香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市古馬場町・昭和27年生まれの男性の証言

昭和のライオン通の食堂の記憶(ライオン通・食堂「ほていや」ご主人さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 293
  • 2019.05.09

戦後すぐから始めた「うどんを出す大衆食堂」

「ほていや」さんの創業はいつ頃ですか?
 戦後すぐの頃、親父がこの店を始めた。うちの親父は戦争から帰ってすぐ、大阪でお菓子屋の丁稚みたいになってたらしい。親父の兄弟が大阪におったもんやから。それから高松に帰ってきかのが昭和23年って言ってたかな。ライオン通がまだ焼け野原の頃で、「船着き場から瓦町の駅舎が見えよった」言いよりましたから。その時に親父が「ここらが流行るかもしれん」て言うてここの土地を買ったらしいんやけど、当時のこの近辺は見渡す限り焼け野原での。親父がここを買った時には、その向こうに「松原」いうパン屋さんと、北の方に映画館の「ライオンカン」があった言うたんかな。それくらいしかこのあたりには店がなかったらしい。

 それから私が子供の頃(昭和30年代)になると、ライオン通にうちみたいな大衆食堂や飲み屋さんがいっぱいできてきたみたいや。当時、映画館も結構流行ってて、「ライオンカン」に映画を見に来た人がうちにもよくうどん食べに来とったな。

当時はどんなメニューを出していましたか?
 出してたのは丼物とうどん、そば、バラ寿司といなり寿司と巻き寿司、おでんも置いとったな。あとは、ご飯とおかず。おかずは並べてあって客に好きなものをとってもらうという「セルフ定食」やったんや。何がよう出よったか? 丼もんよりは、うどんと中華そばが多かったね。
うどんの麺は製麺所から仕入れてたものですか?
 そうそう。「丸川」いう製麺所から仕入れとった。あっこの大将とうちの親父が仲良かってな、終戦後くらいからずっと取引しよったんや。後に丸川さんがやめてからは冷凍うどんになったけど。うどんメニューは素うどんと、あとはきつねうどんと肉うどんと玉子とじ。親子うどんいうのもあったか。素うどんいうてもネギとお揚げとかまぼこが入ってた。今で言う「かやくうどん」やけど、昔はお客さんは皆「素うどん」いうて言いよったな。

 ダシはね、おコブとカツオで。イリコは使ったことない。昆布や鰹節は「丸一」の乾物屋さんから買ってたけど、終戦直後の乾物屋さんがなかった頃は、うちの親父が高知まで買いに行っきょったらしい。「夜中に汽車に乗って高松を出て、翌朝高知で鰹節を買い付けて帰ってきて、自分で削ってダシを作りよった」という話を親父から聞いたことがあるな。

 そばは中華そば。終戦直後から御坊町の筋のちょっと西に行ったところでやっとった「ふたば」さんから麺を仕入れて店でゆでて出しよった。「ふたば」さんは今は卸しで大きなっとるけど、あそこがまだ小さい店だった頃からや。あっこの親父さんとうちの親父が仲良くて、確か昔は「ふたば」の親父さんとうちの親父が一緒にアイスクリームを売りに行っきょったらしい。

アイスクリーム?!
 そうそう。子供の頃(昭和30年代)は、うちの店の窓際の隅っこのところにアイスクリーム作る機械があってな。それでアイスクリーム作って、自転車にハンドベルみたいなん付けて親父が売りにいっきょったらしい。その当時は「中国の人も雇っとった」言いよった。

 昔から出前も結構あちこちに配達に行っとったらしい。岡持ち持って自転車でな。近くのいろんな店から注文があって届けに行ったり、年末は年越しそばの配達に行ったり。私もちょこちょこ一緒に配達に行きよったから、昭和50年代になっても出前しよったん違うかな。
 
 けど、飲み屋さんではよう踏み倒されたな(笑)。最初はちゃんとお金払うてくれるんやけど、そのうち馴染みになってきたら「今足りんからツケとってくれ」言われて、月末に一カ月分取りに行ったら夜逃げしておらん、いうのに何回も引っかかった(笑)。まあその頃はまだそれなりに収入があったからやっていけたけど、今そんなんに引っかかったら倒れてしまうわ(笑)。

昭和のライオン通は映画館の周りに飲食店がいっぱいあった

お店はかなり繁盛していたんですね。
 景気がよかった時はな。最初は何しろ、ここの借金を返さないかんから大変だったらしい。親父が最初に始めた頃は、朝の7時から店を開けて、夜中の12時頃まで営業してたらしい。お袋も「裸足で店の手伝いしよった」って言いよった。

 それからだんだん景気がようなってきてな。ライオン通にもうちみたいな大衆食堂が何軒もできて、昭和の高度成長期から平成の頭のバブルのピークまでずーっと忙しかった。土日祭日いうたら忙しすぎて、私ら飯も食えんぐらい仕事に追われとった。飯食う時もほとんど座って食った記憶がないぐらいやった。あの当時の高松の商店街はどこもここもすごかったからね。

 それから後に景気が悪くなりだして、しまいにライオン通の大衆食堂はうちぐらいになってな。そのうち、うちも両親が病気して私が看病やら介護やらに手を取られ始めて店をさいさい休んみょったからだんだんとジリ貧になって、うちも去年の8月に店を閉めたんや。閉める時に、それまでちょこちょこ来てくれよった山陽放送のアナウンサーがちょうど閉店する日にも来てくれて、「今日で閉店するんです」言うたらテレビに出してくれた(笑)。「町の食堂がなくなってしまう」いうてな。

昭和の賑やかだった頃、ライオン通のこのあたりでどんなうどん屋さんがありましたか?
 うどん屋さんでは「川福」さんぐらいかな。あと、この近辺でうどん屋いうんはなかったと思うな。夜鳴きそばの屋台はちょこちょこ来よったけど、うどんの屋台はなかった。

 うどんを出す食堂なら、ちょっと昔はこのライオン通を北に突き当たった右側に「とらや」があったわ。それと、大工町の角っこあたりにも食堂があったと思うんや。名前忘れたな。そこなんかもうちみたいな食堂やったわ。それと、すぐそこのフェリー通りを向かいに行ったところに「わかば」いう食堂もあったな。今はもうないけど、そこもたぶん当時はうどんや中華そばも出しよったと思う。「わかば」は最初、そこの角っこで喫茶しよったんやけど、喫茶をやめて場所を移って食堂になったんや。あとは、ライオンカンの南側に「美代志野(みよしの)」いう甘党の店があったけど、あっこも今は閉まったままやね。まあ、昔は大衆食堂いうんが多かったんやわ。ここら辺は映画館があったから、その周辺に食堂やらが固まってたわな。今はもうほとんどなくなったけどな。

●編集部より…製麺所からうどん玉を仕入れてメニューにして出す「大衆食堂のうどん」の記憶です。「製麺所がなくなって冷凍うどんに変わった」というくだりから、「玉の卸しをする製麺屋さん」と「冷凍うどん」が競合関係にあったことが改めて伺えます。今や、大衆食堂のうどんは冷凍うどんを使うのが主流になっていると言っても過言ではないかもしれません。ちなみに、冷凍うどんがすっかり定着した今、平成の讃岐うどん巡りブームを牽引した「玉の卸しを本業とする製麺屋さんがついでに食べさせてくれるうどん屋さん」は、これから構造的に減って行くしかないというのが残念ながら宿命です。

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