香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

丸亀市本島町・昭和24年生まれの女性の証言

怒られないように気を配って食べた、本島の伝説コブうどん(本島のお食事処「所見坊」大里さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 252
  • 2017.11.30

本島にはうどんをする文化がなかった

 アタシねえ、生まれは本島(丸亀市本島町)。うちは回船業やってたんですよ。沖に大きな船が泊まったら、荷物を渡船で渡してた。フェリーの待合室に写真があったでしょ? あれがうちの祖父。だから私、船漕げますよ。写真のみたいな大きなんは無理やけど、僚船ぐらいやったら。

 本島のフェリーは元々、関西汽船がしよったんですよ。その代理店をうちの祖母がやってた。関西汽船がつぶれて関西急行フェリーになったんやけど、その代理店も。祖母の後は母親が跡継いでたんですけど、もう年が寄って。うち、兄弟娘2人なんで、長女に養子さんもらって継いでもろたんですけど、その人の方が先に亡くなってしもた。ほんでその子供も他所に勤めてたから、同じように本島で小さい船で渡船をしてた「本島汽船」がするようになったんです。「ほんなら他所の人が代わりにするよりは、ここでしてた人に」って言うてね。

 うちでうどんを作んりょったんは、アタシ記憶ない(昭和30年代)。アタシもおうどん打ったことないですし、島の人は打たないです。ここは香川県なんやけど、岡山に近いからやろうか。客船で向こう(岡山)まで行けるけど、向こうの方が近い。割と岡山の言葉も入って来てるんですよ。

 年越しは蕎麦でした。お蕎麦嫌いやったから「アタシだけおうどんにして」って頼んみょったけど(笑)。法事もうどんはなかったです。小学校に給食はありましたけど、うどんは出なかったですねえ。だからホントに、おうどんする文化がないんでしょうね。

 姉に養子に来た義兄が観音寺の人だったんですけど、「観音寺の人は、いつも何かいうたらおうどん作ってた。何かある時に母親がうどん作ってくれた」って話してました。だから義兄はおうどん大好きで、法事行ったらいつもおうどん持って帰ってきよった。それを「ほーい」てもらって。

 高校は善通寺。父親は裁判所に勤めてたんで、丸亀の裁判所の横にあった官舎におったんです。最初アタシはそこへ行って父親と2人住んで善通寺まで通ってたんやけど、そのうち段々と島の家からフェリーの1便で通うようになった。家の方がご飯もしてくれるし楽やから(笑)。善通寺の学校の帰りは、お好み焼やね。おうどんは食べんかったです。

ヘンコツオヤジのコブうどん

 本島のフェリー乗り場から小阪の方へ行くと四つ角があって、そこに木烏(こがらす)神社って神社があるんやけどね。その近くに水族館いうのが建ってるんですよ。その隣りの今空き地になっとるとこに、うどん屋さんがあったんです。昔、「ナカハリ旅館」ていう旅館があって、そこの前。アタシが子供…中学校の時(昭和36年頃)。

 名前は「永山(ながやま)」。しよる人前が「永山」さんやけん。みんな「永山行こう」「永山行ってうどん食べよう」って言うとった。そのオジサンが、もうヘンコツさんで。学校の先生がコップの中にお箸をピッピッっとつけたら「もう帰ってくれ」って。なんか気に入らんかったらしい。そらからもう、学校の先生は絶対出入り禁止。入れない食べさせない。怒ったら「もう帰ってくれ」って、目の前でブァーってうどん放るんですよ。ほんで帰らないかん。

 永山のうどん玉は丸亀から来よったんやけど、うちの実家がフェリーしよったでしょう。ほなら船がちょっと遅れてうどんが来るのが遅くなると、もう目の前でうどんのセイロ、バッサーっと海ん中放る。ほーんまにヘンコツのねえ、恐ーいオジサン。「ヘンコツうどん」って言われるぐらい。

 店は海水浴の海の家みたいな感じで、コモのこんなんが屋根にあって。冬なんかはその建物の中やけども、夏なんか建物のこっちの砂の上にトンボでアレしただけで。けど昔は粗末な店はいっぱいあったし、その頃に保健所とか何とかってねえ。まあ島やったからなあ。

 今思たら、今の若い人やったら絶対入らないよね。でも、おうどんがすっごい美味しかった。地元の人はみんなそこ行ったらね、「怒られんように、怒られんように」言いながら食べてました。友だち連れて来ても「ええな、黙っとくんで、黙っとくんで」って。だからアタシらはおうどんを食べに行っても、「とにかくオジサンを怒らせんように」って(笑)。

 店に火鉢が置いてあってね。大きなダシが入ったヤカンをいつも火ーにかけてて、それがシュンシュン、シュンシュン、シュンシュン沸いてました。沸いてたら普通は辛くなるんだけど、それが煮詰まらないぐらい客が多かったんやと思う。ほんで、うどんが来たらヤカンをバーっと持ってきて、上からダシをいっぱいまでジャーってかけるんですよ。ほんだら「ジュジュジュジュ、プルプルグワー」ていうて。他所から来た人はみんなビックリするん。

 うどんは薄ーいコブ(昆布)が入ったコブうどん。そのおうどんのみ。コブは先に入っとったんかなー…後やわなー。ダシは薄ーい色なんやけど、すごい美味しかってねえ。あれはコブのお陰やったんやろかねえ。

 それとね、一斗缶ってあるでしょ。店に一斗缶があって、オジサンはお金もらったら、その中にバーンと入れよった(笑)。缶の中にお金や札が山ほど入っとって、そこからガバーっと持ってボート(競艇)行ったりしよるってウワサでした。でも泥棒にも入られなくて、すごいでしょう、島は(笑)。

 あのおうどん屋さんはいつまであったんかな。高校の時に友だち連れてきたから、18位の時(昭和42年)にはまだあった。アタシは高校卒業した後に島を出たんやけど、その時にあったかどうか。そのぐらいの年になったらあんまり行かんようになってねえ。帰ってきた時にはもうなかったような。

 あのオジサンは、たぶん大阪の人じゃなかったんかな。流れて来たのか何か。店閉めて大阪の方へ引っ越して行ったっていう話を聞いたから。まあとにかく「永山うどん」は、本島の年寄りの人に聞いたら、絶対みんな知ってますよ。

思い出のコブうどんを再現

大里さんが再現した、所見坊のコブうどん

大里さんが再現した、所見坊のコブうどん

 それから高校出て就職して、神戸に行ったんです。そこで主人と結婚して、一緒に本島に帰ってきて「所見坊」を始めたんが昭和50年。最初はここ(本島パークセンターの中)でなくて、港のすぐ横にあったんやわ。その時に、あの「永山」さんのコブうどんが忘れられんでね。アタシなりに再現したんが、うちのコブうどんや。

 でも、なかなかあの味ができんかってね。特にコブの味が違とった。買うてきたとろろ昆布には酸味があるんやけど、永山のコブには酸味がなかったんやわ。でもお店はもうないから、あのコブがどこから来とったんかは分からんし。ほんである時に買うてみたんが、とろろ昆布でなしにおぼろ昆布。とろろとおぼろはコブの削り方が違うんらしいんやけどな、それが、このおぼろ昆布が酸味がなくて旨味だけ出るあのコブと同じやったんやわ。

 作る時はうどんが好きだった義兄さんが、何じゃかんじゃ持ってきて教えてくれたなあ。ダシも最初はカツオだけで取っとったんを「イリコ」とか言いながら(笑)。できてから「うちのコブが入っとるん」言うたら、みんな「あー永山のうどんが懐かしいな」って言うてくれた。

本島にあったもう1軒のうどん屋

 それからもう1軒ね、小学校の前にキタノさんていう人がおうどんして「キタノうどん」いうんがあったんです。ここはもう普通のうどん。ただ「今日はお汁辛いな」っていう時があった(笑)。ここももうなくなったんですけど「永山」よりは長かったよな。

●編集部より…vol:207に出てきた「本島の偏屈うどん」のさらに詳細証言が出てきました。「本島の年寄りの人に聞いたら絶対みんな知ってますよ」とまで言われる、伝説(?)の「永山うどん」。その名物「コブうどん」が、本島のお食事処「所見坊(じょうけんぼう)」に再現されているそうですのでぜひ。

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