香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

昭和12年生まれの女性の証言

戦後すぐ、旧日銀の食堂でうどんが出ていたような…

(取材・文:

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  • vol: 137
  • 2016.06.21

<饅頭屋の祖母が饅頭の材料と道具を使ってうどんを作ってくれた>

――小さい頃に食べた思い出のうどんといいますと?
 小学生の頃(昭和20年代前半)高松市花ノ宮町の祖母のところで食べたうどんです。私は高松三越の近所に住んでいましたが、小学校が終わると花ノ宮の祖母のところへ、お遣いも兼ねてよく遊びに行きました。そこでいつも必ず、うどんを食べていたんです。 祖母の家に向かう前に、当時まだ珍しかった電話をお隣で借りて「今から行くよと」と知らせると、到着する頃には釜の中でうどんが茹で上がっていました。台所に立ち込めていた湯気の情景をよく憶えています。

――おばあちゃんは電話連絡があってからうどんを作り始めていたのですか?
 はい、そうです。生地を捏ねるところから作り始めていました。内町から花ノ宮まで、子どもの足で1時間はかからないくらいでしょうか。その間に仕上げていたんです。 出来立てのうどんの上には、炒めた野菜も盛りつけられていました。おダシも大きなじゃこを使って作っていましたね。煮出した後のじゃこを紙に包んで家に持ち帰り、綺麗に食べていた思い出もあります。お陰で今も骨は丈夫です(笑)。

――うどんの材料の小麦粉はどこから用意していましたか?
 実は祖母の家は「千田」という名前の饅頭屋でした。饅頭だけではなく、お餅や飴も作っていて、当時は結構有名な店だったようです。饅頭屋なので当然、いろんな種類の小麦粉がありました。それを利用してうどんを作っていたんです。使う道具も店の商品を作るもので十分でした。麺を打つ台や、綿棒の替わりになるものはいくらでもありましたから(笑)。

<戦前は、三越周辺でうどんを食べさせてくれる店はなかったように思う>

――なるほど。饅頭屋の環境がうどんを作るのに適していたんですね。ところで当時、街中にはうどんを食べられる店はありましたか?
 昭和20年の7月に米軍の空襲に遭い、高松の中心部はほとんどが瓦礫の山になりましたが、それまでに内町の界隈でうどんが食べられる店はなかったように記憶しています。 戦後すぐ、昔の日本銀行高松支店が建っていた場所(今の高松市美術館のあたり)の近くに引っ越したのですが、その頃になると少しずつ周りに店が建ち並び始めました。もっとも店と言っても、普通の家の玄関先に椅子を並べてうどんを食べさせてくれる粗末な造りです。

メニューも、うどん以外には白飯と夏のかき氷ぐらいしかありませんでした。「とどろき」さんと「たまき」さんの2軒の店があったことを憶えています。ただ、その店でうどんの生地を作っていたかどうかまでは分かりません。

<旧日銀高松支店の食堂にうどんがあった>

――その店でうどんを食べたことはありますか?
 いえ、ありません。けれども、日本銀行高松支店の中ではうどんを食べたかも知れません。まだ小学生だった自分は(昭和20年代前半)、よく日本銀行の建物の中へ入り込んで遊んでいました。そのときに食堂のおばさんや銀行の偉い人と顔見知りになり、可愛がってもらったんです。食堂にあるメニューをいろいろとご馳走してもらいましたが、多分その中にうどんがあったような気がします。
――おばあちゃんの家と日銀高松支店。どちらも大切な遊び場で、また貴重なうどんが食べられる場所だったんですね。それ以外で、例えば何かの行事があるときにうどんを食べたことはありますか?
 正月には必ず、祖母の家でうどんを食べました。「初うどん」と喜んで(笑)。私は1月1日が誕生日なので、そのうどんはさらに喜ばしい食べ物になりました。 余談ですが、私は昭和12年1月1日の朝7時に生まれたんです。当時、宮脇町の石清尾八幡宮に兵隊さんが駐留していて、朝食を食べる合図として朝の7時にラッパを鳴らしていたそうです。そのラッパの音が鳴り響いたのと同時に誕生したと聞かされました。「年越しの忙しい準備がすべて終わって、お前が生まれて来た。お陰でその年のお正月もゆっくりできた」と母から感謝された言葉が、今も忘れられません。

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