さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.36 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和53年(1978)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 36
  • 2021.03.01

本文キャッチ

この年、「讃岐うどん・弘法大師起源説」がほぼ確定する(笑)

 昭和53年の新聞に載った讃岐うどんの記事は、ほのぼのとした“小ネタ”がほとんど。うどん店やうどん関連企業の広告掲載本数も70本(前年94本)で、そのうちオープン広告は2本だけ(前年13本)に減り、何か全体的におとなしい年だったような印象です。そんな中で、讃岐うどんの起源についてこれまで出てきていた「奈良時代に渡来した唐菓子説」と「弘法大師が中国から持ち帰った説」について、ほぼ決着が付いたと思われる記事が出てきました(詳しくは本編で紹介)。では最初に、“ほのぼの記事”をいくつかまとめて見てみましょう。

「我が家の讃岐うどん」の投稿が2本

 まずは1月に、読者投稿のうどんネタが2本載っていました。

(1月7日)

コラム「わたしの町」・詫間町(藤田○○さん)

 (前略)…わが詫間町には、このように誇りとするところが多々ありますが、それよりも、もっと誇らしく思うことは、人情味豊かな点です。…(中略)…わずかの疲れやカゼで寝ていても、すぐ隣近所の人々がかけつけて来てくれます。「おかずが出来た」「煮込みご飯を作った」といっては持って来てくれます。欲しくなくても「食べないとだめ、温かいおうどんを無理にでも食べて寝れば治るから」と言ってうどん屋へ走り、出前の箱を持って走って来て、食べ終わったころにまた走って来て何くれとなく元気づけてくれます。(以下略)

 「疲れや風邪で寝込んでいたら近所の人がうどんの出前をとってきてくれる」という、今や消えつつある家族的なご近所づきあいのお話が投稿されていました。同じ詫間町で戦前に「病気で寝込んだら親が鍋を持ってうどん屋に行って、うどんを入れて持って帰ってきて食べさせてくれた」という話がありましたが(「昭和の証言」vol.86参照)、明治から昭和にかけて大阪を中心に「風邪を引いたらうどん」という慣習がありましたから、こんな話は詫間町に限らず県内各地であったかもしれません。

(1月8日)

投稿/うどん父さん

 父さんは2、3日うどんを食べないと「たまには、うどんが食べたいなあ」と、まるで3年も食べてないように言ってた。すると母さんは「それじゃあ、今夜はうどんね」と言って、すぐ近くの製麺所に走る。

 父さんは朝起きて、お弁当が入っているとがっかりする。会社での昼休みに、うどんが食べられないからだ。うどんと聞いたら目の色変える。三度の食事がうどんでも喜んでいる。特にカレーうどんとか、山かけうどんのようなのが好きだ。だけど「うどんは、あつあつでネギがたくさん入っていなくちゃあ。それが一番だよ」といつも言う。「手打ちうどんの店」なんてのが開店すると「待ってました」とばかりに、少々遠くても自転車で一人食べに行く。「あそこのうどん屋は、麺はうまいが味がもう一つってとこだなあ」。ふうふう言って帰ってくると、しきりに能書きを述べている。

 香川に転勤して6年目。「四国八十八カ所も残すところ、あとわずかになったよ」と自慢そうに話していたが「父さんはね、霊場めぐりよりも、各地のうどん屋へ入るのが楽しみで回っているのよ」と、母さんは笑っていた。どんな小さなお店でも「うどん」という看板がかかっていると、必ず一度は入ってみるそうだ。もともと、うどん好きではあるけど、これほどのうどん狂になったのは、やはり香川のうまいうどんに魅せられたせいだろうか。「讃岐うどんはうまいなあ」と言いながら、父さん、きょうも食べただろうか。あつあつうどん、汗いっぱいかいて。(高瀬町・S子・22)

 転勤族の方が、香川に来て讃岐うどんにハマったようです(笑)。讃岐うどん巡りブームが第一次ピークを迎えた2000年頃に、転勤族の支店長クラスの方々が趣味と実益(お付き合いとか情報収集とか)を兼ねて讃岐うどん巡りにハマるという話はよく聞きましたが、そういうパターンの歴史は相当古いみたいですね。それにしても「うどん好き」はたいてい「お父さん」で、「うどんにハマったお母さん」という話はほとんど聞きませんが、そのあたり、どなたか研究テーマにいかがですか(笑)。

うどんで「慰問」と「お接待」の話題が続々

 続いて、なぜかこの年、「うどんで慰問やお接待」の記事が6本も見つかりました。

(1月14日)

手打ちうどんに大喜び 老人ホーム七宝荘慰問(高瀬町生活改善クラブ連絡協議会)

 高瀬町生活改善クラブ連絡協議会(14クラブ加盟)のメンバーが13日、豊中町本山の三豊広域養護老人ホーム七宝荘で手打ちうどんの慰問を行った。昨年初めて同じ慰問をしたが、お年寄りから喜ばれたため再び訪れた。…(中略)…この日は約30人のメンバーに指導員らが、うどんとしょうゆ豆を持って午前9時すぎ同ホームを訪れ、大広間で元気のよいお年寄りも交えてさっそくうどんづくり。2時間余りかかって約500玉のうどんをこしらえた。このあと「釜あげ」にして全お年寄り125人と一緒に舌つづみを打った。

 高瀬町の生活改善クラブが豊中町の老人ホームを慰問して、うどん500玉を作りました。「うどんとしょうゆ豆を持って」とありますが、「2時間余りかかって」作った上に「釜あげにして食べた」ということは、持って行ったのは「うどん玉」ではなく、粉か生地だと思います。125人で500玉ということは1人4玉計算ですが、どんどん食べられる「釜あげ」だし、昔のご老人は“うどん豪傑”揃いでしたから、楽勝で行けますか(笑)。

(1月15日)

温かいうどん慰問(琴平署)

 琴平町内のうどん屋さんで結成している「こんぴらうどんの会(小河仲太郎会長)」は14日、「年末年始の交通取り締まりご苦労さん」と琴平署を訪れ、署員たちにこんぴらうどんを接待し労をねぎらった。この会は町内のうどん屋さんで結成しているもので、これまでも署員に温かいうどんで慰問している。特に同署は年末警戒に引き続いて正月は金刀比羅宮に初参りに訪れる人たちで町内が混雑するため、年始の交通指導に忙しい。14日は同署の招集日であり、56人の全署員が集まるため、うどん玉200個を持って慰問したもの。

 1月2本目の“うどん慰問”記事は、この数年よく登場する「こんぴらうどんの会」による警察署員への慰問。こちらはおそらく、ゆでたうどん玉を持ち込んで「かけうどん」で振る舞ったのだと思います。

(2月5日)

”福は内”はうどんで 金刀比羅宮東京分社、参拝客に接待

 「うどんを食べて福は内」とばかり、節分の3日、こんぴらうどんの会と県観光協会は東京・水道橋の金刀比羅宮東京分社で献麺式を行い、参拝客に手打ちうどん1500食を接待した。訪れた人は思いもかけぬもてなしに大喜び。二度三度と並んで打ちたてのうどんに舌つづみを打つ人も。讃岐うどんの試食会は観光・香川の良さを都会の人たちに知ってもらうキャンペーンの一環として催されているもので、今年で4年目。手打ちうどんの実演や道具類は、すべてこんぴらうどんの会の協力で地元から持ち込まれた。境内にテントを張った接待所では、ちょうど昼飯時とあって長い列ができ、観音寺市出身の落語家桂團枝さん(47)も接待役を務め、参拝客に盛んに笑いを振りまいていた。うどんを賞味した後、お土産用のうどん(1袋5人前400円)を買って帰る人の姿も目立った。

 これも恒例になった、「こんぴらうどんの会」と「県観光協会」による、金刀比羅宮東京文社での献麺式とうどんの振る舞いイベント。この年が4回目とのことですが、毎回コピペみたいな内容の記事です(笑)。

(2月5日)

手打ちうどんでお年寄りを慰問 善通寺・たけのこの会

 「タケノコのようにスクスク伸びる子供に育てよう」と、善通寺市内の婦人有志で結成している「たけのこの会」は4日、市立老人ホーム五岳荘を慰問。手打ちうどんを作ってお年寄りにプレゼントし、子供たちもお年寄りと話し合ったり肩たたきをするなどして喜ばれた。この会は中央小学校4、5年の児童を持つ母親13人で結成したもので、子供たちがスクスクと伸びるように話し合おうと「たけのこ」と名付けた。みんな集まっての話し合いの中で、「お年寄りを大切にする子供に育てよう」が話題となり、4日午前10時から、市立老人ホームを慰問したもの。会長の石井さんらは持ち寄った小麦粉15キロを使いさっそく手打ちうどん作りを始め、150玉のうどんを作った。これを48人のお年寄りの昼飯にプレゼントしたが、児童たちも放課後にホームを訪れ、お年寄りの肩たたきをするなどして慰問した。

 善通寺の婦人有志による「たけのこの会」が、同市内の老人ホームをうどんで慰問。現地で粉からうどんを作るという、なかなかの力の入りぶりです。

(2月9日)

寒さに負けないで 勤労学生にうどん接待(観音寺の婦人団体)

 「寒さにも負けず働きながら学ぶ高校生に温かいうどんを」と、観音寺市婦人団体連絡協議会は6日夜、観音寺一高の定時制の生徒にうどんの接待をして励ました。このうどんの接待は42年から毎年1回、寒さの厳しい冬に行っており、今年で12回目。この日は午後4時過ぎに7人のメンバーが学校を訪れ、食堂の料理場を借りて150人分の肉うどんを作った。出来上った午後6時過ぎにはおなかを減らした46人の生徒が食堂に集まり、女子生徒が配膳の手伝いをするなどして温かいうどんを味わっていた。日ごろは6時半過ぎてパンと牛乳の給食ですましている生徒にとって、温かいうどんは格別おいしいのか、何杯もおかわりをする男子生徒もいて喜ばれた。

 観音寺の婦人団体が観音寺一高の定時制の生徒にうどんの接待。この年で12回目だそうです。記事には「46人の生徒に150人分の肉うどんを作った」とありますが、うどんの数が多すぎるような(笑)。

(7月23日)

交通安全はスタミナから お巡りさん、ご苦労さま ドジョウ汁で慰問(綾南署)

 「毎日ご苦労さん、スタミナ料理で猛暑を吹っ飛ばして下さい」と21日、綾南町ボランティア協議会が、ドジョウ汁で綾南署を慰問した。同協議会の会員10人がドジョウ3キロなど材料を持ち込み、中庭に大ガマ2基をすえて料理、招集で集まった全署員が暑さを吹っ飛ばすスタミナ料理を食べた。同協議会の”ドジョウ汁慰問”は今年で4回目。「夏の交通安全運動中なので署員にスタミナをつけてもらおう」と慰問を続けている。会員たちは自分たちの持ち込んだサトイモ、アゲ、ゴボウを切り込んで煮込む。沸きたつカマにドジョウを入れ、ミソで味付けすると出来上がり。暑さでフーフーいっている時、出来たての大どんぶりをもらって署員は玉の汗。「どうも、長物は苦手」の署員もいたが、立ち食いのためもあってか、お替わりも早かった。

 さらに、綾南町のボランティア協議会が「ドジョウ汁」で綾南警察署を慰問。材料に「うどん」の文字は見えないので「ドジョウうどん」ではなさそうですが、これもこの年が4回目。当時はどうも、あちこちの警察署で“うどんの慰問”が行われていたようです。

「うどん作り学習」の話題が2本

 続いて、「うどん作り」の体験や学習が2本、記事になっていました。

(3月7日)

引きのばしに悪戦苦闘 閉講式兼ね「うどん作り」 大野原町の”ふるさと学級”

 大野原町のチビっ子を対象にした”ふるさと学級”で、このほど町福祉センター調理室で閉講式を兼ねて「うどん作り」を行った。学級生ら約50人は婦人会のお母さん方の手ほどきで、うどん粉練りや引き伸ばしに慣れぬ手つきでハッスル。思ったより力のいる作業に四苦八苦の連続だった。同学級では”手作りの楽しさ”を年間テーマに、子供たちに創造の喜び、物を大切にする心を育ててきた。これまでにも手作り紙芝居やお年寄りからのわらじの作り方を学んでいる。この日のうどん作りには婦人会のお母さん7人が指導役。うどん粉は市販の1キロ入り(約10人分)のものを使用し、各班約7、8人ずつに分かれて、ビニール袋に入ったままのうどん粉に水を加えて足で踏み込んで練り上げた。練り上がったものは打ち板の上に乗せ、めん棒で薄くのばす。不慣れなチビっ子たちは思うようにいかず、厚い所や薄い所もできたが、それでも楽しさいっぱいの表情だった。

 婦人会の7人のお母さん方が、大野原の約50人の子どもたちにうどん作りを体験させていました。“チビっ子”たちも“ハッスル”していたそうです(笑)。

(8月2日)

家でも作りましょ 高瀬・二ノ宮で家庭学習、手打ちうどん学ぶ

 高瀬町二ノ宮地区の家庭教育学級生がこのほど手打ちうどんの作り方教室を開き、出来上がったうどんを二ノ宮幼稚園の園児たち60人に試食してもらった。手打ちうどんの作り方教室には、学級生50人が参加。宮崎茶葉組合総務部長からうどんの作り方、コツなどについて指導を受けた後、小麦粉約60キロを使い、手練り、足ふみ、麺棒で延ばした後、細く庖丁で切り、熱湯でゆであげ、おいしい手打ちうどんを作った。子どもたちに1人1玉ずつ試食してもらったところ、おかわりを言う子供が半数近くも出て学級生たちを喜ばせていた。同家庭教育学級ではこれまで社会教育についての講演や学習が中心だったが、「実生活に役立つ学習を開いては」という意見、希望が多く出たため、初の手打ちうどん教室となった。ほとんどの学級生が初めての手打ちうどん作りとあって、慣れない手つきでうどん作りに汗を流したが、みんな楽しそうな表情だった。

 続いて、高瀬町の「家庭教育学級」の生徒さんたち50人がうどん作りを体験し、できたうどんを二ノ宮幼稚園の園児たち60人に振る舞いました。家庭教育学級」の生徒さんたちの年齢層は不明ですが、こちらは“ハッスル”せずに“楽しそうな表情だった”とのことなので、分別のついた大人かもしれません(笑)。

前川県知事が「讃岐うどん空海持ち帰り説」と「うどん店3600軒」を発言

 昭和49年に金子知事を破って香川県知事に就任した前川知事が、岩手県知事との対談で「讃岐うどん」の歴史や現状に触れていましたが、そこで「讃岐うどんの起源」と「うどん店の数」についての発言がありました。

(2月19日)

対談記事「ふるさと知事談義シリーズ」(岩手県知事・千田正氏、香川県知事・前川忠夫氏)

(前略)……
前川 さぬきうどんは弘法大師が唐からその製法を伝えたといわれてますが、現在のようなうどんの形が出来上がったのは江戸時代で、約250年前に書かれたこんぴら参詣の風俗画の中に描かれているのを見ても歴史は古いですね。特に最近は全国的に有名になったようです。昔は香川県は非常に良い米、麦がとれた国なんですが、讃岐の小麦でさぬきうどんというのが定説ですが、だんだん麦が作られなくなりましてね。さぬきうどんとはいえ、原料はほとんど輸入小麦です。これが非常に残念で、近年、米は作付け制限と、その裏作に麦を作れという国の方針に沿って小麦をうんと作ってもらって、さぬき小麦でさぬきうどんと、名実ともに「さぬきうどん」にしたいと思って努力中です。今、作付面積は1000ヘクタールくらいですが、これを10倍の1万ヘクタールぐらいまでもっていきたいと、国の補助金の上に県費でも補助金を出して、モデル地域を拡大していきたいと思っています。

 讃岐人は、1日に一度はうどんを食べないと腹のムシが治まらないというほどで、県内には製麺業者が650軒、うどん屋が3600軒ほどあります。うどんの特徴は「土三寒六」というように気候に応じた微妙な塩加減に秘伝があり、割りばしぐらいの太さに刻んでゆであげ、腰の強いさぬきうどんが出来上がるのですよ。食べ方としては、うどん通はゆで上がったうどんを冷水にさらしてどんぶりに取り、生醤油(きじょうゆ)ですすりこむと喉ごしの感触がたまらないと言いますね。他には、濃口のつけ汁ですする「釜あげ」、薄口ダシをたっぷりかけて食べる「素(す)うどん」などは素朴な味わいがあります。豪華版は「鍋焼きうどん」「源平鍋」のような寄せ鍋のようなものもあります。一般家庭では年越しそばに代わる「年越しうどん」で、野菜や豆腐の煮たものをうどんにかける「しっぽくうどん」、うどんをゆでずに味噌汁とともに煮込む「打込みうどん」などは讃岐(さぬき)の田舎の味ですね。(以下略)

 まず「讃岐うどんの起源」については、四国新聞紙上ではこれまで「奈良時代に中国から渡来した唐菓子説」と「弘法大師が唐から持ち帰った説」の2つが出ており、最初は「奈良時代渡来説」が主流だったのですが、次第に「弘法大師持ち帰り説」が台頭してきた、という経緯があります。それがここにきて、前川知事が「弘法大師が唐からその製法を伝えたといわれている」と発言しているのを見ると、昭和52年時点では「奈良時代渡来説」は「弘法大師持ち帰り説」にほとんど駆逐されてしまったように思えます。そのあたりの推移について、ここでもう一度経緯を整理してみましょう。

●昭和44年「奈良時代渡来説」………「うどんの歴史は遠く奈良時代に中国から渡来した唐菓子だといわれ」(東京の讃岐うどん店の掲示板)
●昭和44年「奈良時代渡来説」………「文献によれば、うどんは奈良朝時代に中国から伝わった唐菓子の一種である」(河西新太郎)
●昭和45年「奈良時代渡来説」………「うどんの歴史は古く、遠く奈良時代に中国から渡来した唐団子だといわれる」(佐々木正夫)

 まず、昭和45年までは、新聞には「奈良時代渡来説」しか登場していませんでした。その根拠らしいものは詩人の河西新太郎さんが「文献によれば」と書いていたその「文献」ですが、それが何の文献なのかが提示されてないので、これだけでは根拠は特定できません(「文献によれば」とか「物の本によると」等とぼかして書かれたものの多くは“伝聞”に過ぎなかったりしますが・笑)。ちなみに、四国新聞に載っていた河西さんのこの文章は同年に出版された山田竹系著『随筆そばうどん』の書評の中の一文ですが(「昭和44年」参照)、竹系さんは昭和44年に発刊されたその『随筆そばうどん』の中で、讃岐うどんの起源については全く触れていません。

●昭和48年「弘法大師持ち帰り説」…「讃岐の手打ちうどんの始まりは弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」(四国新聞)
●昭和49年「奈良時代渡来説」………「歴史は古く奈良時代に遡り、唐から渡来した菓子の一種だった」(四国新聞)
●昭和50年「弘法大師持ち帰り説」…「さぬきのうどんは、お大師さんが唐から製法を持って帰ったと言われてますナ」(屋島のうどん店店主)
●昭和50年「奈良時代渡来説」………「奈良時代に渡来した唐菓子の饂飩はさぬきの風土にはぐくまれ、名物“さぬきうどん” となった」(四国新聞)

 そして、昭和48年に四国新聞が記事の中で、唐突に根拠も示さず「弘法大師持ち帰り説」を出してきました。これが「弘法大師持ち帰り説」の初出です。しかし、四国新聞は翌49年に「奈良時代渡来説」を再び持ち出し、続いて昭和50年の記事(2つの文は同じ記事の中に出ていたものです)ではうどん店店主が「弘法大師持ち帰り説」を出し、四国新聞がすぐさま「奈良時代渡来説」を併記。しかし、翌50年には、仮説の形を取りながらも新聞はまたまた「弘法大師持ち帰り説」を持ち出してきます。このあたり、両説の勢力は一進一退です。しかし、拮抗していたのもここまで…

●昭和51年「弘法大師持ち帰り説」…「弘法大師が唐へ留学した帰りに持ち込んだものだという説をとれば、約1200年の歴史をもつ食べ物といえる」(四国新聞)
●昭和53年「弘法大師持ち帰り説」…「さぬきうどんは弘法大師が唐からその製法を伝えたといわれてます」(前川忠夫)

 昭和51年以降、「奈良時代渡来説」は「弘法大師持ち帰り説」に駆逐されたかのように出てこなくなりました。ちなみに、昭和52年に『随筆うどんそば』の第2弾が発行されましたが、その中で山田竹系さんはついに讃岐うどんの起源について言及されていました。

山田竹系著『随筆うどんそば』(昭和52年刊より)

 「さぬきうどん」の起源とか沿革や歴史としてまとまったものはないというのが本当だろう。弘法大師が「さぬきうどん」の創始者だということは、もはや疑う人はいないくらい有名になったが、それとて確たる証拠はない。しかし、大師が郷里の讃岐の農民に「うどん」の作り方を教えたであろうことは容易に想像できるし、大師とうどんを結びつけても決しておかしくはない。だから誰の反対もなく、何の抵抗もなく大師説が取り入れられ広まっているのである。

 讃岐善通寺市生まれの弘法大師は、三十一歳の延暦二十三年(八〇四年)の十二月、遣唐使藤原葛野麻呂に従って留学僧として九死に一生を得て入唐し、翌年長安の都に着き、三年間仏教の勉強して帰国したが、何しろ抜群の頭脳の持ち主であった大師のこととて、当時唐で盛んに作られていたという「うどん」の製法を身につけたのは当然と言えよう。…(中略)…したがって、これにはいろいろな説も伝えられている。(以下略)

 竹系さんによると、昭和52年頃には讃岐人の間では「弘法大師がさぬきうどんの創始者であることはもはや疑う人がいない」という状況にあったそうです。そして、竹系さんも「確たる証拠はなく、いろいろな説が伝えられている」としながらも、「奈良時代渡来説」には言及せずに「弘法大師持ち帰り説」の方だけを紹介していました。

 ところが、竹系さんが「諸説ある」としていたにも拘わらず、この年(昭和53年)、香川県と県の観光協会が「弘法大師持ち帰り説」を断定するかのような文章を広告の中に載せていました。それは、7月2日の半夏生の日に香川県と県観光協会が協賛広告の形で出した「うどんの日」の全ページ広告の中の、「さぬきうどんの歴史」という文章。

昭和53年広告・観光協会・うどんの日

 紙面左上の文章を再掲すると、こういう内容です。

讃岐うどんの歴史
讃岐・善通寺で生まれた名僧、弘法大師は、三十一歳の時、延暦二十三年年(八〇四年)の十二月、留学僧として唐に渡った。そのころ唐では餛飩(うんとん)というものが盛んに作られ、それはいまのような長いうどんではなく、早くいえばダンゴのような型であった。翌年、大師は長安の都に着き三年間の仏教の勉強の後、帰国した。讃岐に帰った大師は、当時すでに栽培されていた讃岐三白の一つである小麦を原料として農民たちに唐のうんとん製法を生かした今のうどん製法を伝授し、乏しい農家の食量事情を救ったという。このように、いまから一千年以上も昔に伝えられたうどんは、祖父が残して、祖母に伝え、祖母から父母に引き継がれて今、「名産さぬきうどん」として深く讃岐の人々の生活の中に生きている。
(資料)山田竹系著・随筆「うどんそば」より

 末尾に(資料)として上記の山田竹系さんの文章を抜粋したことが記されていますが、比べてみると「確たる証拠はない」「いろんな説も伝えられている」という内容がカットされ、「弘法大師が唐から餛飩を持ち帰った」ことが断定的に書かれています。県が天下の四国新聞でここまで断定的に書いてしまったら、これはもう「正解」になってしまいます(笑)。しかも、讃岐人は「何かわからないことがあると空海のせいにしておけば安心する」という“あるある”を持っていますから、なおさらです。

 というわけで、「讃岐うどんの起源論争年表」に、

●昭和53年…「奈良時代渡来説」が滅亡し、「弘法大師持ち帰り説」が天下を獲る。

と記しておきましょう(笑)。

 次に、「うどん店の数」について、前川知事の発言を加えて新聞に載った記述の推移をまとめると、こうなりました。

<昭和47年>「香川県内にはうどんを食べさせる店が2000軒もあるといわれる」(佐々木正夫)
<昭和47年>「香川県下にはうどんが食べられる店が2200軒ほどある」(山田竹系)
<昭和49年>「県内に2000軒以上もあるといわれるうどん屋さん」(佐々木正夫)
<昭和50年>「県内にはうどん屋さんが3600軒もあるそうだ」(佐々木正夫)
<昭和51年>「県下にうどんと名の付く店は3000余」(四国新聞)
<昭和52年>「県内のうどん屋さんは、ざっと4000軒、卸しも370軒」(四国新聞)
<昭和53年>「県内には製麺業者が650軒、うどん屋が3600軒ほどあります」(前川忠夫)

 さらにもう一本、別のコラムに高松市内のうどん店の数が出てきたのですが…

(4月1日)

連載「汽車よゆっくり走れ」/「青い国」の表玄関・高松駅 うどんに旅の味

(前略)…高松は言うに及ばず県下では、スパゲティならぬ讃岐名物の手打ちうどん。すでに連絡船に、うどんコーナーの出店。高松駅構内のうどんの立ち食いも旅行客に好評。荷物にならぬ「舌の土産物」。讃岐人に言わせると「舌でなくノドで味わうもの」とくる。うどんの味では県民、市民すべて評論家。高松市内だけで、うどんの店は2000軒を超えるという。喫茶店、スナックでも、うどんが出る土地柄だ。

 「土三寒六」というのが、古くから伝えられているうどんづくりのコツ。暑い季節は塩水1に真水3、冬季は真水6の割合で小麦粉をこねる。味と理論は別物らしい。粉をねり、踏み、のばし、ゆであげるにも年期がいる。昔は嫁入り道具に麺(めん)棒、こね板を持参したという。うどんの普及向上は讃岐の農家の狭小な耕作面積のせい、とみる人もいる。当然、二毛作で集約農業。米とともに小麦が主食化の傾向をたどる。とはいえ「うどんは別腹」と食事後でも2、3杯を平らげる好き者は少なくない。(以下略)

 「汽車よゆっくり走れ」というタイトルの連載コラムの中に、「高松市内だけでうどんの店は2000軒を超える」という記述が出てきました。ちなみに、筆者は2000年頃にスタッフたちと毎年香川のうどん店数を数えていましたが、そのデータによると、高松市内のうどん店数は大体いつも全県総数の35%前後でしたから、その比率をそのまま当てはめると、ここに書かれた「高松市内で2000軒」は、全県に換算すると約5700軒(!)になります。すごい新記録が出ましたが、どうしましょう(笑)。以前にも紹介した通り、2000年頃に筆者が数えた時には、香川県内のうどん店の数は700軒前後しかなかったのですが、一体何が起こっていたのでしょうか。

 あと、対談記事中の前川知事によると、この頃の讃岐うどんは「原料はほとんど輸入小麦」であり、「さぬき小麦でさぬきうどんを作って、名実ともに“さぬきうどん”にしたいと思って努力中です」とのことです。2000年に県産小麦「さぬきの夢2000」が発表されましたが、「県産小麦で讃岐うどんを」という動きはこの頃から行政トップレベルで話題になっていたようです。

小さな話題が5本

 ではここから、ランダムな内容のうどん関連記事を時系列で追ってみましょう。まずは5月、おなじみの物産展の記事から。

(5月12日)

”讃岐の味に人気” 全国郷土の観光と物産展(東京)

 全国各地の特産品と観光ポイントを都会の人たちに紹介する「全国郷土の観光と物産展」が東京・日本橋の三越本店で開幕、香川県下からもうどん、つくだ煮など食料品を中心に約20品目が即売され、ふるさとの味を通じて都会人の郷愁を誘った。会場には北海道から沖縄まで東京都を除く46道府県がコーナーを設けて特産品を展示販売。香川は四国4県が隣接するコーナーで”讃岐の味”をアピール。涼味をそそる手延べそうめん、うどん類をはじめカマボコ、菓子類、瀬戸の珍味などが客足を止めていた。買い物客はじっくり各県コーナーを見て回り、試食で風味を確かめて買う姿が目立った。特に香川コーナーではそうめんやオリーブ油、郷土名菓などに人気が集まっていた。会期は14日まで。

 当然「うどん」は顔を見せていますが、これまでの「実演が大人気!」「お土産うどんが飛ぶように売れる!」的な記事の勢いはなくなっています。

(5月17日)

好評です 讃岐うどんのコンテナ輸送

 国鉄コンテナを利用して讃岐うどんの都市向け発送量が増えている。貨物輸送が減少傾向にある国鉄で「戸口から戸口まで…」をPRするコンテナ輸送はなんとか前年を上回る実績を残しているが、その中で特に讃岐うどんを積んだコンテナは前年を4割も上回る好成績で、関係者はホクホク顔。「観光宣伝にも讃岐うどんが使われているほどで、需要は高まるばかり。今年度も輸送量は増えること間違いなし」という。

 国鉄高松駅のまとめによると、52年度に発送された讃岐うどんはコンテナの数にして750個。対前年比で200個、約4割の増加。1個のコンテナには20~30キロ入りケースが約650個も積めるだけに、すさまじい。ちなみに東京向けの輸送量は、1日平均1万9500食。急増の原因は、引っ越し専用のイメージが強いコンテナが、国鉄の輸送増収作戦の一つとして「うどん輸送」をPRしたことと、本場讃岐の味としてPRの行き届いた讃岐うどんの需要が都市部を中心に高まっていることが挙げられる。

 とりあえず国鉄のコンテナによる「うどん輸送」が増えたそうですが、この頃の国鉄は慢性大赤字体質の末期で、すでに「輸送増収作戦」を始めてもどうにもならないくらいの経営状況にありました(国営鉄道ですから胸を張って“経営”とは言えませんが・笑)。国鉄の民営化は、ここから9年後の昭和62年です。

(6月7日)

涼風の中で川魚料理 黒川温泉周辺(白鳥町)

 国道11号線を高松方面から向かうと、湊川を渡って2つ目の信号が国道318号線の入口。ここを右折、最初の橋が藤井橋。涼味満点のたらいうどんが楽しめる所。夏場だけの営業だが、川沿いの岩場を巧みに利用、60人は座れる大小の桟敷が組まれ、川面を渡る涼風の中でうどんのほか、アマゴ、ウナギなどの川魚料理も味わえる。(以下略)

 恒例の白鳥の「夏のたらいうどん」の記事。「黒川温泉周辺」とありますから、この「たらいうどん」はやはり特定の店で行われていたのではないようです。

(6月13日)

連載「電車よゆっくり走れ」/琴電長尾線長尾駅

(前略)…長尾寺の山門から東へ100メートル、長尾名物「ドジョウ汁」のノレンが目に入る。生きたドジョウを塩でしめて、酒と油でいためて煮る。このダシに手打ちうどんを入れ、ミソで味つけしたのがドジョウ汁。鴨部川流域の農家が半夏の料理としていたのが広まった。ドジョウのエキスを十分に絞ったミソ汁のコクが抜群。夏場がシュンのスタミナ料理だ。(以下略)

 先に「汽車よゆっくり走れ」というコラムが出てきましたが、まだ香川県内の国鉄が電化していないので高松駅は「汽車」、そして琴電長尾駅は「電車」です。前出の「綾南警察署を慰問」の記事中でうどんの記述のないドジョウ汁が出てきましたが、こちらは「ドジョウの入ったダシにうどんを入れて味噌で味付けしたのがドジョウ汁」とあります。これまでの記事に出てきたドジョウ汁は「うどん入り」が主流ですが、「ドジョウうどん」と「ドジョウ汁」、昔も今も表記は少々曖昧です。 

(9月17日)

連載「ショッピングガイド・うちの店」 野田屋(長尾町多和)

 県道長尾街道から南へ約15キロ、阿讃県境の山深い里、四国霊場八十八番結願所の大窪寺境内にあるのが”うちの店”野田屋です。…(中略)…1階はみやげものと食堂。2階には和風の喫茶室と団体客用無料休憩所があります。みやげものには、田舎こんにゃく、クリ、マツタケ、その他お四国さんにちなんだおみやげを揃えています。

 食堂は個人客やお遍路さんなどがくつろげるよう、落ち着いた雰囲気にできています。たらいうどん(250円)、山イモをソバに練り込んだうちの店の独特のソバ(300円)、年間通して食べられる”秋の味覚”の代表格「栗めし定食」(600円)、「うどん定食」(400円)が当店自慢のメニューです。その他、100円玉1個で一服”手づくりの味”が舌うちできる「あま酒」も自慢の一つです。(以下略)

 お店の人が自分の店を紹介する連載コーナーに、大窪寺に隣接する「野田屋」が載っていました。現在の代表メニューの一つである「打ち込みうどん」の名はなく、お店からは「たらいうどん」が一番に紹介されています。

うどん関連広告は、量も内容も小康状態

 では最後に、いつものように広告の状況をまとめてみましょう。まず、昭和53年の四国新聞に載っていたうどん関連の広告は70本。ここ数年の広告本数推移は、

●昭和50年…85本
●昭和51年…62本
●昭和52年…94本
●昭和53年…70本

となっていて、前年より減ったものの、ここ数年で見れば特に増減の傾向は特定できません。広告を出していたうどん店、うどん関連企業・団体の内訳は以下の通りです。

<県内うどん店>

(7本)…「さぬきうどん」(高松市栗林公園前、他)
(5本)…「久保製麺」(高松市番町)
(4本)…「番丁」(高松市県庁裏門前、西宝町店、天神前店)
(3本)…「いずみや」(高松市常盤町・ダイエー地下味の街)
     「さぬき麺業」(高松市松並町)
(2本)…「かな泉」(高松市紺屋町、他)
     「さぬき一番」(高松市兵庫町)
     「古里うどん」(高松市春日町・ホームセンターやしま内)
     「わら家」(高松市屋島中町)
(1本)…「いわくら」(高松市内町)
     「更科」(高松市ライオン通)
     「宗平そバ」(高松市寿町)
     「すゑひろ」(高松市中野町)
     「どんとん」(高松市瓦町)
     「なかむら」(高松市太田上町)
     「花車」(高松市元山町)
     「松下製麺所」(高松市中野町)
     「丸川製麺」(高松市中野町)
     「めん坊」(高松市三谷町)
     「桃山」(高松市勅使町)
     「山鹿」(高松市内町)
     「ゆたか」(高松市松島町)
     「野田屋」(長尾町)
     「トミタ」(香南町)
     「さぬき庵」(坂出市)
     「やしろ」(丸亀市、坂出市)
     「入り船」(綾南町)
     「西部ガーデン・手作りうどん」(善通寺市)
     「こんぴらうどん」(琴平町)
     「いちばん」(高瀬町)

<県外うどん店>

(3本)…「松野たらいうどん」(徳島県土成町)
(2本)…「さぬきめん坊」(京都市中京区)
(1本)…「たらいうどん御所温泉」(徳島県土成町)
     「玉藻」(東京都新橋)

<県内製麺会社>

(2本)…「民サ麵業」(高松市勅使町)
(1本)…「麺房日根」(大内町)
     「合田照一商店」(豊浜町)

<その他県内うどん業界>

(3本)…「さぬき麺機」(高瀬町)
(1本)…「日清製粉坂出工場」(坂出市)
     「斉藤機械」(豊中町)
     「鎌田醤油」(坂出市)
     「香川県包装麺組合」
     「高松製麺協同組合」

うどん店のオープン広告は3本だけ

 昭和53年にオープン広告を出したうどん店は、2月17日オープンの「めん坊」(高松市三谷町)と6月15日オープンの「いわくら」(高松市内町)、9月24日オープンの「野田屋」(長尾町)の3軒だけでした(前年は9軒)。

昭和53年広告・めん坊OP

昭和53年広告・いわくらOP

昭和53年広告・野田屋OP

(昭和54年に続く)

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