香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

綾歌郡綾川町・大正14年生まれの男性の証言

昭和20年代前半、肉うどんやきつねうどんが社員食堂に!

(取材・文:

  • [showa]
  • vol: 61
  • 2015.07.16

昭和20年代前半、肉うどんやきつねうどんが社員食堂に!

 仕事をしていた時は、昼飯はいつも決まってうどんだった。年のせいで、食べた店の名前など子細なことはほとんど忘れてしまったが、ここまで長生きができたのは案外、うどんのお陰かも知れない。

 昭和21年に岡山から香川へ移り住み、翌年に定年まで勤め上げることになる四国配電(現:四国電力)に入社した。
 担当した仕事は送電線の保守管理。毎日のように県内全域に建ち並ぶ鉄塔へと赴いた。訪れた地域の店で昼にうどんを食べることが、いつしか仕事の励みとなった。

 通っていた会社は当時、高松市立中央公園のすぐ西側にあった。香川支店と呼ばれていたその社屋には、30~40人ほどが一度に利用できる規模の社員食堂が地下に存在。メニューにはうどんも用意され、かけや肉、きつねなど幅広く楽しめた。もちろん、今のうどん店のようにトッピングをのせていくタイプではない。メニューの受け渡しだけセルフの食堂である。

 鉄塔回りをしない日は社員食堂で昼食をとることもあったが、本格的なうどんを求めて高松の商店街へ出掛けることが多かった。残念ながら、その中で具体的に思い出せる店の名前はトキワ街(高松常磐町商店街)の地下にあった「きみや」だけだが。

 それでも、「人生の一杯」とでも呼びたいうどんを作ってくれた森政義(まさよし)さんの名前だけは、決して忘れまい。

地域の集会ではいつも達人がうどんを振る舞った

 昭和22~26年まで、綾歌郡枌所村(現:綾歌郡綾川町枌所)にあった社宅に住んでいた。社宅と言ってもただの一軒家。昔ながらに地域との繋がりは強く、休日に行われる会合にもよく顔を出した。そこでいつも振る舞われたのが、森さんが作るうどんだ。

 会合は集会場や大きな民家など、釜がある場所で行われた。森さんは会合があると必ず、麺棒や麺打ち台、鍋など、うどんを作る用具や材料を一式、携えて現れるのだ。そして本人は話し合いに参加せず、うどんをひたすら作るのである。

 会合に集まる人数にも関係したが、森さんは小麦粉を水で配合する最初の段階から作り始めた。生地を練り、足踏みもしっかりと行い、麺を湯がき、水で捌いて、もろぶたに並べる…。その堂々とした様子は話し合いの場所からも窺え、昼食の楽しみを募らせた。出来上がるうどんはいつも具がネギだけのかけだったが、喉へ勢いよく飛び込んだ。
 
 当時の枌所は結婚式も民家で行われることが多く、その際も大活躍していた森さん。手間賃や材料費はいつも受け取らなかった。

うどんを作る達人が明治・大正時代から各部落に存在した

 ちなみに、何かの行事があるとうどんを作る達人は当時、枌所では各部落ごとにいた。明治や大正時代から存在したという。その中から後に本業として店を構えた人もいる。達人たちの話題は、巷の世間話にたびたび花を咲かせた。

 森さんのような意気が感じられる一杯に出会うため、今も老人ホームを飛び出して店に足を運ぶが、これが正直なかなか…。

  • TAGS: 
  • 関連URL: 

ページTOPへ