さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【田中屋製麺所(高松市仏生山町)】
戦前戦後の仏生山の「素麺文化」から「うどん」への移行までを駆け抜けた、まさに“生き字引”の製麺所

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 13
  • 2018.03.22

第二話

田中屋製麺所・後編

 高松市仏生山町のお成り街道で、平成3年まで営業していた「田中屋製麺所」。戦前から続いてきた素麺製造から始まり、うどん作りそして食べさせる製麺所へ、戦後から平成の始めまでの話を、ご主人の山本さんに聞いた。

聞き手・文:篠原楠雄
お話:「田中屋製麺所」ご主人・山本さん(大正13年生まれ)

<昭和30~50年代>

素麺製造からうどん卸し業に転換

 手打ちうどん始めたんは、昭和35年か40年位じゃな。作り方は独学で。粉をいろう(触る)から、素麺とおんなじや。粉の質とかいうのは、こやってつまんでな。ちょっと舐めて、こやったらグルテンがどの位あるとか、色がどんなんが出るとか分かるん。昔のうどんいうたら黄色かったわな。

 うどんやもう機械いらんのに。錬るだけ錬ったら全部、丸めて踏んでの。するんはほどんど手や。うどんでも研究したからの。日ー持つ(日持ちする)やつとかの。うどんでも上手にしたんは、朝したんを晩にぬくめても、湯は濁らんとかの。下手したやつは、最後の1分2分でうどんの打っちゃげる時に分かる。塩加減とか打ち加減やな。やっぱり元々設計や何かしとるけん、研究がいん(ずいぶん)しての。くそぼっこ(大馬鹿)やけん、研究ばっかりして儲けんならなんだけど、なんとか食うてここまでやったけんの。この向こうの倉庫はその頃の家や。こっちは全部建て替えた。

 昔はの、とにかく市(いち)とか祭りとかいうんがあったら、みんな手打ちうどんとか、揚げ物のゴボウやさつまいもやレンコンやら、お寿司やらお土産にしよったんや。今はもう、そういう親戚付き合いがないけどの。市や祭りに、嫁さんに行とる子は里へ帰ったり、向こうでも来たりしての。

 ほれから、法事や“ほうさん”にも、よっけうどん出っしょった。“ほうさん”いうたら、仏さんのいろんな行事じゃわな。それから“めんば”で…昔は“めんば”っちゅうんがあったんや。今でも部落(地区)いうんがあるやろ。いろんな寄り合い事とか何かしたら、すぐうどん出したりの。

 昔は各家で打っちょったけど、私らがうどんをしかけてから、寄り合いの時は店から取るようになった。注文があって「200玉、300玉持ってこい」言われたら、持って行っきょったからの。その頃は小売りの店もよっけあったわけや。セイロに20玉入ったやつを卸っしょったん。今はもうマルナカに全部袋に入れてしよるけど、その頃は裸での。

 昔はの、大晦日(おおつごもり)いうたらうちらでも、親戚のもんやみな連れて来て寝んとうどん作んりょった。作ったんは、ほとんど三谷の組合に行っきょったな。31日の晩までには全部入れないかんけん、29日からもう始めて、29、30はもう寝んの。釜も、湯を替え湯を替えしての。

 食堂(うどん屋)も、今は自分とこで作っりょるけどな。昔はほとんど卸っしょったんや。とにかくその頃はうどんがよう売れよったんじゃわ。今のうどん屋でも、皆儲かっりょる儲かっりょる思うけど、そなに儲かっりょらんのぞ。儲けたんは私らが玉卸ししよる頃や。1日、20何キロで300玉くらいこっしゃえての。それで製麺組合が1玉40円にするか50円にするか決めての。ホントはいかんのやけどの(笑)。

古いうどん屋は元々素麺をやっていた

 古いうどん屋は皆、元々素麺しょったんや。ここな辺ではの、浅野(高松市香川町浅野)に「ミノ」っちゅう製麺があったん。マツノイ(マツノイパレス)の下からちょっと東入ったところ、浄水場の下んとこくらいのとこにな。そこも素麺やめてうどんにしたわ。今はもうやっりょるかやっりょらんか知らんけども。その後は、うどんを乾燥して袋詰めして出っしょった。あれ、特許取ったとか何とかいうて言いよったけど、どないなったんかは知らん。

 空港のところに「川田」いうんがあるやろ。あれやって、元々製粉だったからな。素麺や乾麺もしよって、東京かなんかに支店も出しとったんやけど、どないしたんかいの。あすこは私の義理の親父やって、うちによう来よったんやわ。なかなか大物(おおもん)じゃったけんのう。元々は「石丸」よりは「川田」の方が大きかったんで。「石丸」は、あすこが素麺を本格的にやり出した時に、会長がうちを見にきたんやけんな。私、その頃かなりやりよったから。

 で、その頃素麺でようけしよったんは「ギンレ」いうんと「トミダ」いうとこ。「ギンレ」は高松の通町にあったと思うわ。通町に衣料かなんか卸ししよった、ナカなんとかいうとこ(中商事?)が、通町の道の西側の角っこにビル建てよったけど、あそこら辺の角っこにあったわ。「ギンレ」は銀に“レ”はどんな文字だったかな。何か調べたら、載っとるかも分からん。ここは、早よやめたやろな。「トミダ」いう製麺所は、観光道路(通り)のな、こう斜めに入って行く角っこ(高松No.1ホテルのある交差点)や。「トミダ」はこっちの方の人じゃったわ。ここは大分長いことやっりょったよ。高松(市街)でやっりょったんは、この2軒覚えとるわ。

 後は、さっき言うた鬼無の「シモカワ製麺」。これも、大きかったんや。私も、粉よう買いに行っきょった1人やけどな。高松から行ったら平安閣があるやろ。あれから郷東川を渡って、南行ったとこだったと思うわ。川沿いぐらいやった。昭和36年頃やけん、60~70年前やのう。ここもやめてしもとるだろうけど。

昔のうどん屋は皆おがくずを燃やしていた

 さっき、うどんする時にサツマイモの皮を燃やっしょった言うたやろ。釜でもこういう大きいのがあっての、段にしてかんなくずとかそんなん入れるん。ほんなら、バーっと燃えよるけんその火でしょったん。あの釜はな、ドストル(ロストル?)いよったかいな。もう忘っせたわ。釜を作るのは、自分でみな考えるわけや。煙突の方へ抜けるんと、この火が抜けるんとの。釜の中は斜めにしとってな、中でおがくずなんかが焼けた分だけタラタラ入って行くんや。

 昔のうどん屋さんは全部、おがくずとかでしよったんで。東の方に行たら、砂糖絞るとこでサトウキビの絞りカスもろて帰って燃やしたりして、燃料にしょったわ。バーナーになったんやかし、まあ最近や。いうても古いわの(笑)。重油になったんや。重油でもアレでなしにAかB。Bではいかん、A重油だったと思う。Aも安かったんやけど、Bはまだ安かった。けどBは粘いから使えなんだと思うわ。で、バーっとバーナーで吹いて、燃やしかけての。ちょっと高いとこに置いた丸いタンクに重油入れての、ホースでこう下ろしてバーナーつける。そりゃもう時代が変わったわ。

波ロールが画期的だったうどん製造機

ほぼ処分されてしまった道具の中で、唯一残っていたうどん製造機。かなりの年代物です。

ほぼ処分されてしまった道具の中で、唯一残っていたうどん製造機。かなりの年代物です。

 うどんは今頃、足踏み足踏み言よるやろ。一時な、アレ、止めたことあるんで。「足踏み禁止令」いうんが出ての。そなん言われたから機械入れたんや。端岡の向こう、国分寺の道の端にあった、福井工作…福井工業所か何かゆうんでの。そこの機械。福井さんは、元々素麺の切り歯を作んりょったんや。切り歯いうたら、機械からずーっと下りてきた素麺が切れて出てくるやろ。それを切るやつや。うちにも切り歯ぐらい残っとるだろうけどな。ほだけん、うどんの切り歯も作れるわ。

 ほいで、その人がロールに生地を噛ますやつ考えたん。うどんの機械のロールはな、初め真っ直ぐなベチャベチャだったんやけど、それを波(型)にしての。うどんっちゅうのは、麺棒で伸ばしたり踏んだりしたらの、グルテンが四方へ広がるん。けど素麺は、1つの枠ん中へ流すから真っ直ぐになるんの。だから、素麺は茹でたら縦に伸びるん。けどうどんはぐるり広げとるから、茹でたら全部へ伸びるんやわ。ほんでロールを波にしたら、グルテンがええ具合に伸びるようになっての。うちの機械はもう全部ポンコツに持ってってしもたけど、「さぬき麺業」行たら、まだ前の古い機械持っとるかもしらんぞ。

高松市

田中屋製麺所

たなかやせいめんしょ

高松市仏生山町

開業日 昭和28年以前

閉店

現在の形態 製麺所

(2018年3月現在)

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