さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.67 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る平成の讃岐うどん<平成21年(2009)>

(取材・文: 記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 67
  • 2023.07.20

「瀬戸大橋の通行料、休日上限1000円」のスタートで、ブーム最大のピークに!

 平成21年(2009)は、政界では8月に民主党政権が発足し、経済界では9月にリーマンショックが起こって世界的な金融危機が勃発し、芸能界では6月にマイケル・ジャクソンが死亡。さらに5月頃から世界的な新型インフルエンザのパンデミックが日本にも上陸するという、かなりインパクトのある年でした。讃岐うどん界でも3月20日から「瀬戸大橋の通行料金が休日(土日祝日)上限1000円」という激安キャンペーンが始まり(期間限定)、本州から車で瀬戸大橋を渡って来る観光客が激増! 「讃岐うどん巡りブーム」は、過去最大のピークを迎えました。

 ではまず、「瀬戸大橋、土日1000円」のニュースから。

(3月21日)

「瀬戸大橋ETC1000円」スタート 通行量、昨年の2.2倍

 高速道路料金の大幅値下げの先陣を切り、本州四国連絡橋と東京湾アクアラインの休日(土日祝日)の通行料金を上限1000円にする割引が20日午前0時から始まった。三連休の初日とあって、県内の観光地やうどん店には橋を利用して訪れた県外ナンバーの車があふれ、大勢の家族連れらでにぎわった。…(中略)…県内屈指の人気うどん店「なかむら」(丸亀市飯山町)も駐車場は9割以上が県外ナンバー。平日のほぼ倍のうどんを用意したが、午後2時には完売した。…(以下略)

 「瀬戸大橋1000円」のスタートとなった3月の3連休の初日、さっそくマイカーの県外客が香川に殺到したようで、飯山の「なかむら」の「平日のほぼ倍のうどんが午後2時に完売」というレポートです。「なかむら」は普通の土曜日や祝日でも休日より客が多くなるので、平日と比べたのでは「瀬戸大橋1000円」の効果がよくわからない記事になっていますが、ここから県外客が爆発的に増え始め、5月のゴールデンウィークにはブームを牽引してきた製麺所型人気うどん店が軒並み、とんでもないことになります。

(5月8日)

行楽地どっと15万人増 初の100万人突破 GW県内の人出

 ゴールデンウイーク(GW)期間中の県内主要行楽地やうどん店、JR四国などの人出や利用実績などが7日、まとまった。高速道路の“1000円効果”を受け、行楽地は約102万人で前年に比べ15万人の大幅増、うどん店では連日、長い列ができた。一方、JR瀬戸大橋線、高速バスは利用者が減少するなど明暗が分かれた。

 県内のうどん店も本場の味を求める観光客でにぎわった。綾川町の「山越」はピークの4日には約3200人が訪れ、約6000玉を完売した。約180台分の駐車スペースを確保した他、警備員を配置して近隣の交通整理にも追われた。土産の売れ行きも好調で、売り上げは昨年の約1.5倍に。店主の山越伸一さん(39)は「お断りしたお客さんも多く、来られた方は今までで一番多かった」と話していた。GW後半のうち、3日間営業した「松下製麺所」(高松市中野町)も1日の売り上げは平日の約2倍。午前7時の開店から約7時間にわたって、常時行列ができる盛況ぶりだった。

 麺通たちの間で語り継がれる、「山越で1日6000玉出た!」という伝説のゴールデンウィークです。記事中、「約3200人が訪れ」とありますが、ゴールデンウィークの「山越」は「1人1玉」でうどん巡りをする客が大半だったと思われるので、6000玉出たということは「5000人近く来ていたのではないか?」というのが筆者の推測です(「6000玉」は店がそれなりに把握している数字だと思うので)。

 ちなみに、筆者はこの年のゴールデンウィークに人気店の行列調査を行ったのですが、軒並み過去最大の行列ができていました。2000年頃の讃岐うどん巡りブームの第一次ピーク、2006年の映画『UDON』効果による第二次ピークを超える、過去最大級の第三次ピークです。

 では、そんな最大級のブームの中の、讃岐うどん関連記事を拾っていきます。

「年明けうどん」スタート

 「さぬきうどん振興協議会」が提唱する「年明けうどん」のキャンペーンが始まりました。まず1月は、県内各所での無料提供と、「年明けうどん」に賛同したうどん店でのメニュー展開です。

(1月1日)

招福「年明けうどん」 香川発の年始行事スタート 不況風にもほっかほか

 2009年は「年明けうどん」の実施元年。1日から15日まで、純白の麺に赤い物を乗せた”縁起物”のうどんを食べ、1年の幸せを祈願しようという香川発の年始行事だ。県内の製麺業者などで組織する「さぬきうどん振興協議会」(真部正敏会長)が、年越しそばの風習にならい提唱した。

 皮切りのイベントとして、年明けとともに総本山善通寺と土庄八幡宮で初詣で客に振る舞われた他、1日午前10時から栗林公園で持ち帰り用の製品1000食を配布する。2日午前には高松空港で日本航空の東京便搭乗客に提供。4日午前10時からは国営讃岐まんのう公園で200食を振る舞う。期間中、趣旨に賛同したうどん店では、年明けうどんをメニューに加えたり、トッピングとして赤い食材を用意。家庭でもうどんに赤い物を添えて食べてもらうよう呼び掛け、年始の恒例行事として全国的な定着を目指す。

 続いて「全国製麺協同組合連合会」に働きかけて、全国展開も開始しました。

(4月3日)

全国普及へ本腰 「年明けうどん」、製麺連合後押し まずのぼり、ポスター

 「年明けうどん」を提唱している「さぬきうどん振興協議会」は2日、約1800業者でつくる「全国製麺協同組合連合会」(東京)が本年度から、のぼりやポスターの作成などで普及に本腰を入れると発表した。…(中略)…全国連合会はこの取り組みを受け、需要拡大や業界の活性化につながると判断。本年度の事業計画に「のぼりやポスターを作成し、約1800業者に配布する」「新メニューを考案する」「量販店に売り場展開を提案する」を盛り込んだ。各地のご当地うどんにも参加を促すという。計画案は、近く正式決定する。

 また、振興協議会は2月に製麺業者などを対象に行ったアンケートの結果を発表。年明けうどんを実施した87業者のうち「効果が上がった」が49%、「上がらなかった」が37%。効果としては「よく売れた」「好評だった」などの回答が目立った。

 「年明けうどんを実施した87業者」の反応は微妙ですが、以前にも触れたように新メニューは基本的に“代替消費”ですから、まあそんなところかと。しかし、「年明けうどん」という企画自体はなかなかインパクトがあったようで、年末の発表によると、全国的にかなりの広がりを見せているようです。

(11月26日)

2年目で全国区! 34都道府県123業者が製造販売 「年明けうどん」概要発表

 「年明けうどん」、2年目で全国区に。県内の製麺団体などでつくる「さぬきうどん振興協議会」(真部正敏会長)は25日、「年明けうどん」の製造・販売の意向がある業者が現段階で、北海道から沖縄までの34都道府県123社に上ると発表した。白い麺に赤の具材が乗る「紅白の縁起物」で1年の幸せを願う趣向が好評だといい、同協議会は「予想以上の広がり」と手応えを感じている。…(中略)…

 同協議会によると、「年明けうどん」の商標使用を申し込んだのは、製麺や具材のメーカー、スーパー、コンビニエンスストアが中心。地域別では東京の31社が最多で、香川14社、愛知11社、大阪9社と続く。今後は、さらに飲食店を展開する企業の増加も見込んでいる。また、県内でも「年明けうどん」を提供する店が、前年の52店から2倍超の129店に増加。…(以下略)

 全国100社以上の食品メーカーやスーパー、コンビニ等から「年明けうどん」の商標使用の申し込みがあったとのこと。「山越」の「釜玉」は「広げたいなら囲うな」というセオリーに則って「皆さん、好きなように使ってください」としたら、おそらく数千単位の全国のうどん店や食品メーカーに「釜玉」が一気に広がりましたが、「年明けうどん」は商標登録したようです。「ちょっと“手柄”を囲いたかった」のでしょうか(笑)。

伝承料理研究家の奥村彪生先生が「うどんの起源は鎌倉時代の京都の禅寺」説を発表

 全国的に著名な伝承料理研究家の奥村彪生先生が「うどんは鎌倉時代の京都の禅寺で誕生した」という説を発表し、これを四国新聞が特集記事で紹介したため、それまで「空海起源説」を唱えていた県内の識者たちが、ちょっと慌てました(笑)。

 特集記事が長いので概要をかいつまんで説明すると、まず、従来より県内の識者たちが唱えていたのは「空海が中国からうどんの原型を持ち帰り、智泉大徳が切り麺のうどんの形に作り上げた」というもの。そして、この説に「言葉の変遷」をくっつけて、

→空海の時代に中国で「ワンタン」を指す「餛飩(こんとん)」という食べ物があった。
→「餛飩(こんとん)」は「饂飩」と書くことがあり、これは「うんとん」と読む。
→「饂飩(うんとん)」が同じ読みの「温飩(うんとん)」となり…
→「温飩(うんとん)」が「饂飩(うどん)」に変わった。

という話が、県内の“権威筋”の識者の共通認識としていろんな場面で語られてきました。

 これに対し、奥村先生は数十年にわたる古文書の研究や中国各地の麺の食べ歩き等の研究活動から、唐の時代に「不扽(ふたく)」と呼ばれる切り麺があることを発見。そこで、「うどんの起源は、うどんと形も大きさも違う『餛飩(こんとん)』のようなものではなく、うどんと形状が似た『不扽』ではないか?」という仮説からさらに調べ、

→「不扽」が発展して、宋の時代に「切麺(きりめん)」が盛んに作られるようになった。
→この「切麺」が、1200年代前半に留学僧によって日本に伝えられた。
→日本に伝えられた「切麺」は日本では「切麦(きりむぎ)」と呼ばれ、これが日本の「うどん」の祖先だと考えられる。

としたのが“奥村説”の概要です。そして、

・宋の時代の「切麺(きりめん)」には「湯で温めた麺をつけ汁につけて食べる」という習慣がなかった。
・しかし、江戸時代の記録によると、うどんは今で言う「湯だめ」の状態で“つけ麺”として食べられていた。
・1200年代前半の留学僧は禅宗の僧が中心だった。
・「つけ麺」という食べ方は、「食べ方に美しさを求め、素材そのものの味を味わう」という日本の禅宗の考え方につながる。
・京都の古文書に、うどんの形状をした「ウトム」という食べ物が多く出てくる。

…等の研究結果から、奥村先生は「うどんは、1200年終わり頃、京都の禅寺で生まれた」という説を発表しました。ちなみに、「切麦(きりむぎ)」が「うどん」と呼ばれるようになった経緯については、

・中国で「不扽」と呼ばれていた切り麺を湯につけるから、「温扽」。
・食べ物なので、「温」のさんずいを食偏に改めて「饂」と作字。
・中国の餛飩を参考に、「扽」も食偏の「飩」に変えて「饂飩」と書いた。

そして、この“呼び名の改変”を行ったのは「禅宗の僧ではないか? 一休さんも禅宗の僧だし(笑)」とのこと。さすが奥村先生、軽くオチまで付けていらっしゃいます(笑)。

 この、四国新聞に突然紹介された「うどんのルーツ」の新説に対し、同じ特集記事内で真部先生のコメントも載っていました。

(3月8日)

空海説の否定は拙速 真部正敏会長 地元の反応

 「そりゃ、われわれにとっては一大事ですよ」。県内の麺業界関係者らでつくる「さぬきうどん振興協議会」会長で、「さぬきうどん研究会」会長も務める真部正敏さんは、奥村説に困惑の色を隠さない。県内のうどん業界関係者らは、空海をうどんの祖とあがめ、善通寺などで献麺式を挙行。うどんのルーツを求め、中国の空海ゆかりの地まで訪ねている。それが「うどんは空海と無関係」となれば、「一大事」なのは当然だろう。

 「うどんは中国伝来が定説。日本生まれとする説は初めて」と真部会長。しかし、うどんが中国から伝わった時期や詳しい経緯はまだ解明されていない。真部会長によると、遣隋使、遣唐使が持ち帰ったという説の他、中国側に3世紀末から5世紀頃、日本に帰化した人たちが持ち込んだとの説もある。そして、香川には空海伝承説が伝わる。

 この空海伝承説は一般的に俗説とされるが、真部会長は「果たして本当にそうだろうか」と疑問を投げ掛ける。「空海の時代、日本にうどんがなかったことは間違いないだろう。しかし、空海がうどんの祖型を持ち帰った可能性は否定できない」との考えだ。「空海は中国で進んだ麺文化に触れたはず。それを持ち帰ったと考えるのは自然な流れ」とみる。「その祖型が日本でうどんに変わるまでの経緯は残念ながら分からない。だが、『(空海が持ち帰った)記録がないから事実もない』と片付けるのは拙速」と空海伝承説の可能性を捨てていない。…(以下略)

 「奥村説」に資料的な根拠がいくつも出てきたのに対し、残念ながらこちらは「空海がうどんの祖型を持ち帰った可能性は否定できない」とか「『(空海が持ち帰った)記録がないから事実もない』と片付けるのは拙速」とかいった情緒的なコメントしか載っていませんでした。「空海説」にも何か資料的な裏付けがあるのなら、「資料には資料」できちんと対抗してくれればと思いましたが、真部先生が言及されなかったのか、あるいは言及されたのに記者が載せなかったのか、あるいは対抗できる資料的根拠が何もなかったのか…。

 あと、真部先生によると、うどんが中国から伝わった時期や経緯については「遣隋使、遣唐使が持ち帰ったという説の他、中国側に3世紀末から5世紀ごろ、日本に帰化した人たちが持ち込んだとの説もある」とのことですが、これを時代で言えば「遣隋使」は飛鳥時代、「遣唐使」は平安時代、「3世紀末から5世紀ごろ」は古墳時代。

 ということは、これまで新聞には地元識者の見解として「奈良時代に渡来説」と「平安時代に空海が持ち帰った説」の2つしか出てきていませんので、ここに突然「飛鳥時代に遣隋使が持ち帰った説」と「古墳時代に帰化人が持ち帰った説」が出てきたことになります(いずれも説の根拠に関する説明はありませんでしたが)。しかし、記事には「古墳時代や奈良時代に伝わったという説もある」と言いながら、「空海の時代(平安時代)、日本にうどんがなかったことは間違いないだろう」ともあり、読者はちょっと混乱します(真部先生がそうおっしゃったのか、記事のまとめ方が混乱しているのかはわかりませんが。

 などという“騒動”のわずか1週間後、今度は県内の研究家がまたまた新たな説を発表しました。

(3月15日)

空海伝来に独自製法 うどんルーツに新説 綾川の馬場さん研究 ワンタン説は辞書の誤記

 「うどんの起源が中国の『ワンタン=餛飩』という定説は、『饂飩』を“こんとん”と読ませた室町時代の辞書の誤記が招いた間違い」とする研究成果を、綾川町滝宮の馬場正弘さん(67)がまとめた。馬場さんは「うどんは空海が唐から持ち帰った『餺飩(はくとん)』と呼ばれる麺を和風にアレンジした日本独自の食べ物」と新たな説を唱える。

 製麺機メーカーで勤務していた馬場さん。退職後、俗説とされる「うどんは空海が持ち帰った『餛飩』がルーツ」という空海伝承説の検証に取り組んだ。馬場さんによると、『餛飩』がうどんのルーツとされるのは、室町時代の辞書「撮壌集」(さつじょうしゅう)が『饂飩』に「こんとん」と送り仮名をふった誤りがきっかけと指摘。後世の書物が気付かないまま同書を踏襲し、「饂飩(わんたん)=餛飩(こんとん)」という誤った解釈が広まったとしている。

 製法面からも「小麦粉を麺棒で延ばして細長く切った『餺飩(はくとん)』をうどんの祖先と考える方が自然」と主張。『餺飩(はくとん)』は空海の帰朝直後に入唐した円仁の紀行文に初めて登場しており、「『餺飩(はくとん)』が唐代に生まれたとすれば、研究熱心な空海が新しい製麺法として伝えた可能性は十分ある」と推測する。

 さらに、鎌倉末期頃、しゅうゆとダシが考案され、『餺飩(はくとん)』を温かいしょうゆスープに浮かべる日本独自の食べ方が誕生。その調理法から、『餺飩(はくとん)』が『温飩(おんとん、うんとん)』となり、中国にはない「饂」を作字して『饂飩(うどん)』になったとみる。馬場さんは「生地を足踏みするのは江戸中期以降だが、中国にはない工程で、この点からもうどんは日本生まれと言える」と話している。

 うどんのルーツ候補として、今度は『餺飩(はくとん)』なるものが出てきました。こちらの説も、それまでの「うどんは空海が持ち帰った『餛飩』がルーツ」という地元識者の通説には疑問があるというスタンスで、「『餺飩(はくとん)』は空海の帰朝直後に入唐した円仁の紀行文に初めて登場しており…」という資料的傍証も付いています。

 というわけで、この年の3月に「奥村説」の特集記事と「餺飩(はくとん)説」が立て続けに出たため、「空海が中国から持って帰った『餛飩(こんとん)』がうどんのルーツ」としてきた県内識者たちの間でちょっとザワつきました。ちなみに、筆者の周りでは「奥村説が一番説得力があるなあ」という声が多数だったのですが、「空海持ち帰り説」を信奉してきた方々にとっては、「歴史の真実の探究」より「自説の防衛」の方が大事なのか、簡単に引くわけにはいかなかったようです。まあ、香川には「何かわからないことがあると、空海のせいにしておけば安心する」という“あるある”がありますので、学術的論争とは別に「空海持ち帰り説」も置いておいた方が何かと穏やかな気もしますが(笑)。

元祖「宮武」、閉店

 「讃岐うどん巡りブーム」を創生期から牽引してきた製麺所型のレジェンド店「宮武」が、“超ブーム”の真っ最中に閉店しました。

(6月7日)

「ひやあつ」の祖 宮武うどん閉店 店主「体力の限界」

 讃岐うどんブームを代表する人気店「宮武うどん店」(琴平町)が閉店した。店主の宮武一郎さん(66)が、年齢を重ね、体力的に限界を感じたことから決断したという。先代が開いて半世紀以上、地元住民やうどんファンに愛され続けた老舗は、静かにのれんを下ろした。同店は、父の士郎さん(故人)が1953年に創業。同店の代名詞にもなっている「あつあつ」「ひやあつ」といった注文の言葉は、同店を訪れた客が使ったのが発祥という。宮武さんは、本広克行監督の映画『UDON』で、製麺所を営む主人公の父のモデルになったことでも知られる。

 最後の営業となった4日は、「家族と同じように大切な存在」の常連客に閉店を告げるのが一番つらかったという宮武さん。「突然の幕引きになったが、自分の体力を考えると仕方がない。長い間、多くの人にお世話になり感謝している」と目を潤ませた。同店と親類関係や師弟関係にある”宮武ファミリー”の店は県内外に健在で、「お客さんに讃岐うどんをもっと愛してもらえるよう、弟子には日々悩みながら勉強し、俺を超えてほしい」と期待を込めた。「麺通団」団長の田尾和俊四国学院大教授は「うどん巡りブームの第1世代に当たる人気の大将。ただひと言、お疲れさまでしたと言いたい。幸せな隠居生活を」と宮武さんの労をねぎらい、「店がなくなるのは残念だが、”宮武ファミリー”が味をつないでくれるはず」と話していた。

 おそらく県下でうどん店の閉店が新聞記事になったのはこれが初めて。しかも、豪華で格式のあるうどん店ではなく、田舎の製麺所型うどん店の閉店がニュースになったというのは、1990年代後半からの「讃岐うどん巡りブーム」のインパクトと地域活性効果がいかに大きかったかを示しています。「宮武」はブーム勃発以来10年以上にわたって常に圧倒的な集客をしてきた超人気店ですが、大将もお歳を召されてご勇退となりました。

「さぬきの夢2000」の後継品種が決まる

 前年に「香育20号」と「香育21号」に絞られていた「さぬきの夢2000」の後継品種が、「香育21号」の方に決まりました。

(10月31日)

2代目「さぬきの夢」小麦、香育21号に決定 消費者の「舌」決め手 13年度に全面切り替え

 2代目「さぬきの夢」に「香育21号」。讃岐うどん用に県が開発した小麦「さぬきの夢2000」の後継品種が30日、「香育21号」に決まった。これまでの栽培試験などの結果について、最終候補に残っていた「香育20号」と比較。選定は難航したが、消費者アンケートでの満足度が決め手となった。今後は11月に品種登録を出願。生産量は段階的に増やし、2013年度から全面切り替えする予定。…(中略)…

 初代「さぬきの夢」(00年に品種登録)は、「収穫量が少ない」「ゆで上がり後の劣化が早い」などの弱点があり、県農業試験場では品種改良を進め、07年に後継品種を20号と21号に絞り込んでいた。検討会では、これまでの栽培試験や製麺・製粉試験、うどん店での試作などで収集したデータを比較。また、今月実施した2品種の試食アンケート(対象1093人)結果も公表され、コシや食感、香りなどの総合評価で21号が「よい」としたのは69%、20号は63%となり、特に21号はのどごしやコシ、風味が高く評価されたことが報告された。出席した生産者団体や製粉業者など委員25人からは、「収穫量確保が最優先」、「豪州産ASWと差別化すべき」などの意見が出され、最終的に消費者の声を重視することで決着した。…(以下略)

 20号と21号の選考は難航した結果、最終的に「消費者の試食アンケート」で決めるということになり、そのアンケート結果も69%対63%という僅差で21号に決まったとのこと。たぶん品質的には「どっちでもOK」みたいな差だったんだろうと思いますが、そこは「最後は社長が責任をとって決断できる」という民間企業と違って、いろいろと丸く収める段取りをしないといけないのがこういう組織の辛いところ。委員からは「収穫量確保」や「ASWとの差別化」といったマーケティングの重要な視点も出ていたようですが、微妙な「消費者の声」でまとめたようです。

 あと、これに先立って「讃岐うどん用の小麦のブランド名を『さぬきの夢』に統一する」という、ちょっとわかりにくいニュースも載っていました。

(7月3日)

讃岐うどん用小麦ブランド名、「さぬきの夢」に統一

 讃岐うどん用の小麦「さぬきの夢2000」の後継品種について協議するプロジェクト検討会(座長・北川博敏香川短大名誉学長)は2日、県が育成した小麦を使用したうどんのブランド名を「さぬきの夢」に統一することを決めた。これまでの会合では、後継品種の導入に合わせて新たなブランド名を協議。「すでに定着した名称を使うべき」、「法令上、問題ないのか」などの意見が出ていた。

 会合には有識者や製麺業者の代表ら約30人が出席。県側が統一ブランド名の案として、従来通りの「さぬきの夢2000」と、従来のイメージを最大限継承した「さぬきの夢」を提案し、「夢2000」を使用した際の問題点を指摘した。説明によると、「さぬきの夢2000」は品種名としても登録。後継品種が導入された際、品種の異なる商品に同じブランド名を表示すれば、景品表示法などに抵触したり、消費者に誤認される可能性があり、トラブルの要因になる恐れがあるとした。…(以下略)

 記事がわかりにくいので解釈が間違っているかもしれませんが、「さぬきの夢2000」は、品種名が「さぬきの夢2000」で、「さぬきの夢2000」を使ったうどんのブランド名も「さぬきの夢2000」だったみたいで、今度できる後継品種は品種名が変わることになるけど(後に品種名が『さぬきの夢2009』になります)、それを使ったうどんのブランド名が同じ「さぬきの夢2000」ではおかしいので、今後、品種名が変わってもブランド名は「さぬきの夢」に統一するということのようです。

 この「『さぬきの夢2000』を使ったうどんのブランド名」というのがよくわかりませんが、うどん店に「さぬきの夢」というメニュー名はあまり見かけませんので、おそらく「お土産うどん」とか「小麦粉商品」なんかを指しているのではないかと思います。「さぬきの夢2000」を使ったうどんのブランド名が「さぬきの夢2000」なら、「さぬきの夢2009」を使ったうどんのブランド名は「さぬきの夢2009」にすればいいのではないかとも思いますが、新品種が出るたびにブランド名を変えるより、「さぬきの夢」に一本化した方がイメージが統一できることは確かでしょう。

 ちなみに、品種が改良されて新しくなってもブランド名が「さぬきの夢」で変わらないということは、「さぬきの夢」の名が付いたお土産うどんや小麦粉商品は県産小麦の品種が変わるたびに品質が変わっていくということになりますが、これは「甘味料が変わって味も少し変わってきても『コカ・コーラ』というブランド名は変わらない」みたいなものですから、世の中にはよくあることです。

今度は中国で「讃岐うどん」が商標登録される

 台湾で発覚した商標登録問題が、今度は中国で起こりました。

(8月1日)

「讃岐うどん」商標問題 中国当局、審査経て公告 県や業界、異議申し立てへ

 中国で讃岐うどんを表す文字「讃岐烏冬」が商標出願され、同国商標局が審査を経て公告したことが分かり、県やさぬきうどん協同組合などは31日、登録されれば、県内業者が中国に進出した際、店に看板が掲げられないなどの支障が出る恐れがあり、同組合の大峯茂樹理事長は「さまざまな手段を考え、何としても阻止したい」と話している。異議申し立ては、県、同組合の他、県製粉製麺協同組合、県農協が共同で行う。申し立て期間は8月27日まで。

 県産業政策課によると、昨年発覚した台湾での「讃岐」商標問題を受け、県は中国や台湾の商標出願状況の監視を強化。その中で、昨年6月に上海在住の中国人が飲食店などの商標として出願していることを把握。その後、中国商標局が5月27日付で異議を受け付ける公告を行ったため、県や関係団体が対応を協議し、申し立てを決めた。同課は「登録が却下されるには、中国国内で讃岐が地名として一般的に知られていることを証明する必要がある」として、現在、中国の新聞記事などを収集し、申し立てに必要な証拠書類の作成を進めている。経費は50万~70万円程度が必要で4者が分担。裁定までは3年程度かかるという。

 現在、中国商標局に「讃岐」を示す名称が商標出願、または登録されている例は、把握しているだけで10件程度ある。併せて県は、中国・青島にある加ト吉の子会社が既に「讃岐」と「さぬき」の商標権を得ていると発表。同社は「排他的、独占的に使う意図はなく、県内業者の使用を妨げるものではない」としている。

 台湾の時には「要望書」を出す程度で動きが鈍かった県や組合が、今度は手間と経費を掛けて直ちに中国に「申し立て」を行うようです。ちなみに、台湾の商標問題では結局、香川県からの支援がなかったために台湾のうどん店「土三寒六」の樺島さんが自費で裁判を起こすことになったのですが、せめてもの足しにと、筆者が香川県内の有名うどん店の協力を仰いで募金活動を行いました。

 なお、記事によると、中国では「加ト吉」の子会社が既に「讃岐」と「さぬき」の商標権を得ていたそうです。台湾で「讃岐」などの商標登録を行い中国でも「SANUKI」などの証票申請をしていた「南僑化学工業」も(「平成20年」参照)旧「加ト吉」との関連があったそうで、「加ト吉さんの何かの中国戦略かもしれん」という憶測も出ていましたが、真偽の程はわかりません。

日本政策金融公庫高松支店が「さぬきうどん店創業相談窓口」を開設

 日本政策金融公庫が「讃岐うどん店」の創業支援に乗り出しました。

(10月28日)

うどん店の創業相談窓口 11月、日本公庫高松支店

 日本政策金融公庫高松支店(国民生活事業)は11月から、さぬきうどん店の開業を目指す人を対象にした「さぬきうどん店創業相談窓口」を開設する。創業に必要な計画策定や資金調達の相談に対応し、開店まで支援する。同公庫が特定の業種に絞り創業支援を行うのは珍しいという。

 「こくきん創業支援センター高松」が窓口を開設。同支店はさぬきうどん店の取引先が約200件あり、創業時の利用が多い。新規開業の相談は継続的に寄せられており、専用の窓口を置くことにした。同支店は「さぬきうどんという地域資源を生かした事業を活発にしたい」としている。創業に関する相談にきめ細かく対応する他、創業計画書の記入例や開業までに必要な手続きをまとめたガイドを配布する。県内の地域力連携拠点との間で、専門家の指導や助言などの連携も図る。また県外からうどん修業に訪れ、古里で出店を目指す人は最寄りの支店への紹介を行う。…(以下略)

 どこからどういう働きかけがあったのかわかりませんが、讃岐うどん店の開業ニーズに金融機関が答えるという動きが出てきました。そして、関連してこんな記事も。

(11月25日)

丸亀高等技術学校「さぬきうどん科」、初の年度2回目開講 応募者増と雇用悪化

 県立丸亀高等技術学校は2009年度2回目となる「さぬきうどん科」を来年1~3月に開講する。03年度から毎年1回行っている職業訓練で、1年間に2回実施するのは初めて。ここ数年の応募者の増加に加えて、雇用悪化に伴いうどん店の開業や就職を目指す人が増えているため、追加の実施を決めた。同科では手打ちうどんやだしづくりの技能、店舗の経営の知識に関する訓練を3ヶ月かけて行う。今年7~10月の訓練は定員15人に37人の応募があり、07年度からは2.5倍前後の高い倍率が続いている。…(以下略)

 リーマンショックの影響がさっそく出てきたのか、経済情勢は「雇用悪化」の様相を呈してきたようで、それに伴って「うどん店の開業や(うどん店への)就職を目指す人が増えている」とのこと。ちなみに、前年の本稿に掲載した「うどん店新規オープン数の推移」は、

●平成12年(2000)…新規オープン数・35
●平成13年(2001)…新規オープン数・61
●平成14年(2002)…新規オープン数・60
●平成15年(2003)…新規オープン数・68
●平成16年(2004)…新規オープン数・60
………
●平成20年(2008)…新規オープン数・39

となっているので、この年は2000年代前半の新規オープンラッシュの勢いが少し落ちてきた時期ですが、再度増え始めるのかもしれません。

「乃木うどん」が登場

 日露戦争等で活躍した乃木大将が善通寺の陸上自衛隊で“部隊食”に発案したといううどんを、「乃木うどん」として復活させようという動きが起こりました。

(12月1日)

“乃木うどん”を再現へ 元自衛官の前川さん研究

 “乃木うどん”ってどんな味? かつて陸軍第11師団長として善通寺市に赴任していた乃木希典。その乃木が隊員に推奨し、讃岐うどんを広めるきっかけにもなったという通称「乃木うどん」を再現する動きが県内で始まっている。3日には、善通寺陸上自衛隊で隊員の昼食用に約1000食を再現。ゆかりの地で、乃木の意外な功績を偲ぶ。

 こうした動きのきっかけとなったのは、三豊市出身の元自衛官で武蔵野学院大の特任教授を務める前川清さん(75)が昨年発表した、乃木と讃岐うどんに関する研究報告。前川さんは1985年に陸上自衛隊第2混成団(現第14旅団)の団長として赴任。地元の古いうどん屋や郷土史家たちに聞き取りを始め、1898年から1991年まで第11師団長を務めた乃木が、地元出身の隊員たちのうどん好きに目を留め、栄養価や体力作りの面からうどんを部隊食にするよう発案したことなどを知った。

 前川さんによると、乃木が推奨したのはイリコの濃いめのダシを使ったうどんで、力が出るように餅や肉をトッピング。隊員たちはこれを「乃木うどん」と呼び、除隊後、郷里でうどん屋を開店する者も現れるなど、讃岐うどんが全国に広まる一つのきっかけになったと推測する。…(以下略)

 「信玄餅」とか「石松まんじゅう」とか、歴史上の人物の名前を付けた食べ物は全国にいろいろあるみたいですね。「乃木うどん」は「イリコ濃いめのだしに餅や肉」という定義だそうで、「赤い物を入れて『年明けうどん』」に比べるとシンプルさとわかりやすさが今ひとつですが、東郷平八郎の「海軍カレー」の人気を目指して、今もいろいろプロモーションしているようです。

「B-1グランプリ」は「讃岐うどんブーム」が生みの親だった?!

 コラム「一日一言」で「B-1グランプリ」が取り上げられ、そこで「讃岐うどんブーム」との関係が紹介されていました。

(11月16日)

コラム「一日一言」

 ご当地B級グルメの祭典「B-1グランプリ」といえば、今や2日間で26万人も集める人気イベントだが、根っ子にあるのは讃岐だった。まず仕掛け人の一人が讃岐人。観音寺出身の農林水産省職員、高島賢さんだ。6年前、福井県小浜市に「食のまちづくり課長」として出向した高島さん。地域資源である食を生かし、小浜を「食育のまち」として全国に知られる存在にした人だが、彼が在任中に手掛けた事業の一つが、静岡県富士宮市との食を通じた交流だった。富士宮名物のやきそばと小浜名物の焼きサバ。これを中心にした物産展などが大いに盛り上がった。この時の経験や人間関係が、2006年の青森県での第1回大会につながったのだ。

 大会に当たって、仕掛け人たちが頭に描いたのも讃岐だった。地元では当たり前すぎて見過ごされていた食資源を掘り起こす。それを中央でなく地方からじわじわ盛り上げる。そんな讃岐うどんブームを念頭に企画を進めたそうだ。大会は大成功。今ではその集客力に目を付けた自治体から、誘致の声が引きも切らない。参加希望団体もあまりに多くなり、資格審査まで行われるほどになった。

 実は高島さんは学生時代、うどんブームに火を付けたタウン誌の熱心な投稿者だった。彼以外の仕掛け人たちも、タウン誌の当時の編集長・田尾和俊さんの信奉者だ。讃岐の遺伝子が全国に広がったようでうれしい話。できればそこに、うどんに続く讃岐のB級グルメがあるともっとうれしい。

 「B-1グランプリ」の仕掛け人の一人は観音寺出身の高島さんで、何と、筆者がやっていた『タウン情報かがわ』の(おそらく「笑いの文化人講座」の)熱心な投稿者だったとは。ちなみに、「彼以外の仕掛け人たちも、タウン誌の当時の編集長・田尾和俊さんの信奉者」とあるのは、「富士宮やきそば学会」の渡辺英彦会長たちのことだと思います。筆者と渡辺さんは共にコラムニストの勝谷誠彦さんのお友達で、勝谷さんを交えて2003年1月に富士宮市で「天下分け麺の戦い~讃岐うどんVS富士宮やきそば」というイベントをやった仲です(「平成15年」参照)。そこで渡辺さんから、「讃岐うどんブームのプロモーションに触発されて富士宮やきそばの活性化に取り組んでいる」という話を聞かされたのですが、その3年後に「M-1グランプリ」の第1回が実現したということで、微々たるお役に立てたようで何よりです。

ネット連動広告が登場するも、うどん関連広告の減少は止まらず

 うどん関連広告は126本ありましたが、このうちの約80本は全国の地方紙の共同通販サイト「47CLUB(よんななくらぶ)」のネット広告と連動した広告企画で、それらを除くと40~50本と、ますます減少しています。

<県内うどん店>126本-80本
【高松市】

「うどん田中」(高松市林町)…………27本
「ふる里うどん」(高松市香南町)……21本
「さか枝製麺所」(高松市番町)………15本
「愉楽家」(高松市林町)………………6本
「うどん亭やま」(高松市丸の内)……2本
「ヨコクラうどん」(高松市鬼無町)…2本
「つづみ屋」(高松市牟礼町)…………1本
「郷屋敷」(高松市牟礼町)……………1本
「うどん棒」(高松市亀井町)…………1本
「88うどん」(高松市常磐町)…………1本
「さぬき麺業」(高松市松並町)………1本
「たも屋」(高松市林町)………………1本
「もり家」(高松市香川町)……………1本
「池上製麺所」(高松市香川町)………1本
「かわたうどん」(高松市香南町)……1本
「黒田屋勅使店」(高松市勅使町)……1本 10月28日オープン
「てら屋」(高松市檀紙町)……………1本
「つるいち」(高松市鶴市町)…………1本
「北山うどん」(高松市鬼無町)………1本

【東讃】

「木下製麺」(さぬき市寒川町)………1本

【中讃】

「玉吉」(綾川町)………………………9本
「てっちゃん」(坂出市西庄町)………2本
「おか泉」(宇多津町)…………………2本
「さか枝製麺所宇多津店」(宇多津町)2本
「いきいきうどん」(坂出市京町)……1本
「うどん道楽わかまつ」(坂出市京町)1本
「日の出製麺所」(坂出市富士見町)…1本
「やなぎ屋」(坂出市西大浜)…………1本
「塩がま屋」(宇多津町)………………1本
「まごころ」(丸亀市蓬莱町)…………1本
「さぬき麺輝屋」(丸亀市原田町)……1本
「かな泉丸亀店」(丸亀市飯野町)……1本
「山の谷」(丸亀市飯山町)……………1本
「めりけんや」(宇多津町)……………1本
「一代」(善通寺市原田町)……………1本

【西讃】

「西野」(三豊市詫間町)………………1本
「将八」(観音寺市他)…………………1本
「まき」(観音寺市植田町)……………1本

【県外うどん店】

「さぬきめん坊」(京都市中京区)……1本
「うどん棒大阪店」(大阪市北区)……1本

<県内製麺会社>

「藤井製麺」(三木町)…………………2本
「民サ麵業」(高松市勅使町)…………1本
「日糧」(三豊市詫間町)………………1本
「合田平三商店」(観音寺市豊浜町)…1本

<その他うどん業界>

「さぬきうどん協同組合」………………1本
「讃岐うどん技術研修センター」(三豊市高瀬町)2本

(平成22年に続く)

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