香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

丸亀市綾歌町岡田下・昭和30年生まれの男性の証言

昭和30年代の綾歌の記憶

(取材・文:

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  • vol: 294
  • 2019.07.04

法事のうどんは全部家で作っていた

 私のところはずっと農家で、米の裏作にはタバコを作っりょった。小麦? 小麦は作ってない。このあたりはほとんど米と裸麦で、小麦はほとんど作ってなかったですよ。

 子供の頃のうどんの記憶というと、法事の時のうどんですね。うちは浄土真宗ですけど、法事をする時は必ず家でうどんを作っていました。打ち込みじゃなくて、普通に塩を入れて作るうどん。「打ち込みうどん」いうのはね、小さい頃は記憶にないんですよ。

 それで、「おくどさん」で一升釜に薪をくべて湯を沸かして、そこでうどんをゆでる。それを、法事に来た人に「まずうどんを一杯どうぞ」といって、つけうどんで食べてもらうわけです。

「駆けつけ一杯」ですね。
 そうそう。強制的な駆けつけ一杯(笑)。法事は、まずうどんを食べてもらわんと始まらんのです。「お客が来たら、まずはうどん」。ここ、大事なとこやから復唱しときますね(笑)。それからお勤めをして、終わったらお膳が出て、それを食べてからお土産にまたうどんを持って帰ってもらう。持って帰ってもらう用のうどんもちゃんと作ってありますから。
うどんは製麺所から買わないんですか?
 たいてい、それぞれの家で打ってたように思う。少なくとも私の家と私の親戚の家では自分の家で打ってたから、家々に麺棒と打ち板はありましたね。法事の時は、お膳は仕出し屋さんから持ってきてもらってたけど、あとは全部家でやってた。だから「うどん玉を買いに行った」いうんはあんまり聞いたことないなあ。
そう聞くと、当時のうどんは日常食より催事用の意味合いが強かったようにも思えますね。
 そうかもしれんなあ。でも、私が大学に行ってた頃(昭和50年前後)には、もうそういう食文化はなくなってきてた。

綾歌が栄えていた時代に高松でオムライス(笑)

綾歌町の岡田あたりは昔、かなり賑わっていたという話を聞きましたが。
 綾歌町のこの辺は旧金比羅街道(今の国道32号線)と徳島の貞光から坂出に抜ける道(今の国道438号貞光坂出線)が交わるところで、岡田に大きい材木屋が2つあって、徳島の貞光から馬で材木を持って来る業者が泊まって帰るという宿場町みたいな役割もあったようですから、一帯に商売の店がいっぱいあってかなり賑わっていたそうです。旅館もあり、映画館もあり、紙芝居も来て、鍛冶屋や豆腐屋、麹屋(味噌屋)、織物屋、散髪屋…等々のいろんな商売が立っていたそうです。

 あと、この上の城山は20年物の赤松林があって松茸狩りの一等地として有名だったらしく、昭和30年台は「岡田に泊まって芸者遊びして松茸を取りに行く」というのが一つのステータスだったと聞きました。私が小学生の頃まで、私の家のすぐ隣に芸者さんがいましたよ。

じゃあ、子供の頃にお店にうどんを食べに行ったこともあった?
 私が物心ついた昭和40年前後にはこのあたりにうどん屋も喫茶店もあったし、着物屋も家具屋もあってスーパーも3つもありましたから、たいていのものは近場で完結してたように思うんですけど、実は子供の頃にこのあたりのうどん屋に行った記憶がないんです。外食で言うと、子供の頃は高松に行くのが楽しみでね。高松に行くとうどん屋があって…
そこでお気に入りのうどんを。
 いや、そこのオムライスがものすごくおいしくてね(笑)。
オムライスですか(笑)。
 そこはうどん屋というより、うどんのある食堂かな。そういう店に外食に行ったら、たいていオムライスかカレーを食べてて、うどんはあんまり食べなかったな。たまに食べても、あの頃のうどんには今で言う「コシ」はなかった。当時のうどんを食べてた人はみんなそう言うはずや。「ちょっと炊きすぎたなー」というような、鍋焼きうどんのような麺のうどんが昔のうどんだったと思うよ。

●編集部より…綾歌がかつて交通の要所で栄えていたという話はテレビでも一度紹介されたので、ご存じの方もいらっしゃると思います。そう言えば昭和30年前後、隣の綾上町で「山越」がうどん屋になる前にダンスホールもやれるほどの飲食店をやってたという話もありましたし(「開業ヒストリー/山越」参照)、他にも「昭和の証言」で戦後から昭和30年代の多度津や善通寺の大にぎわいぶりが発掘されていました。そういう話を見ていると、あの時代の香川県の「にぎわい地図」を作ってみたくなりますが、誰がどうやって作るかが問題です(笑)。

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