は、精米519.5キロ、押麦71.6キロ、乾麺657.4キロ、丸麦21.5キロ、空豆2.6キロなど大量。主食類の不法所持者176名を検挙、悪質業者18名が書類送検された。

●8月3日付…綾歌でメリケン粉の大ヤミ
 香川県綾歌地区署で7月29日、綾歌郡松山村の苦汁工場から大阪方面にヤミ輸送されようとしていた干めん70箱(一箱50入り)を押収。

●8月3日付…メリケン粉のヤミ二件摘発
 8月2日午前4時頃、高松市築港新世界マーケットから築港桟橋駅へコモで包んだリンゴ箱を運んでいる男を高松築港水上署員が発見し、取り調べたところ、同マーケット内に住むブローカー(27)が阪神方面にヤミ売りするためメリケン粉約30貫をリンゴ箱6つに分けて輸送途中のものと判明。また、同時刻、坂出市御供町無職(25)が阪神方面へ輸送中のメリケン粉15貫および米二斗二升が取締りの網にかかった。両名とも主食ヤミ常習犯と見られている。

●8月5日付…丸亀でヤミ船の手入れ、米麦七石押収
 香川県丸亀警察署では2日午後、丸亀港出帆の日本近海八千代丸(293トン)を臨検。船員室、便所、倉庫などから米麦七石余をはじめ、カンメンその他多数を発見。40余名を取調べるとともにこれを押収した。

●8月19日付…主食の大ヤミ、綾歌で挙がる
 香川県綾歌郡松山村の乾メンヤミ売り事件の検挙については既報の通りであるが、その後、綾歌署ではこの種のヤミ事犯を根こそぎ検挙すべく鋭意捜査中、2日ごろ綾歌郡松山村大藪港から同村○○○○所有の金比羅丸および同村川西苦汁工場所有の久吉丸、大阪市港區西岡町○○○○他3名へヤミ売りしていたことが判明し、16日送庁した。

 1月〜8月までに新聞に載ったヤミ検挙ニュースは11本。9月以降は「ヤミ検挙」の記事が見当たりませんでしたが、こういう悪事はそうそう簡単に根絶できるわけがないので、警察が一休みしたか、新聞が飽きたかのどちらかでしょう(笑)。

昭和20〜30年代の讃岐うどんは、乾麺が大量に流通していたらしい

 それにしても相変わらず、ヤミ物資の一角に「干めん(乾麺)」が出てきます。「昭和の証言」の中でも、昭和20〜30年代あたりの話の中に「乾麺を茹でて食べていた」という話が何度も出てくるように、戦後の讃岐うどん界は「乾麺」抜きには語れない時代だったのかもしれません。

 「昭和の証言」や「開業ヒストリー」に出てくる話では、当時の「町の小さな製麺屋さん」は主にゆで麺を作っていて、それを町の食堂や会社の食堂や食料品店なんかに卸したり、家庭用に玉売りをしたり、法事や冠婚葬祭にまとまった玉売りをしたりしていたのですが、当時、その「町の小さな製麺屋さん」だった「山越」や「がもう」、「なかむら」、「宮武」、「長楽」といった平成の讃岐うどん巡りブームの立役者の店の開業ヒストリーの中には、「乾麺」の話は出てきません。ということは、乾麺は「町の小さな製麺屋」ではなく「大手の製麺所」が大量生産を行い、日持ちがするので輸送にも耐えられるため、あちこちに大量に流通していたのだと思われます。

 しかし、平成以降の讃岐うどんは、店で作っているのは生麺、工場で作っているのは半生麺や冷凍麺で、「乾麺」のうどんがほとんど見当たらないのは皆さんご存じの通り。つまり、どこかで乾麺のうどんが廃れていったと思われるのですが、それはまた追々解明していきましょう。 

「宮地式製麺機のイラストが登場

 昭和23年の新聞広告に新たに出てきた製麺機メーカー及び販売代理店は、以下の通りです。

<県内企業>
川辺工業(仲多度郡金蔵寺)…丸善式精麥機
玉浦商会(大川郡志度町)……理研式製麺機(販売代理店)
洲崎麺機(小豆島洲崎港)……洲崎式麺機

<県外企業>
眞崎麺機(東京都台東区)……ヒシエム麺機
中津商会(大阪市生野)………中津式うどんそうめん機
新興商会(名古屋市西区)……大隈製製麺機(販売代理店)
千代田麺機(東京都豊島区)…特許うどん機械

広告にあったミヤヂ式大型製麺機のイラスト

 ちなみに、昨年登場した宮地鉄工の「ミヤヂ式製麺機(大型)」のイラスト入り広告が見つかりました。

 外観のイラストだけでは製麺の仕組みがよくわかりませんが、「昭和の証言」で時々出てきた「製麺屋で大きい機械を見たことがある」という証言に、ちょっとビジュアルのイメージが出てきました。

戦後の県内製粉会社の新聞広告第1号は「日讃製粉」

 あと、6月〜7月にかけて、新聞広告に小豆島と東讃の「農林省指定乾麺工場」の一覧が載っていましたので、記録として再掲しておきます。

<小豆島の農林省指定乾麺工場>
青木製麺工場(池田町) 
大町製麺工場(池田町)
岡本製麺工場(池田町) 
田村製麺工場(安田村) 
中井久作製麺工場(池田町) 
萩本製麺工場(池田町) 
藤若屋製麺工場(池田町) 
岡田製麺工場(淵崎村) 
濱野製麺工場(渕崎村)
長井製麺工場(渕崎村) 

<東讃の農林省指定乾麺工場>
三本浅吉(大川郡三本松町) 
鈴木四郎(大川郡志度町)
眞砂政次(木田郡川添村) 
武部惠伍(木田郡川添村)
出石國義(木田郡川添村)
田中製麺所(香川郡仏生山町)
守山繁次(高松市屋島東町) 
國東製粉所乾麺部(高松市田村町) 
中村製粉所(高松市西浜町)

 

 小豆島の11工場は協賛広告内に載っていましたので、これが当時の小豆島にあった乾麺工場の全てではないと思います(11月の協賛広告に渕崎村の「外山製粉製麺工場」が新たに農林省指定で登場)。一方、東讃の方も一応協賛広告なのですが、見出しに「農林省指定・東讃乾麺工場全貌」とありましたので、もしかしたらこれで全部かもしれません。もしそうなら、「何だか、ずいぶん少ないなあ」という印象です。あと、この頃、高松市は「東讃」に入れられていたんだと。

 その他の協賛広告では、6月28日付けで多度津の「日讃製粉」が初登場しました。県内の製粉会社では、戦後の新聞広告第1号です。ちなみに、9月4日付けで「日讃製粉の代表取締役が景山董社長から景山喬蔵新社長に代わった」という告示が新聞に載っていましたが、景山董前社長はこの年、食糧配給公団の香川県支局長も務めておられる名士でございました。

(昭和24年に続く)

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