さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【松下製麺所】
高松市の中心街で50年近くの歴史を刻む“町の製麺屋さん”の歴史がここにある

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 2
  • 2015.11.24

第二話

松下製麺所・中編

<昭和41年〜昭和50年頃>

伊賀製麺所を引き継いで「松下製麺所」がスタート

ーー 「松下製麺所」になったのは、どういう経緯ですか?

製麺スペース。

製麺スペース。

大将
伊賀さんのところで配達を手伝っている時に、奥さんに「製麺屋をやるのなら店を譲りますよ」と言われたんです。手伝いに行っていたのは半年かそこらだったから、ほんと、行き始めてすぐの話です。やっぱり女手一人で切り盛りするのが大変だったんでしょうかね。それで、僕は当時独り者だったし、それならやってみるかと思って。親父が伊賀さんから営業の権利を買ってくれて、当時のお金で50万円くらいでしたか、それで昭和41年に伊賀製麺所を引き継ぐ形で、「松下製麺所」として製麺業を始めたんです。

最初はいろいろ苦労がありましたね。何しろ、僕が伊賀さんのところで手伝いをしよったのは配達が主やから、うどん打ちの修業をしたわけではないでしょ。だから、最初は見よう見まねで覚えていることを一生懸命やっていただけでね。卸先は伊賀製麺所の取引先を引き継いだんですが、「松下」言うてもわかってくれんところがあったから、最初のうちは「伊賀」の名前をそのまま使っていた得意先も何軒かあったんです。そしたら「今までのうどんと違う」言われて、どれだけ文句言われたことか(笑)。

うどん作りの工程は、言うたらうどん粉を塩水で練って延ばして切って茹でるだけだから簡単なんだけど、その工程工程で塩加減やら延ばし加減、寝かし加減、茹での火力とかいろいろあるでしょ。そこをちゃんと習ってないもんだから、それからもう試行錯誤の連続で、先輩の製麺屋さんといろいろ話をしたり教わったりして、何とか「うどん」の形になってきたようなものです。

それで3〜4年、“伊賀製麺所の引き継ぎ”みたいな形でやっていたんですが、僕が昭和44年に結婚して、まあ何となく「松下製麺所でちゃんと店を構えないかん」と思って、中野町で土地を買って家を建てて、昭和45年の1月1日に今のこの場所の「松下製麺所」が始まったんです。あの頃、伊賀製麺所を引き継いでから今の中野町の店にするまでに1000万円ぐらいの借金ができました。何しろ元手がないから農協でお金を借りたんだけど、20歳過ぎの僕に100%融資で貸してくれました。まあ、峰山の土地もあったし、親父も兄貴もちゃんと働いていたからその辺の信用もあったんだろうけど、農協さんのおかげでずいぶん助かりました。

でもね、本音のところでは、ずっと「こんなしんどい仕事は早よ辞めたいなあ」と思いながらやってたんです(笑)。だいたい僕はそれまで高校を出て遊びよった人間ですから、それがサラリーマンとかでなくていきなり重労働のうどん屋でしょ。そらもう、天と地の差があるみたいな毎日になったんだから。でも結婚して子供もできたから、生活のためには辞めるに辞められない。もちろん、勝手に辞めて得意先に迷惑をかけるわけにもいかん。それで1日1日やってきた積み重ねが、もう50年近くですわ。

たくさんの製麺所が棲み分けてやっていた時代

ーー 昭和45年に今の場所で「松下製麺所」になってからの、営業の様子を教えてください。

開業当初から活躍している攪拌機。

開業当初から活躍している攪拌機。

大将
さっき言うたように、卸し先は伊賀製麺所さんの得意先の引き継ぎがベースだから、県庁生協が一番多くて、あとは大衆食堂とか喫茶へ卸したり、八百屋さんとかよろず屋みたいなところに卸したり。あとは個人で買いに来る近所の人に玉売りしたり。たくさんのお店にお世話になったのですが、もうずいぶん昔の話なので、配達先はだいぶ忘れましたねえ。あ、そう言えば中央病院の西に簡易保険局があって、そこの食堂にも卸しに行ってたなあ。飲食店では、栗林公園の向かいにあるレストランとお土産の「水車」にも卸してました。

あと、八幡通にあった「草原」という喫茶、香川大学の東側にあった「エーワン」という喫茶。中央公園のそばの成豊堂の向かいに「さるみの」いう和菓子屋があって、その2階が喫茶だったんだけど、そこが「アズマヤがうどん出しよるからうちも出そうか」言うて、そこにも卸しに行ってたことがある。昭和50年前後かな、他にもたくさんのお店に関わっていました。残念ながら店の名前はほとんど覚えてないけど、当時、高松の中心部には「うどんを出す喫茶店」が結構たくさんありましたよ。

「アズマヤ」にも少しだけ入っていたことがあります。そこは伊賀さんの時代からの引き継ぎではなくて、僕がいろいろ行きよる間に友達の紹介とかがあって行き始めたんです。ただし、僕は従業員の食べるうどんをちょっとだけ納めていただけですけど。アズマヤが店で出すうどんは、近くの「源芳」さんとか「わたや製麺」さんがメインだったと思います。当時の高松の旧市内は飲食店も多かったけど、製麺所もたくさんあって、“縄張り”みたいなのもかなり厳しい時代だったので、僕らみたいなのが割り込んでいったら反発がすごかったんですよ。

まあいずれにしても、当時はとにかく有名メーカーの力が強かったのは覚えています。うどん玉の卸の単価を値上げする時なんか、他の製麺屋は有名メーカーがいつ頃いくら上げるかを待って、みんなそれに従っていましたから。組合で、有名メーカーが中心になって「旧市内は単価をいくら、新市内はいくらにしよう」とかいう話し合いは何度もありましたよ。もちろん、表立った大っぴらな談合ではなくて、あくまで意見交換ということで(笑)。まあ昔の話ですからね。それでもいい時代でしたから、みんなうまく棲み分けして、大きな問題もなくやっていたと思います。

「年末には5000玉くらい、とにかく根性で作っていました(笑)」

ーー 当時、松下製麺所の営業規模はどれくらいだったんですか?

茹で釜と、年季の入ったかき混ぜ棒。

茹で釜と、年季の入ったかき混ぜ棒。

大将
そうやねえ。ここ(中野町)で始めた頃は1日4体、玉数で言うたら1000〜1200玉ぐらいですか。年末は年越しで5000玉とか作っていました。手伝いの人はいましたけど、基本的に家族で回してました。玉数が増えたら、仕込みの時間を早くするだけです。とにかく早く起きて必死でたくさん練って数を作る。あとは釜の大きさだけです。釜を大きくするか、釜の数を増やしたら、茹でる玉の数はその分増えるからね。うちは伊賀製麺所を引き継いだ時から県庁生協とかの得意先があったでしょ。だから、最初からある程度の釜を備えてたから、あとは僕と妻がどれだけ頑張るかだけ。まあ、それぐらいの根性は持ってなかったらうどん屋はできません。普段は見た目、ボサーッとしとるけど(笑)。

昭和45年からしばらくはそんな感じで、納めていた飲食店や喫茶店もそれなりに景気がよくて、閉めてもすぐその後に居抜きで別の店が入ったりして、卸先が減ることはほとんどありませんでした。ここで始めた頃は、卸しが1玉6円〜8円、小売が10円くらいで、うちもまあまあ十分食べていけるくらいの売り上げはありました。そうこうしているうちに昭和48年にオイルショックが来て、54年にもう一回オイルショックが来て、その間に1玉20円にポンと上がって、あれよあれよという間に40円に上がった。

それでも、生活はそんなに苦しいという感じではなかったように思いますね。玉売りの製麺所というのは、お客さんに食べさせるうどん屋をするより仕事がシンプルですからね。ダシを作ったり具材を作ったり、接客やら残飯処理やらといった手間がないから、得意先さえしっかり確保しとったら利益もそれなりにあったんです。消費税もなかったし、今みたいに社会保障のお金をあちこちで取られることもなかったし。子供もまだ小さかったからお金もかからんかったし。

だから、ただうどんを作って、納め先のお客さんに迷惑をかけないように真面目にやってたら、生活に困るようなことはなかった。それがまあ、今はいろんな税金や社会保障費の種類も金額も増えてしまって、何か、僕ら商売しよる者は「社会保障の充実、充実」言うたびに苦しくなっていきよるように思うんだけど(笑)。

ASWが出てきて仕事がずいぶん楽になった

さて、昭和40年代の讃岐うどん業界は「ASWへの一大転換期」「足踏み禁止騒動」「“高松砂漠”の大渇水」など、ブーム以前の時代の中ではかなり話題の豊富な10年でした。そんな時代を高松市街地の中心部で体験してきた大将に、記憶を辿ってもらいました。

ーー 昭和40年代のエピソードで、何か記憶に残っていることがあれば教えてください。

この生地を一つずつ手作業で菊練りします。

この生地を一つずつ手作業で菊練りします。

大将
40年代はいろいろあったね。特に、ASW(オーストラリア産の小麦粉)が出てきてから、仕事がずいぶん楽になった。それまでは県内産か国内産だったんだろうと思うけど、朝に作った生地が夕方まで持たんのですよ。うちはその頃、朝に作ったうどんを配達して、夕方も鉄工所の残業用とかでうどんを作っていたんですけど、朝の生地を夕方うどんにしようと思ったら生地が悪くなっていて、もう一回最初の工程から団子を作り直さないとちゃんとしたうどんにならなかった。やっぱりタンパク質が弱かったのかな。生地のへたり方が早かったですね。

それが、粉がASWになってからは、朝の生地を夕方使っても大丈夫になった。あれは製麺所にとってはすごく楽になりましたね。粉の吸水力もよくなって、それまでは例えば1つの団子で20玉取れなかったのが、ASWになってからはちゃんと20玉取れるようになったとか。あれは粉が変わったことと、製粉会社さんの努力の賜やと思う。僕は、今の讃岐うどんが旨いのは製粉会社さんのおかげがすごく大きいと思っとるんや。

うどんの足踏みを守ってくれたのは金子知事?!

ーー うどんの「足踏み禁止」騒動があったのも昭和40年代だと聞きましたが。

こんな感じで丸めて作ったのが、奥に3つ見える団子。

こんな感じで丸めて作ったのが、奥に3つ見える団子。

大将
何が発端なのかはよう知らんのやけど、僕がうどんを始める前、伊賀製麺所におった時の話だから昭和40年代の初めの頃だったか、保健所が「足で踏むのは認めない」とか言うてきたと思う。あの頃は基本的に保健所が厳しい時代だったんです。確か、久保製麺さんが組合の青年部長をやっていた時に、保健所の厳しい担当者が来て、ずいぶん苦労しよったと思う。伊賀製麺所は最初からローラーが2つついた「踏み機」が入っとったけど、足踏みで作ってた小さい製麺屋は、足踏みを自粛してどうやっていたんだろうね。そのせいで岡原農機の踏み機が相当売れたという話も聞きましたけどね(笑)。

ところが、当時の金子知事が「讃岐うどんの特徴は足踏みにある。足踏みしてこそうまい讃岐うどんができるんだ」と言ってくれて、結局、足踏みの全面禁止には至らなんだと聞いた。だから僕らは、金子知事が讃岐うどんを守ってくれたと思ってるんですよ。あの人は出張やら何やらの時には必ず讃岐うどんを持って行って配ったり、こういう守らないかんことはしっかり守ったりして、政治のパフォーマンスでなくて、讃岐うどんに対して地に足の付いたことをしっかりやってくれよったと思います。

ーー 昭和48年に「高松砂漠」と言われたほどの渇水がありましたけど、大丈夫だったんですか?

大将
「高松砂漠」は何回かあったな。最初の昭和48年の渇水は、まだ早明浦ダムも香川用水もできてない時。ポリ容器も普及してなかったから、うちは色を塗ったドラム缶に水を貯めていたけど、そこに入れる水を取りに行くところがほんまになかった。給水車も来た覚えがないし、井戸があるところを探して水を汲みに行った覚えはあるけど、井戸の工面ができんうどん屋さんは商売あがったりやったと思います。その頃はまだ、井戸水のバイ菌がどうのこうのとか言いよらんかったから、とにかく井戸水があったらもらってきて仕事をした記憶はありますね。

1994年(平成6年)の「高松砂漠」の時はポリタンクがあって、ポリタンクを持って浄水場まで行ったら水をくれよったから、水汲み用のタンクを買うて、運搬用のトラックを買うて、3トンくらい水を貯めるタンクも買うて設置して、それで対応しました。1日5時間だけ給水してくれて。水を貯めたら仕事をして、終わったら翌日の水をタンクに貯めて…というのを1ヵ月くらいやっていましたね。

水と言えば、最近「水を何トン以上使っているうどん店は高い浄化槽をつけないといけない」とかいう話が出てきたけど、昭和40年代に高度成長期のせいで瀬戸内海のヘドロが問題になった時も、うどん屋の排水がどうのこうのいう話がありましたよ。あの時、うちの店にも県の人が来て、検査する言うて一升瓶に3本、うどんのゆで汁を持って帰りよった。うどん屋仲間で「何のいかんもんが入っとるんや。釜揚げにしたらみんな飲みよるのに」言うて不思議がりよったですよ(笑)。けど結局、何かよくわからんまま、規制も何も入らんかったように思う。

後編に続きます

高松市

松下製麺所

まつしたせいめんしょ

〒760-0008

高松市中野町2-2

開業日 昭和41年

営業中

現在の形態 製麺所

http://www.matsushita-seimen.jp/information.html

(2015年7月現在)

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