昔の多度津はやたらとうどん屋が多かった
- お生まれが昭和8年ということは、食べる物がだんだんなくなってくる時代に少年時代を過ごされたんですね。
- 小さい頃はまだ食べ物はありましたけど、戦争に入って行く昭和15年頃から後はだんだんなくなっていっていきました。それから戦後すぐは、さらに食べるものが手に入らなかったですね。
- 戦前に多度津のご近所でうどん屋さんはありましたか?
- 多度津の街中には、戦前からうどん屋が20ぐらいありました。ほんまに角々にうどん屋があった。(地図を出してきて…)これは多度津町の昭和9年の地図なんですが、戦前、戦後あたりにうどん屋のあったところに付箋をつけてみたら、覚えとるだけでこれぐらいあった。
- おおー、これはすごい! 今の「水田食堂」が「水田商店」て書いてある。ここ、西浜に「こんぴらうどん」とあるけど、たぶん今ある「こんぴらうどん」とは別の「こんぴらうどん」なんでしょうね。
- 最近の店の名前は地図に入れてませんけど、当時のうどん屋のだいたい名前はわかっとります。私がよう行っきょったのは、この「広田うどん」。親が連れて行ってくれたこともあったけど、子供1人で10銭か20銭かもろうて食べに行くことが多かった。1人で行く時は三食のうちでなくて、まあおやつみたいなもんやな。あと、電車の停留所の前にあった「小町食堂」いう店は多度津では有名だった。
昔の多度津のうどんには、ネギの代わりにほうれん草のおひたしが乗っていた?!
- 当時のうどん屋のうどんはどんな感じでしたか?
- ほうれん草のおひたしが少し、必ず乗っとったいうんは覚えがありますね。ネギの覚えがないから、ほうれん草がネギの代わりだったんかもしれんなあ。とにかく、うどんに乗っとったのは「カマボコ一切れとほうれん草」というイメージがありますね。あとは、店にばら寿司を置いとったぐらいしか覚えてない。店に看板ものれんも大きく出とったような記憶はない。路地にあって人通りもそんなになかったですから、どこもそんなに栄えた店ではなかったように思うけど(笑)。
- このあたりに製麺所はありましたか?
- 製麺所は…あったかなあ。精麦所はあったけどなあ。「堀精麦所」。あそこは小麦を粉にするんじゃなくて、裸麦を製麦したり、麦を二つに割って干したりしよった。うどん屋は、メリケン粉をどこかから仕入れて自分とこでうどん打っちょったかやなあ。製粉はどこでやっとったんやろ。田舎にある水車とかから粉が来よったん違うかなあ。弘田川(海岸寺駅あたりを流れている川)沿いには水車が2つ3つあった。水車回して粉にしよったな。
- うどん屋に中華そばは置いてなかったですか?
- なかったですね。戦前からあった「上海軒」が中華そばを出しとった。支那事変が昭和12年で、「上海軒」はそれより前にできたと思うけど(昭和11年創業)、今は場所も代も変わってますね。
- 「中華そばは中華そば専門の店で出していた」ということですか。そういえば「お好み焼き横田」さんにも中華っぽい食文化の名残があるメニューがいくつかありますけど、昔の多度津は国際色があったんでしょうか。
- 当時の中国は日本と緊張関係にあったから、中国人は日本には来ませんわ。朝鮮は当時は日本だったから、学校では1クラス50人ぐらいの中に3~4人は朝鮮から来てる生徒がおったな。みんな多度津の町外れに住んどったと思う。
家に出前を取ってうどんを食べていた
- ご自宅ではうどんは打ちましたか?
- 打ってません。家でうどんを食べるのは、うどん屋でうどん玉を買って来て自分ちでいりこでダシを作って食べたこともあったけど、そんなに多くはなかった。あとは、うどん屋から出前でうどんを取ってました。お客さんが来る来ないではなく、昼飯や晩飯の時に普通に出前でうどんを取って、親父やお袋と食べることがあった。
- うどん屋さんは普通に出前をしてたんですか?
- しよった。うどん屋に行ったら、出前の岡持が必ず並んどった。
- それでも、家ではあまりうどんは食べてなかったんですね。
- そうやな。家では戦中はだいたい麦飯、昭和27~28年頃になって麦飯から白米にだいぶなってきたかな。あと、団子汁。手で握ったような形の団子が入った汁は時々食べよった記憶がある。
一向宗はうどんとにかく食わせる
- うどんと風習の話なんですけど、多度津では新築の家の風呂でうどんを食べる風習はありましたか?
- 聞いたことはありますね。子供の家を建てた時に、わしも入ったかなあ? 昭和の30年か40年くらい。
- 法事にうどんは出ていましたか?
- うちは真言やけど、うどんを出っしょった。けど、一向(宗)はうどん出るなあ。一向の法事に行ったらすぐうどんが出てな、1杯しか食べんかったら「なんでや」って怒られた(笑)。真言は一向と違って、うどんにはそこまでこだわらんな。法事の最後に出っしょったかな。
- お祭りでうどんは出ていましたか?
- なかったな。多度津の祭りはさみしいけんな。お袋の里の田舎(多度津町庄)でも、祭りでうどんはたぶんなかったんちゃうかなあ。寿司と、天ぷらというか揚げ物はあった。色付きの、黄色いやつね。
「谷川」の記憶
- 記憶に残っている「おいしかったうどん屋さん」はありますか?
-
多度津にはないです(笑)。うまかったのは、まんのう町美合の明神の「谷川」。あそこに昭和27年か28年に行って、このへんのうどんと違う小指くらいの太さの麺が醤油かけただけですごく美味しくて、「こういううどんもあるんや」と思ったことがありましたな。谷川は大きな水車が家の横で回りよったですね。昔はあそこ遠かったのに、今行くと近いですね。車ですっと行ける。
最近では、金蔵寺の「長田in香の香」はうまいなあ。あとは、最近閉まったけど丸亀の「すみや」。あそこも普通のうどん屋よりちょっとこざっぱりしとったからな。お客さん連れていける。
- 「すみや」さんは丸亀の商店街にあった頃から有名でしたね。
- でも、味は移転前と後でだいぶ変わったで。
●編集部より…「昭和の証言」や「新聞で見る昭和の讃岐うどん」の中に、昔はあったのに今はなくなってしまった「讃岐のうどんの姿」がいくつも出てきましたが、多度津の「ほうれん草のおひたしのトッピング」もなかなか差別化されたおもしろい素材です。復活させて「多度津のうどんにはほうれん草が乗っている」というプロモーションはどうでしょう(笑)。「うどん屋がマッピングされた多度津町の昭和9年の地図」も、ぜひ残しておきたい貴重な資料です。それにしても、「たろつのかろのうろんやで、うろんろっぱいはらろぶろぶ」(多度津の角のうどん屋で、うどん6杯腹どぶどぶ)と言われた時代の多度津はすごかったようですね。