香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

木田郡三木町井上・昭和23年生まれの男性の証言

半夏生の時は鰆の押し抜き寿司と一緒にうどんを食べていた

(取材・文:

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  • vol: 62
  • 2015.07.16

半夏生の時は鰆の押し抜き寿司と一緒にうどんを食べていた

小さい頃、どういう時にうどんを食べていましたか?
 昭和30年頃は、年越しの時に食べよった。そばも食べよったけど。それと、農家やったから半夏生の時。法事でもうどんは欠かせんかったなぁ。葬式や四十九日で食べるのは縁起が悪いから御法度やったけど。うどんは長いから「尾を引く」言うて。

 うどんを食べる時は必ずバラ寿司も一緒で、半夏生の時だけ鰆の押し抜き寿司やった。その習慣は今も変わってないで。懲りんと田んぼもまだしよるし。さすがに麺は店から買うてくるようになったけど。

麺はもちろん、醤油や味噌も自家製だった

昔は家でうどんを作っていたのですか?
 爺さんと婆さんが作っとった。小麦粉を練ったり、袱紗(ふくさ)を掛けて生地を足踏みしたり、麺棒で伸ばしたりしとった。6歳くらいまで(昭和20年代)の話かな。

 うどんを作る道具は一通り揃っとった。足踏みで必要な木の板なんかは、餅を作る時に使うのと同じ物で代用しとったし。

材料はどうしていましたか?
 しっぽくうどんにしていつも食べとったけど、農家やから具の野菜は自分とこで作ったもんばっかりや。大豆も作っとったから、醤油や味噌も自家製やった。

 麺に使っていた小麦粉もそうや。自分とこで採れた小麦を製粉所へ持って行って、小麦粉にしてもろとった。近くに「十河」ゆう店があってな。小麦を持って行くと、それをその場で挽いてくれた。大きな機械に放り込んでな。小麦はいっぺんに30キロくらい店に持って行っとったけど、挽く時間はそんなに掛からんかった。お金も要らんかったと思う。なんぼ(いくら)か小麦粉を取られるだけで。

そのお店はいつまでありましたか?
 もう製粉はしてないけど、「十河製麺」ゆう名前で製麺所とうどん屋を今もしよるよ。場所は前から変わってない。さぬき三木ICから南に下った、二ツ池のそばにある。製粉所から製麺所になって、それからうどん屋もやり始めたはずや。そこは近くにあるスーパーのマルナカや香川大学の医学部にも麺を卸しよると思う。ここが製麺業を始めて麺が買えるようになったから、家でうどんを打たんようになったのかも知れん。

製粉所が三木町の各エリアにあった

当時(昭和30年代)、三木町には他にも製粉所はありましたか?
 コトデン平木駅の前に今もある「池北米穀店」が、昔は製粉もしよったと思う。それと、すっかり大会社になった「藤井製麺」も。小麦粉はうどんの麺を作るだけやのうて、天ぷらや「ほっぽら焼き」ゆうて今のホットケーキみたいなもんを作る時にも使った。今よりもたくさん使っとったから、製粉所は当時、身近な存在やったな。
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