香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

丸亀市柞原町・昭和23年生まれの男性の証言

初めて明かされる(笑)、麺通団重鎮・S水さんの思い出話

(取材・文:

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  • vol: 202
  • 2017.05.18

うどん作りはお爺はんの得意技だった

 実家は丸亀の柞原町の農家や。昔は西屋敷村と正面寺村いうんがあっての。西屋敷いうんは、丸亀藩に行っきょったお武家さんがおるところ。その屋敷があったから西屋敷いうん。正面寺いうんはお寺があったとこや。今も正面寺いうバス停があるわ。その真ん中辺りにうちの家があった。

 家ではほとんどうどんは食べたことがないんやけど、たまにお爺はんがうどんを打っちょった。子供の時やから、昭和30年頃の話や。材料は水と粉と塩やの。結構塩振んりょったような気がするわ。タライでなく、バケツで粉練んりょった。その後踏んで、麺台と麺棒に粉打って延ばして。その麺台と麺棒は、まだどっかにあると思うわ。ちびての。それに粉がもぶれついて、なんか色が付いとった。うどんを作るんはお爺はんだけで、お母はんは作んりょらんかった。お爺はんの得意技みたいな感じ。

 うどんをするんは小腹が空いた時の。うどんは別腹いうでない。ご飯の時に食べるとかいうよりも、副食やな。3時、4時とかお腹すくんちゃうん。主食の続きみたいなもんで。食べ方は大体がしょう油かけの。たまにお母はんがイリコでダシ取って、ダシ作るとか。

打ち込みがうまかった

 他に覚えとるんはアレやの、打ち込みがうまかった。色々ぐー(具)入れられてえ(良い)でない。おかずがいらんし。季節は冬やったかいの。短いプツプツのうどんでの。具は大根や里芋。家の畑で採れたやつや。

 それと近所の「長尾の豆腐屋」で買うたおアゲとか。そこは豆腐屋やけどよろず屋みたいな店で、雑貨や食料品や、お墓や仏壇に供える花も置いとった。うどんも仕入れてセイロで売んりょったな。セイロのうどんは、製麺所が売りに来るんや。「置かしてくれ」言うて。定期的に仕入れとけば、田舎の人が買いに来るやない。

 打ち込みの味付けは、しょう油やった。ダシは取んりょらんかったんちゃう? 打ち込みうどんて、麺をさばかんとどーんと釜の中入れて、振った粉でドロドロになるやん。そこにちょっとしょう油足らして。味噌ではなかったわ。しょう油は「長尾の豆腐屋」のちょっと向こ行ったとこにあった「山本の醤油屋」の。子供の時には蔵に大きな醸造樽やらがあったけど、今は店もやめてしもて、その跡にバイパスが通っとる。

ドジョウうどんも食うたことがある

 ドジョウうどんも食うたことあるな。ドジョウは護岸してない川に、こんな竹で編んだみたいなウナギ捕まえるカゴみたいなんを仕掛けて捕んりょった。泥だらけになってな。季節は夏やったと思うけど、ドジョウは泥の中に潜るけんいつでもおったやろ。でもドジョウは骨が硬かって、食えんかった。それも川を護岸してからおらんようになったな。もうなんちゃおらんわ。でもしょうがないわな。アレは用水路やけん。

 小麦は備蓄小麦や。家で作んりょったわ。戦前は小作で、米を作っても年貢を納めて残りで食わないかんから、二毛作で小麦を作んりょったんや。麦踏みもしたことあるわ。ほんで小麦はの、自分とこで食うんや。

 ほなけんまあ、めんめの(各)家に打ち台があって、麺棒があって。小腹が空いたとか、米の代わりにうどん食いよったんやろ。米が一家みんなの口に回らんのやけんの。貧しいいうこっちゃわ。麦は白米に混ぜても食べよったな。あれは大麦か。ワシは好きやったけど、うちのオジンは好かんかったの。もう嫌いになるほど食うとるけん。小麦は近所で挽いてもらいよった。同じ村の歩いて10分もせんとこや。精米所で製粉もしよったんと違うん? もう今はしよらんやろけどの。

法事のお客さんは朝食を抜いてうどんを食べに来る

 法事のうどんは大昔からで、絶対出す。それもお客さんが来たらすぐや。来たらすぐ出す。田舎のオッサンらは、ちょっと早めに来るやん。10時からやったら9時半に来るやろ? ほなら「おうどんいかがですか?」って言うんやけど、元々向こうもその気や。「もらいます」言うて。たいがい食べるわなみんな。

 ほんでおじゅっさんにも聞く。もうお腹いっぱいやったら食べんやろけど、みんな「食べる」言うんやわ。行ったらうどんがあるん分かっとるけん、あれ、朝ご飯抜きで来とんじゃわ。ほんでみんないっぱい食べる。オッサンらは最初から2杯ぐらい食べるわ。食べ過ぎやけどな(笑)。で、昼もちょっといる人にあげて、法事が終わったら、余った玉をビニール袋に入れて、お土産に持って帰らすんやわ。

 うどんはさっき言いよった「長尾」にセイロで頼むんや。法事でいる量は多いでないん。昔は打っちょったかも知らんけど、ひとセイロかふたセイロ頼んみょったわ。

 出すんは湯だめや。イリコダシのしょう油に浸ける。かけでなしに浸けるぶんの。丼は昔ながらのやつ。よー古ーい食堂でもあるやろ。三角形もあるけど、ちょっと丸いんで。ただの丼やな。

 あと、浄土真宗では法事以外にも、死んでから1週間毎に49日まで、おじゅっさんが来て拝む「まわり」言うんがあって、それにもうどん出す。親戚もお参りに来る。法事の縮小版みたいなやつやな。

 そういえば葬式はうどん食うたことないの。「おひじ」言うて、ご飯系。おアゲとかあんなん炊いてな。「おひじ」言うんは精進料理や。法事の他には行事でうどんを食べた経験はないわ。なんか半夏とかいうけど、全然そういう気配もなかった。

家の向かいにあった真田製麺所

 製麺所もあったで、うちの真ん前に。名前は「真田(さなだ)」。真田は真田十勇士の真田、名字や。屋号もなんもなかったわ。うちの家の角っこが庭で、その向かいや。今は閉めてしもて、「三船(病院)」の看護婦のアパートになっとるけど、俺が産まれる前からあったけん。いつからしよったかは分からん。もしかしたら戦前かもしれんな。

 真田の製麺しよった部屋は土間やった。あの部屋はたぶん、うどん専用の部屋やったんやろの。その奥に奥の間、上に上がったら座敷があった。広い家ではなかったけど、10畳以上あったんちゃうん。真田の入口は東にあって、北側に五右衛門釜を置いとった。

 釜の横の壁には小窓があって、それがちょうどうちの真向かいやったから、そっからオッサンがうどんを炊っきょんが見えるんやわ。柳の枝の二股に分かれたみたいなんで、こない(混ぜる動作)しよる。で、お爺はんが「見てこい」言うたら「おう」言うて。見たら大体ゆで上がりの時が分かるでないん。「オッサンまだな」って聞いたら「もうすぐやで」って教えてくれるし。ほんで「もうすぐやで」言われたら鍋持って、4(よ)玉5玉いうて買いに行かされよった。値段は覚えてないわ。3つか4つやったから。

 玉買いに行ったのは、普通の日の午後2時や3時で、飯時ではなかった。お爺はんもうどんを打っちょったけど、買うた方が早いでない。できたちやし、プロのうどんはちゃうけんの。それにたぶん安かったんや。

 玉買うて来る時は、お母はんは農作業で忙しから、ダシなんか作ってくれん。ほんでしょう油だけで食べよったけど、うもない(美味しくない)んや。マヨネーズができてからは、しょう油とマヨネーズで食べよった(笑)。

 「真田」にはオッサンとオバハンに、娘と息子がおっての。その娘が生地を踏んみょったわ。背中に赤ちゃんおっぱ(おんぶ)して。たぶん娘は体重が軽いけん、他所の赤ちゃん預かって重し代わりにしとったん違うん。結構大けな子やったけんの(笑)。昔やビニールやなかったけん、生地はムシロかゴザでしとったと思う。アレで踏んみょったわ。

 その後しばらくしてから、表に赤かなんかののれんをかけだして、食べさせるようになった。今の製麺屋と一緒じゃわ。客はうどんの匂いや湯気の匂いを嗅ぎつけて「食わしてくれ」いうて来る。はっきりは覚えてないけど、俺が小学校上がっとっらんかったから、5歳ぐらいの時かの。店で食べたことはないんやけど、食べたかってのれんから覗いたことはある。机をひとつかふたつ土間の奥の間に置いて、そこで食べさせよったわ。そこも土の間やったけどの。

 ほんである日「真田」は一家ごとおらんようになった。大阪の公設市場に行ったらしいけど、よー知らん。向こうでもえらい評判取っとるとは聞いたことがあるけどな。俺が高校卒業した時はまだこっちにおったけど、結婚した時には無かったから、その間で閉めたんやろの。店の跡は更地になって、それをひがっしゃ(東屋)のオバハンが買うての。ほんで「三船」に売ったんや。

 ほんま、近所に製麺屋いうたらあっこだけやったの。「長尾」も「真田」から仕入よったん違うん? 「真田」が無くなった後でも仕入れよったけん、どっかのうどん屋と提携しとったんとちゃうか。

早弁してうどんを食べていた高校時代

 うどんは小学校の給食でも週にいっぺん出よったわ(昭和30年代初頭)。メニューはかやくうどんやの。いわゆる「ゆでうどん」やったからのびとったと思うけど、うまかったな。中学(丸亀西中)と高校(丸亀高校)は、どっちも弁当やったから給食はなかった。

 外食で初めてうどんを食べたんは、高校…いや中学の時やったかも。丸高の近所にお好み焼屋みたいなんがあって、うどんも置いとったんで、たぶんそこで食べたと思う。早弁しよったけんな。

 あと、通町か富屋町か、商店街の中に美味しいうどん屋があったけど、名前は忘れた。あれ有名なんちゃうん。商店街は横に筋があるけん、場所もはっきりせんわ。造りは普通の店。セルフやあの時代無かったけんの。

田町近くの路地で食べた思い出の肉うどん

 丸高出た後に大阪の大学へ行ってから、23の時(昭和46年)に香川に帰ってきて高松の広告代理店に就職したんやわ。会社におったんは6年足らずやけどの。勤め出した時、南新町に会社の営業所があって。そこからうどん屋に昼飯を食べに行っきょったんや。製麺所でなくて、爺さんと婆さんがしよった普通のうどん屋。5人ぐらい座ったらいっぱいになる狭い店で、大きい釜がどーんと据えてあったわ。

 そのうどん屋で肉うどん頼むんやけど、ダシ濃いでない。具もあるし。「大」頼んで、ほんでダシ残しといて「玉ちょうだい」っ言うて(笑)。いわゆる替え玉をしたんを、未だに鮮烈に覚えとる。会社におった頃、一番美味しかったんはそれやの。

 場所は田町か南新町か分からんのやけど、路地の中やった。近くに「まつや」いう飯屋があったな。映画館や「ジュリエット」いう名前のなんかがあったようにも思う。「ホールソレイユ(映画館)」の辺りに路地がなんぼかあるわな。それのどっか。たぶん南や。

久保、さぬき麵業、なみき…

 それと「美味しいうどん連れてっちゃる」って先輩が言うて、「はあ」って付いて行ったんが、たぶん「久保(高松市番町)」じゃわ。「おごっちゃる」言う先輩に、「すまん、お代わりしたいんやけど」言うて、お代わりまでおごってもろた(笑)。

 就職しても丸亀から高松へ通いよったんやけど、結婚してから高松へ移った。28で独立した頃は栗林トンネル下りた所の西春日団地におったんやけど、「さぬき麺業」によう行っきょったな。今は道の東側にあるけど、前は道の真向かいにあったんや。今は大きなったな。

 会社が香西にあった時は「なみき」へ行っきょった。あれはあの辺りでのー、うどん食わす最初のとこやったんよ。みんな歩いて行っきょったで。あっこのオバチャンがすごかったんや。いっぺんに人が来て、ワーッと入るもんやきん「お金、お金が先よ~!」っておらんびょった(叫んでいた)(笑)。

 あとは、名前は全然覚えてないけど、今の旧国道にあったうどん屋。香西とか国分寺とかあの辺…いや待てよ、市内入ってからかの…? 就職した後、車で行き来する時にの。よう食べに行っきょったん。セルフやったから、あれは当時のセルフの“走り”違うん? 汚なーて、ハエが飛び回っりょったけどの。

競輪場のうどん屋も、玉を連絡船に卸していたらしい

 うちの近所の「中浦(高松市錦町)」が連絡船にうどんを卸っしょったんは割合有名やけど、あそこだけやなしに、ほうぼ(方々)がしよったんで。競輪場の場内のお好み焼しよる横にうどん屋があるでない。アレもそうや。競輪場の客のお爺やんが「あっこのの、アゲ油が美味いんじゃ。よう煮しめてのー。味がようてのー。ちょっちんまい(小さい)けど」て言よったんやけど、連絡船うどんいうたら、ちんまいアゲが乗っとったでない。あのおアゲは美味かったよ。うどんはそなに美味い思たことがないけど(笑)。ダシもまーまー良かった。

 余談やけど、俺はみんなにむちゃくちゃうどん食べよるように思われとるやんか。でも、昔はあんまりうどん食いよらんかったんで。それが昼になるとみんながうどんに誘いに来るけん、ほんでよっけ食べるようになったんやわ(笑)。

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