香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

坂出市青梅町・昭和11年生まれの女性の証言

山寺の自給自足のうどん

(取材・文:

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  • vol: 271
  • 2018.02.19

山の中のお寺で自給自足の生活をしていた

 坂出の山の中の一軒家に、昭和11年に生まれました。実家はお寺だけど、うちは山の上だから檀家がないの。だから自給自足して生活を守らないかん。父が山の麓に行って稲の余ったのをもろうて来て、水田をして。さつまいもの蔓の余ったのをもろうて来て植えて、自分たちがそれを育てたのを食べる。お米を作って、野菜を作って。家に水車もあったんですよ。お味噌も作って。お醤油も作って。もろみが出来たらお醤油ができるのね

 油とかお砂糖とか塩とかは買いよりましたけどね。山の中の一軒家ですから、買い物に行くのもそこから徒歩で坂出の街まで2時間くらいかかる。当時は自転車くらいしかなかったのね。乗合バスは木炭バス。木炭ていうのは炭。炭で燃料にしてバスが走っりょった。

 だから、私は苦労した。お寺のお嬢様やと思うとったら大きな間違い。田んぼはするし、天気のいい日は外に行って畑仕事。境内が広いから、お掃除、草抜き…。人を雇うとお金がいるでしょ? 今みたいにすぐシルバーさんに来てもらうとかいうのはなかったから、家族が自分の体で奉仕しよったわけな。

 それでも村の人の、今で言うたらボランティアかな、そういう人たちが「お寺のために」言うんで時々来ては手伝うてくれよりました。今はそういう人情いうんはありませんね。昔はあったけどね。昔は助け合ういうか、私たちの村のなんとかいうんであったけど、今はないですよね。人間みんな自己中心的になって殺伐としてね、人のことなんて思いやらんいうような世情になっりょるやろ。本当に今の世の中つまらない。本当に情けない。

雨が降ったら家族総出でうどんを作る

 おうどんは、私のところは法事とか仏事がある時、寄り合いがある時なんかに打ちよったわな。それから雨が降った時。雨が降ったら外の仕事ができんから。なんとてうちは、雨が降ったらうどん作っじょったな。こないだ兄弟に「ねえ、うどんってどんな時に打ってたかなー」って言ったら「雨が降った時よなー」って言いよった(笑)。それぐらい雨の日にうどんを打ってた印象が強いんよ。

 雨の日にね、父が「おうどんでも打つか?」言うて、家族を集めて仕事の分担をするわけね。家族は昔は一世代二世代、多い時は三世代おった。お爺さんお婆さん、お父さんお母さんと子供。私は子供の末の方で、七人おる兄弟の六番目。お爺さんとお婆さんは小さい時に亡くなったのね。だから今は二世代で住んでるんやけど。

 それで、父がメリケン粉やら水やら塩やら計って、団子状に練って地(じ)を作るわけね。生地を作る。塩水もね、天気によって塩梅が違うんですよ。四季によっても違うし。父が微妙なことを言ってましたわ。昔はグラムで計ったりしませんよね。昔の人はカンですよね。にがりがちゃんとある塩を使ってたからね。

 それからお団子(生地)ができたらゴザをひいて、その上に白い布をひいて、その上にお団子を置くわけね。それにまた布をかぶせてゴザをかぶせて、子どもたちが足で踏むわけ。しこしこと。布は木綿。あの時代は人絹(じんけん)やいうんはなくて、木綿しかなかった。木綿は天竺木綿いうて、本当に綿から作ったんよ。その方が水分もよく取れるし、踏んでも滑らんしね。

 で、父がその団子みたいなんを丸めて、また踏ませて。ほんでまた伸びるわな。伸びたら四等分にしてその分の一本をまた丸めて、それをまた子供が踏むわけ。踏んだら大きくなってグルテンが出て、粘りが出て来るんかな? それを麺棒で伸ばす。そこがめんどいんや。

 家族でする仕事だから、父がリーダーで「これこれあーせーこーせー」言うて手順を話してくれて、子どもたちはうだうだと歌も歌いながら足で踏んでね。強うなるで、足も。大根足になるで(笑)。今の女の子みたいな細い足が美しいと思うんやろうけど、私はなんちゃ美しいと思わん。細いばっかりで。やっぱ肉がついてないと。それに体力もつくしね。

 あと、今で言うたらコミニュケーションもとれる。親にしてみたら子供の性格もよく分かるし。「この子は持続性がある」「この子はすぐ足る(飽きる)」とかさ。全部分かる。だから子供の観察にもなるし、教育もそこでできよるからね。それが済んだら大きな釜にお湯沸かして、おうどん入れてゆがく。それを全部父がするわけね。私たちは足で踏むのが仕事。ほんで食べるんが仕事。

 父はこうやってうどんを切って、釜でゆがいて、水に出して。その時に、水に出したら絶対にね、温かいうちは手を入れないの。なぜかというと、手に脂がついとるやろ。その脂が出ておうどんがまずくなるから。もう絶対にうどんが冷たくなるまで手を入れない。冷たくなってからぬめりを取って、玉にする訳わけね。普通の玉やったら一キロから12〜13個できるかな。

 食べる時はたいてい生醤油か、イリコでとった薄いダシにお醤油を入れてかけうどんにして食べた。なにゆえか、家にはコブとかシイタケとかイリコがようけあったけど、お寺やけん、みんなにお精進で出さないかんけんな。お精進には魚とか肉とかそういうものはのけて、ダシもコブとかシイタケだけで作ってたと思う。まあ、特別な時やね。

振る舞いのうどんにはカラフルな天ぷらが付き物

 うちは山の上(カミ)ですが、下(シモ)から人が来たらうどん振る舞いよった。昔は縁日いうのがあったのね。1月の最終日に大護摩祭いうんがあるんやけど、願い事、病気平癒、家内安全、交通安全みたいなのを書いた札、護摩木っていうのに書いてはやすんですよ。「はやす」っていうのは焼くのね。おじゅっさんや先達さんがお経を上げながらね。その時は、本当に大勢の人がお出でてくださって。皆さん、今みたいに車でなくて歩いて来てるからね。お食事としてうどんをさしあげる。

 その振る舞いのおうどんには天ぷらがつきものやったね。さつまいも、玉葱、人参、ごぼう。衣に色粉を入れてね、青い衣の天ぷら作ったり、緑の衣の天ぷら作ったり。白いんばっかりでないんやな。それからかき揚げも。これに海老が入っとったら最高やな(笑)。おうどんの上にかき揚げが乗ってな、おつゆがかかっとったら最高や。ネギがあるだけで喜んでたような時代やからね。昔はそういうんを、法事や仏事や祝い事や、誰かが来たりした時にやっりょった。こんにゃくや高野豆腐も炊いてね。それが寺の仕事やったからね。よそからお参りに来てくれたら、必ず何か召し上がっていただく。

 お寺の中に、上(カミ)の台所と下(シモ)の台所という大きな台所があってね。上と下の二つの台所は隣り合っていて、合わせて体育館の半分ぐらいの広さがありました。上の台所は板の間で、そこにかまどもあって、主に食事の準備をするところ。食事の準備いうても、普通の家とはスケールが全然違いますよ。多い時には何百人と来ましたからね。今はもうそこまでお寺に人は来なくなってますけどね。

 下の台所は土間で、大きなかまどが三カ所ぐらいあって、主に下準備をするための場所。梅を漬けたりラッキョを漬けたり、瓶詰めを作ったり。台所のそばに小さい水車があって、その動力で大豆なんかを挽いて、大きな樽で味噌や醤油も造ってましたね。いつもかまどの番をしてくれる手伝いのおじさんがいてね、釜の前に座り込んで自分で火を操るんやけど、他の人が何かしようとしたら怒るんよ。釜が吹き出したから手を出そうとしたら「蓋取るな!」とか言うて。楽しかったよ。その時はご飯もあるし、おうどんもあるし。でも、おうどんはどない言うてもご飯の代用食やけんな。

あの頃はしんどかったけど、うどんは最高でした

 小麦とお米と大麦は家で作りよったけど、製粉はどこでしよったかな? 米を白くするんは家でしてたけど、製粉は下でしよったんかな? 製粉所いうんがあったん違うかい? そこへ父が小麦を持って行って製粉してもろて、また持って帰って。

 父といい、その時代の男はえらい目したなあ。今の男の人みたいにぼーっとしとらんわな。うちはごはん作るんから父が全部しよったよ。昼は田んぼして、亡くなった人がおったら下りていってお経上げて帰ってきてはね。

 し尿処理もね、今はみんな水洗で下水道に流しよるけど、あの頃は肥を桶にくんで大きな肥溜めに入れに行って、その肥溜めが発酵したら農作業の時に肥料にして撒いて、循環しよったんやな。それも全部父がしよった。うちは男の子がおらんかったからな。女の子ばっかりやったから、男は父しかおらんの。寺に男の人もおったんやけど、あの時代は男は兵隊にとられてしもうてな。

 お金はな、うちは普段、現金収入がないけんな。お経上げたらくれよった分を貯めといて、私ら子供の学校の月謝にしよったんちゃうかな。私は小遣いいうん知らんよ。小さい頃はお金いうん持ったことなかった。大学生になってやっとお金いうん知った。それまでは父が学校に月謝を払いにいっきょった。

 母ですか? 何か、ものを作る場面では母の存在いうんはあんまり記憶にないんですよ。うどんをする時にダシは母が作りよったと思いますけど、何かを作るのはたいてい父が中心。坊さんの時に修行積んでるからね。ごま豆腐も作るし、こんにゃくも作るし。何でもかんでも高野山で修行して作ってきてるから、こっちでも作るわけよ。こんにゃくも作っりょったんや。こんにゃく玉を自分ちの畑で作って。

 そういう自給自足の生活が子供の頃。しんどかったよ。親もしんどかったやろけど、子供もしんどかった。だから、あの頃からしたら今の生活は夢みたいな話や。今はお金出したらなんでもあるじゃない。簡単に手に入るけん、簡単に放るんや。

 まあ、昔はそれ以上のものがなかったからね。自分で作った小麦を製粉して、自分でうどんを作って食べるというのは、今思ったらすごく贅沢よ。今は誰が作ったやらわからん小麦のうどん食べよんやから。その時はしんどかったけど、

 あの頃でも、私は外でおうどんは食べたことなかったよ。自分ちで作ったのしか食べたことなかった。おうどんを外で食べたいうたら大阪で食べた学食や。ふわふわふわふわしてつるーんとしたおうどん。安かったけど、なんとまずいうどんであったことか。まあ自分ちで打ったものが必ずしもおいしいとは限りませんけど、あの頃のうどんは私にとっては最高でした。

●編集部より…萬谷君によりますと「書いてもいいよ」と言われたそうなので明かしますと、お話をいただいたお寺は、崇徳上皇の白峰陵と天狗の相模坊で知られる、あの坂出の白峯寺です。昭和20年代〜30年代あたりの山寺の生活と「うどん事情」が垣間見える貴重なお話をありがとうございました。

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