香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

綾歌郡綾川町羽床上・昭和28年生まれの女性の証言

うどん作りは男性だけに許された〝たしなみ〟

(取材・文:

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  • vol: 68
  • 2015.07.16

うどん作りは男性だけに許された〝たしなみ〟

 うどんという言葉を聞くと、小さい頃よく耳にした「男麺・女麺」という形容を反射的に思い出す。男麺とは、しっかりとしたコシのある上出来の麺。女麺とは、柔らかくてコシのない不出来の麺のことを言っていた。当時からその言葉に個人的に男尊女卑の響きを感じていたが、兎にも角にも「うどんは女人禁制で男性の〝たしなみ〟」という慣習が、我が家だけでなくこのあたりの地域にはあった。

 私が子供の頃(昭和30年代)は、家ではいつも父が一人で生地からうどんを作っていた。母や自分が手伝った記憶はなく、うどんの詳しい作り方も当然、知らない。

 小麦粉は家に2種類あった。一つは徳島の山奥の農家までわざわざ訪れて調達していた地粉。もう一つは近くの店から買っていた外国産だ。

 父が気に入っていたのはもちろん地粉だった。二つをブレンドして使うことはなく、外国産は地粉がなくなってしまった時に仕方なく使う緊急用。だが、私は個人的には外国産の方が好みだった。

 うどん作りに携わらせてもらえなかったのと同様、地粉の仕入れに連れて行ってもらえることもなかった。ただ、同じ農家から一緒に買っていた干し柿を、いつも心待ちにしていたことを覚えている。

 うどんは主に秋から冬にかけて作り、一度作ると一週間ほど続けて食べていた。寒い季節は麺が日持ちし、食べるとすぐに身体が温もるという理由でその時期に集中したのかも知れない。家で作っていた野菜や、周辺の山で採れたハツタケなどのいいダシが出るキノコを入れ、しっぽくにしてよく食べた。

釜揚げうどんが食べられるのも男性だけ

 父の作るうどんを楽しみにしていたのは、私たち家族だけではない。麺を釜で茹で始めると、どこから聞きつけたのか近所のおじさんたちがいつもやって来た。そして、頃合いのいい時間になると釜から麺を引き上げて持参した丼に入れ、醤油を掛けて食べていた。麺談義に花が咲くこともしばしば。その際、「男麺・女麺」という言葉がよく踊った。

 大勢の親戚が集まる年末や正月にも、家系の男達に厨房を占拠された。それは節目にうどんを食べるためのものであったが、若い人へうどん作りを教えるという別の目的も含まれていた。様子は窺い知れなかったが、代々そのようにしてうどん作りの技術を伝えていたのではないだろうか。

 余談だが、うどんと一緒にそばを作ることも珍しくなかった。その時は、どちらの麺でしっぽくにするかを選べるという贅沢にあやかったが、父は大変な重労働だったはずだ。反対に、「手で捏ねただけの麺をそのまま鍋に入れる」という簡単なしっぽくうどんの日もあったが(笑)。いずれにしても「うどんは男のもの」で、母や自分は釜揚げうどんを口にしたことは一度もない。

 うどんを外で食べるようになったのは、家を離れて社会人になってから。もっとも、小さい頃に住んでいた場所は“うどん巡りの聖地”と呼ばれている「山越うどん」よりもまだ山奥に入った田舎。当時は山越はおろか、周辺にうどん店は一軒もなく、唯一あった食べ物関係の店は、小麦粉を渡すと食パンにしてくれるパン工場だけだった。

うどん屋でもらったダシ昆布を佃煮に

 一番よく利用したうどん店は、二十代の頃(昭和50年頃)、当時の仕事場から近い高松南新町商店街の中にあった一軒だ。名前は忘れてしまったが、大きな金魚を飼っていた店で、店主はユニークなおじいちゃん。どのうどんも美味しかったが、年末になると季節限定で登場する四角い焼き餅が入ったうどんが一番のお気に入りだった。ただ、「七味とショウガの両方をうどんに入れたら旨い」との店主の教えは、実践したものの納得がいかなかったが(笑)。

 そのお店では使い終わったうどんのダシ昆布をよく頂き、それを佃煮にして食べたこともよい思い出になっている。お世話になったのに、店名を忘れてしまった自分の不義理が腹立たしい。

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