香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

さぬき市津田町・昭和23年生まれの男性の証言

子どもの頃はあまりうどんを食べてなかった

(取材・文:

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  • vol: 11
  • 2015.07.09

子どもの頃はあまりうどんを食べてなかった

子どもの頃(昭和30年頃)や、うどん屋行った記憶なんてないなぁ。近所の八百屋で5円やったか10円やったかのうどん玉買うてきて、家で食べてたくらいのもんやったんちゃう? その頃ボクは大内町三本松の浜の方に住んでて、戎神社の向かいにあった確か「かっさい(葛西?)」言うとこやったと思うわ。そこで買うてきた玉と家で作ったダシでな、食べてた。味? そら八百屋のセイロに長時間置かれとった麺やから、おいしいもんではなかったやろ。よう覚えてないけど。

ボクが子どもの頃は、七輪でご飯炊くんが仕事でな。裏に当時あった東洋紡社宅付近の松林からコクバ(落葉した松の葉)をかいてきてな、一緒に拾た木の枝やらと合わせて火をおこして……という毎日やった。ウチは番屋を改造したような家やったから、最初は台所が家の外にあったんよ。じいちゃんが来てから手づくりで家の中におくどさん造って、それから大きな釜でも炊けるようになって……やけど、それでもボクの役目は外で七輪で煮炊き係。もう、店行くなんて贅沢極まりない時代やったからなぁ。

それでも、たまぁに高松行く時は、レストラン「トラヤ(ライオン通北端)」でカツ丼食べるんが唯一の楽しみでな。うどん? その選択は、ハナからなかった。だいたいあの頃、食堂やレストランでうどんはあったと思うけど、蕎麦はなかった思うし……麺類が虐げられてた? そうかもしれんね、少なくともその頃のボクの中では(笑)。

仕事が終わると徳島のたらいうどんを食べに行ってた

三本松小、大川中ときて、高校は志度やったけど、その間うどん体験と言うかうどんメモリアルは一切なし。ただ、高校を卒業して手袋屋に勤めだした時(昭和40年頃)、残業済んだら先輩が「トラックの後ろに乗れ!」言うて、御所(徳島)のたらいうどんに連れて行かれたんはよう覚えてるなぁ。今の“鵜の田尾トンネル”なんかない時代やからクネクネの山道をゴットンゴットン揺られながら、しがみつきながら辿り着いて……あそこは川魚のジンゾク(ハゼの一種)ダシなんよねぇ。ちょっと香川とは違うなぁって、印象に残ってるわ。座敷の横を川が流れててな、風流っちゃあ風流やったねぇ。

早いうちに職変えて高松往復するようになってからは、それこそ“うどん開眼”したで。けどボクは昔から咀嚼力がないんか、固いうどんは受け付けんのよ。そんなグルメってわけでもないし……でも、こないだ志度の「はなまる」で「酸辣湯(サンラータン)うどん」のノボリ見た時、思わず入ったがな。ボクは、長江の酸辣湯麺が大好きなんですわ。うどんでも、なかなかイケましたな……個人的には、もっとシャープに辛味を効かせてくれた方が良かったけど(笑)。

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