香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

丸亀市川西町・昭和26年生まれの男性の証言

法事は前日に案内でうどんを配る。当日は駆けつけ一杯でまたうどん

(取材・文:

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  • vol: 10
  • 2015.07.09

法事は前日に案内でうどんを配る。当日は駆けつけ一杯でまたうどん

最も古いうどんの記憶って?
ウチではおばあさんがうどん打ち凄い上手やったらしいて、ボクが物心ついた頃(昭和30年頃)から打ってたなぁ。特にな、法事とかあるやん。そしたら「明日、何時からやります」言うて案内に回ってて……そん時に家で打ったうどん持ってくんよ。それぞれの家の家族分くらい、デカい重箱に入れて。その使いに、子どものボクらが駆り出されよった。行ったら5円とか10円お駄賃くれるんが楽しみでな、たいていは10軒やそこら、遠いとこやって自転車乗って行ってたなぁ。
量? 基本、一人2玉換算やった。だから、たとえば5人家族なら10玉。でもあの頃って子だくさんやし、3世代当たり前やし、一軒当たり20玉平均くらいで配ってた記憶あるなぁ。重箱も、そんだけ深くてデカかった。それを風呂敷に包んで持ってって、そしたら向こうでザルやカゴに移し替えて……セイロやってどこの家でも完備してた時代やから……で、持って行った重箱を洗て返してくれるんを持って帰っていた。
ほんで翌日、法事に来てもらうやん。駆けつけ一杯が、またうどん。湯だめやったな。前日に打っておいたうどんやから麺は伸びてたけど、ショウガとネギと、たとえば今頃(春先)やとフキノトウなんかを炭火で焼いてほぐしてしたんを薬味にしてな。
それから法事始まります、休憩に茶菓子とか出ます、後半が終わってしたらもう昼で、そこから仕出しの宴会やわな。さぁ食べよ思ても、腹パンパンで食べれん状況やったなぁ。30年くらい前はまだやってたから、ようカミさんから「もうあの風習やめたら?」言われよった。さすがに今はもうしよらんけど……そういうセットは、まだ家に残っとるな。丼やダシ入れ、薬味入れとか、結構な人数分が。

ハレの日はドジョウうどんで

横からうどん打ち見よったんなら、今もたまに打ったりします?
せんせん、めんどくさいし。蕎麦やったら、たまに財田の産直とかで売ってるそば粉買ってきて打ってみて、失敗したらソバガキにするとか、そういうんはするけど、うどんはおいしい店がそのへんじゅうにあるからなぁ。
しかしやっぱり、うどんはハレの日の食いもんやったと思うな。じいさん(昭和33年没)がおった頃の記憶で、田植えや稲刈りの時、ウチに手伝いに来てくれよる人たちがおったんや。そういう人たちに……たとえば田植えの時やったら、まず田んぼ脇の水路、イデっちゅうか、そこに専用のカゴ仕掛けてドジョウを獲る。それをドジョウうどんにして、みんなに振る舞って酒飲んだりとかな。
昔は坂出や宇多津に塩田があったやん、そこで使いよったカマスっていうムシロ状の袋知らん? それを毎年、田んぼが終わったらワラで作って……農閑期に、ハタ織機みたいなんでザクザクとな。そんな時まで居ついてた人もおったから……そういう人の慰労も兼ねてか、押し寿司も作ってたな。サワラの押し寿司と、うどん。よう覚えてるけど。
ドジョウって、ちゃんと何日かフカしてました?
獲ったら井戸水溜めたでっかいカメに放り込んで、水換えたりしながら何日か置いといたよ。1日2日ってことなかった。でもあの頃はイデもキレイやったから、場所によっては1日2日のとこもあったかもなぁ。
あと、あの頃は家々にうどんづくり専用の道具がちゃんとあった。たとえば、竹やったかの木を使ったフタマタ……うどんゆでる時のかき混ぜ棒やな。で、釜取りする時のデカい網。おくどさんにでっかい羽釜があってとか……そういうのが各家庭にあったわ。

上京した学生時代は讃岐うどんと奇跡的な出会いの連続?!

お店は、どんなとこに行ってました?
丸亀の繁華街へ親に連れられてたまに行くやん、買い物や映画で。すると駅近く、今の一鶴本店の向かいあたりが食堂街で、その内の一軒でアルミの鍋焼きうどんとか食べてた記憶が……名前も覚えてないけど、大衆食堂やったんは確か。お寿司とかも一緒に食べて……ごちそうやったなぁ。
中学(丸亀西中)の頃(昭和38年頃)は、校門出たとこにじいさんばあさんがやってた「カドヤ」? いや、覚えてないわ名前までは。うすーいカマボコとネギしか入ってない、かけうどん。それが30円くらいやったか? 東京オリンピックやらで高度成長に突入した頃やから、そのへんから急激になんもかもが値上がりしてたな。
その後は東京行ったんで、うどん記憶も途切れると?
それが、そうじゃなかった。確かに東京独特の濃いダシに辟易として遠ざかった時期が1年ほどあるけど、その後に奇跡的な出会いが待ってたと。
中野区の江古田に学校があったんやけど、その反対側に「さぬきや」ってうどん屋ができた。行ったら、そこのご主人が観音寺出身で。あっという間にタクシーの運ちゃんまでがズラッと車止めて列を作るような繁盛店になって……それからはもう、ほぼ完璧な“さぬきうどん”をいつでも食べられるようになったんよ。仲間が集まってわーわー言ってる夜中にも「腹減ったぁ」って行けたから、重宝したし。
ボクらの中で人気やったんは、特にきざみうどん。油揚げを小さく刻んでした、きつねうどん風のアレな。それが250円くらいやったかな? 学食のマズいうどんが90円やった頃やから、ちょっと高かったけど。でも、週1か十日に1回は必ず行ってた。もう40年ほど前の話やからなぁ。
それから、名古屋の友だちを訪ねた時も、フラッと入ったうどん屋に“栗林公園”とか“銭形”とかの写真が飾ってある。聞いたら、やっぱり香川出身の人で。そういう出会いの良さは、なんかあったと思う。
そんな“さぬきうどん”には困らん東京時代やったけど、やっぱり帰郷する際の“連絡船うどん”は楽しみやった。あれはな、ダシの旨さもあるけど、潮風の匂いが抜群の演出になってたんとちゃうかなぁ。
あと、実習とかの時に出前取ったりしてたそば屋さんに、冷麦や稲庭うどんがあったんな。で、夏は桶に氷入れた冷麦食べたりしよったんやけど、ある時それを「うどんに換えて」言うてみたんや。ま、こっちでは普通の“冷やしうどん”やわ。そしたら、その後からメニューに加わったんよ“冷やしうどん”が。大将が、「これはノドごしえぇやん!」言うて。
なるほど、稲庭うどんに新たな歴史を刻んだ男だと(笑)……それでは、今日はこのへんで。
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