香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

三豊市財田町・大正15年生まれの女性の証言

肉屋と風呂屋の間にあった小さな店に毎日通っていた

(取材・文:

  • [showa]
  • vol: 231
  • 2017.09.11

何かあったらすぐうどんを作っていた

 生まれは大正15年2月27日です。もう2日遅かったらなー、2月29日で誕生日が4年にいっぺんしか来んきん、今頃ハタチや。まー、大正15年はうるう年違うんやけどなー(笑)。実家は財田大野。周りは全部百姓やったけど、うちだけ1軒だけサラリーマン。

 私、母親は早くな、8才で亡くなったから、お婆さんが大きしてくれたんや。うどんはそのお婆さんがちょいちょい作ってた。全部自分ちで作んりょったんや。私やでも足で踏んでな。子供ん時、よーしよったよー。道具は台から始まって、何もかも全部あった。餅つく臼やってあったし。昔はなー。

 小麦は買うてきよったんやろかなあ。サラリーマンやけど、年貢もあったことはあったしな。お米の米俵は積んどったん知っとる。ほやけどそんなには作ってはない。畑だけしか作ってなかった気がする。

 昔はなあ、もう何やかんやいうたら、すぐおうどん作りよった。お客さんが来たら、まずおうどん。おこわやお寿司やもいっぱい作りよったけど、おうどんは必ず。

 メニューはかけうどん。乗っとるのはアゲとカマボコとネギぐらいな。ダシはイリコダシやった。昔は簡単なダシがなかったきん、皆イリコダシでなー。しょう油とイリコぐらいやな。味の素もなかったん違うかな。

 冬はーなー、「たっこみ(炊き込み)うどん」言うてな…あ、打ち込みじゃ。打ち込みうどん。もう毎晩みたいにしよったな。温もるからなー。おうどんを自分ちで打って入れて、お野菜もいっぱい入れてするの。ニンジンやら大根やら里芋やら色々なん。野菜は作っとるから自分ちの畑にあったからなあ。味はおしょう油や味噌や色々あった。冬はもうアレが美味しかったよ。

 野菜の他にアゲも入っとったな。アゲとお豆腐はな、毎日売りに来よったわ。近所にお魚屋さんもあった。けどお肉はな、もう月いっぺんぐらいしか食べんかったわ。お父さんの月給日には必ずお肉。すき焼きしてくれよった(笑)。あの頃(ごろ)は、それぐらい皆貧しかったきんなあ。今やすき焼きの最後にうどん入れたりするけど、うちやはそんなんせんかったなあ。すき焼きうどんやは無かった。

法事や祭りには必ずうどん

 法事やお祭りには、必ずおうどんしよった。法事は前の日ーからしよったなあ。法事のうどんは全部かけうどん、つけうどんやしたことない。

 お祭りは、うどんだけでなしに、お寿司やおはぎやお天ぷらや何やかいもしよった。ほんでなー、お祭りの前に甘酒もしてな、近所や親戚に配ったり。必ず持って行っきょったわ。甘酒がお祭りの案内じゃがな。「来て下さい」言うんな。もうお祭りやいうたら、いっぺんに普段ないごっそう(ご馳走)があったもなんな。昔の人は几帳面に、あいなんきちんとしよったわなあ。

三架橋通りにあった小さなうどん屋

 ほんで昭和20年に、観音寺の柳町(旧観音寺市柳町・かつて柳町商店街があった・現在は観音寺町に統合)に嫁に来とん。主人は16から陸士(陸軍士官学校)行た職業軍人で、飛行機乗んりょったけんな。終戦時は大尉やったきにアンタ、もう私や教員の資格免状(めんじょ)持っとったけど、追放(公職追放)じゃったきんな。うちの主人も追放で、私も一緒に追放になった。夫婦になったら追放になるん。私もそよになったん。ほなけん戦後は、ちょっと苦労したよ。

 柳町の近くになー、有名でもう私や毎日食べに行っきょったうどん屋があった。三架橋通りの「行天の肉屋(行天食品)」の横にーな、狭い三角のとこに小さいおうどん屋があったん。「行天」と風呂屋の間こ。もうそれがよー流行ってなー、いつでも満員やったわい。お風呂屋の横やから、お風呂上がりに人が寄って行くしな。

 あそこのうどんは美味しかった。メニューは肉うどんから始まって、鍋焼きうどんまで何でもあった。男の人が1人でしよったやろー。店の名前、何言よったんえ? えーと、三文字じゃったわい。カタカナの三文字。そうそう「ふみ代(よ)」。昭和50年ぐらいまでやっとったけど、病気でな、やめた。

 うどん屋は「行天」の前には「イマヅ」もあったし、「大西」の肉屋の前に「テツヤ」もあった。けど「テツヤ」と「イマヅ」よりかな「ふみ代」の方が美味しーてもー。

ページTOPへ