さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【がもううどん(坂出市)】
讃岐うどん巡りの超人気店「がもう」はこうして生まれた。坂出市郊外の“田舎の製麺所”の歴史を体現する一軒。

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 1
  • 2015.07.25

第一話

がもううどん

<昭和34年〜40年頃>

初期投資は、金のたらい一つと、もらった打ち台と麺棒と、麺切り機と茹で釜

 では、開店当時の蒲生はどんな仕事をしていたのか? 大将に記憶を辿ってもらいました。

大将
店を始めた最初の頃は、朝は6時くらいからやりよった。玉をようけ作るうどん屋はもっと早かったかもしれんけど、うちは1日せいぜい200〜300玉やから、それぐらいの時間から作り始めても十分間に合いよったんやな。

ーー 道具はどんなのを使ってたんですか?

大将
まず、粉からダンゴにして捏ねるのは大きい金の洗面器みたいな「たらい」一つでしよったな。金のたらいに小麦粉と塩水を入れて練って、団子になったやつをゴザの上に置いて足で踏んで、それから手で延ばして切って茹でる。まあ、道具は違うけど工程は今と一緒やな。

ーー すると、道具は金のたらい一つと、打ち台と…

大将
打ち台はオープンの時に近所の人が「これ使え」言うて、3台も持って来てくれた。打ち台の横に穴が空いとって、そこに麺棒を差し込んであるんや。あの頃は寄り合いするいうたらすぐにうどん打ちよったから、たいていの家が打ち台を持っとって、余ったり使わんようになったのを持って来てくれたんやな。

ーー あとは包丁だけ?

大将
麺を切るのは麺切りの道具があったんや。包丁の位置が固定されてて、下の台の方が動くやつ。包丁を一回落とすたびに折りたたんだうどんの生地を乗せた台がちょっとずつ前に出て来て、同じ幅で切れて麺ができていくやつや。

 何と、2000年代に入ると現役で使っているのはまんのう町(旧琴南町)の三嶋製麺ただ一軒しかなくなったという、あの「下の台が動く麺切り機」は、昭和30年代にがもうでも使われていたことが判明。どうやらあれは、当時はかなりハイカラな麺切り機だったらしく、がもうでは平成4年(1992)に初めて山陽放送の『VOICE21』が取材に来た時、まだ現役だった。

大将
茹でる釜は今のと同じような鋳物の大きな釜で、最初は薪で焚いとったけど、次にオガクズになった。オガクズを燃やす用の竈(かまど)を作る専門の業者がおってな、上から入れたオガクズが左右に分かれて竈に入って行って、ええ具合に風を引っ張って来てゴーッと燃える。俺は子供の頃から、近くの木材会社にようオガクズを取りに行かされよった。そこで足りんようになったら、あちこち走り回ってかき集めてきて。

ーー 粉はどこから仕入れてたんですか?

大将
木下さんとこ(木下製粉)から仕入れよったけど、粉の種類はわからんなあ。そんなのあまり気にしてなかったから、とにかく持って来てくれた粉を使いよったと思う。

三代目
うちのじいちゃんやから、まあそんなとこやと思う(笑)。何せじいちゃん、そばの生地を作る時に「ちょっと目方が足りん」言うてうどんの生地を足して、マダラのまま客に出しよったことがあるもん。じいちゃんの「マーブルそば」いうて、関係者の間ではちょっと有名ですけど(笑)。

入口横に据えられている大釜。

小麦農家と製麺屋の“物々交換”な関係

 では、がもうの開業当初の営業形態のお話です。

ーー 最初から食堂とかにうどん玉を卸していたんですか?

おばあちゃん
最初は卸しやしよらんかった。主人と2人でしよったから、最初は店に卸すような元気やないわな。工賃をもらいよっただけや。

ーー 工賃?

大将
農家が小麦を作るやろ。それを大半は農協に納めるんやけど、残った何ぼかをうどんにするために、うちみたいなうどん屋に持って来るんや。粒のままの小麦な。ほんで、うちは農家が持って来た小麦を製粉会社に渡して粉に挽いてもろて、その粉がうちに返ってくる。そしたら、うちに小麦を持って来た農家が、自分とこでうどん食べる時や寄り合いや法事とかのうどんがいる時に、例えば「30玉くれ」とか言うて来るんや。それでうちがうどんを30玉作って渡す時に、1玉につき2円もらう。その2円が工賃や。

おばあちゃん
うどん玉が6円の時にな。

大将
そうそう、普通に買いに来たら1玉6円やけど、小麦を持って来た農家の人は1玉2円で持って帰るんや。4円は最初に預けた小麦で払ったことになっとるわけや。言うたら、6円のうち2円はうちの粉をうどんにする工賃で、残りの4円は製粉会社の取り分みたいなもんかな。

ーー うーん…何かややこしいな(笑)。とにかく、農家の人はうどん屋に小麦を預けて、6円のうどん玉を2円で買うて帰るということですか。

大将
まあそんなことになるな。それで、農家が小麦を持って来たら、持って来た量に合わせて例えば「100」とか帳面に書いとくわけや。「あんたんとこはうどん100玉分」いうことや。それで、注文が入ったらその数だけ帳面の数字から引いていって、最後の方になったら「あと20玉分しか残ってないで」とか言うて。

 ちなみに、大将が言うには、製粉会社から返ってきた粉は、がもうが製粉会社にお金を払って買っていたらしい。ということは、考えられる現金の流れとしては、例えば製粉会社はがもうから小麦を3円で引き取って、粉に挽く工賃を1円乗せて4円でがもうに売る。がもうは農家の人から工賃2円をもらう。すると、がもうも製粉会社も粗利1円ずつ、という話になるのだが…とにかく、当時の農家とうどん屋(製麺屋)と製粉会社のやり取りについては、何だか物々交換みたいな部分があったようです。

大将
うどんだけやないで。同じような仕組みで、パン屋に小麦を持って行ってパンにしてもらいよるところもあったからな。

ーー ほんまですか!

 ちなみに、開業当初から、わずかながら食べに来るお客さんもいたそうだ。

大将
けど、食べに来るのは農家の人ぐらいやった。うちの周りで田んぼしよる人が、農作業の途中の昼飯で、家に帰るのも面倒くさいから言うてうちにうどんを食べに来よった。その当時はネギもダシもない。うどんに醤油と味の素だけかけて、店の表で食べて行きよったな。

自家製の天ぷらやアゲが並ぶ天ぷらコーナー。代金はこのお姉さんに払おう。

売上は近所の食堂への玉の卸しが9割、あとが個人への玉売り

 それからしばらくして、近くの食堂などから次第に、がもうにうどん玉の卸の注文が入るようになってきた。

大将
昭和30年代の終わり頃には、売上の9割ぐらいが玉の卸しで、近所の人が玉を買いに来たり食べに来たりするのは1割ぐらいになった。要するに、食堂に卸すのが増えたんや。

ーー この辺に食堂が結構あったんですか。

大将
いっぱいあった。うちがうどん玉を卸しとった店だけでも、何軒行きよったかな。

おばあちゃん
鴨川の向こうに食堂が2軒あった。谷本さんとこと、おばさんが食堂しよった…山野さん言いよったかいな。それから麦井さんとこと福井さんとと、全部お店(食堂)や。

大将
渡辺と、加藤と、城山温泉にも卸しよったけど、親父が「遠いし坂が危ない」言うて行かんようになった。食料品店にも卸しよったな。あと、うちのお袋の従兄弟の家が国分寺で食堂を始めて、うちにうどんを取りに来よった。山田恵子さんいうて知っとるな? 走るのが速かった。

ーー 知ってます知ってます。高校の時から陸上の100mとか200mで日本選手権で何回も優勝したすごい人ですよ。

大将
あの子のお父さんとお母さんが電気屋しよったんやけど、そのうち食堂も始めたんや。恵子さんはすごい子やったで。ものすごい努力しとった。毎朝5時頃から、近くのお宮さんの階段を何回もダッシュ練習してから学校に行きよったんやけど、おやっさんが毎日恵子さんを練習と学校に送っていった帰りに、うちにうどんを取りに来よったんや。

ーー それがいつ頃ですか?

大将
昭和40年になるかならんか、その辺の頃やな。俺はまだ10代やったと思う。俺もあの頃、伸び盛りの子供やのにずっと台所でたらいでうどんを練ったり足で踏まされたり、自転車であちこち配達させられたりして、辛い思いをしとったんや。なあ、おばあさん。

おばあちゃん
………

ーー おばあさん、聞こえんふりしてますよ(笑)。

おばあちゃん
正っさん(大将)、補聴器の電池が切れたけん取ってきてくれるかい?

大将
うまげな話や…

 ちなみに、食堂等への卸しが増えて来たのは先方からの注文があったからだそうで、がもうから営業をかけることはほとんどなかったらしい。

大将
さっきの山田恵子さんとこはお袋の従兄弟やから最初は取りに来よったけど、うちは基本的に配達に行きよったから「配達してくれる方がええ」いうて店の方から注文が来よったんやろな。まあそれで子供の俺が配達させられてえらい目したんやけど(笑)。大体うちの親父は自分の好きなことをしよったから、家の中で続けて仕事するのが好かんかったんや。普段でも半日ぐらいしたらどっか行っておらんようになる(笑)。そやから、営業に行って「買うてくれ」とか絶対によう言わんわ。向こうから来たら「ほなら行こか」言うぐらいやったな。

がもううどん

坂出市

がもううどん

がもううどん

〒762-0022

坂出市加茂町420-3

開業日 1959年9月

営業中

現在の形態 製麺所

http://www.kbn.ne.jp/home/udong/

(2015年7月現在)

がもうのおばあちゃん/二代目大将/三代目長男

(二代目大将プロフィール)

さぬきうどんの人気店「がもううどん」の二代目大将。

昭和56年(1981)サラリーマンを辞め、父親の店「がもううどん」に。
1年ほど店を手伝ったあと、翌昭和57年(1982)に高松市円座町に「釜市うどん」をオープン。その後平成6年(1994)に「がもううどん」に戻り、現在に至る。

 

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