太平洋戦争開戦から、海外戦線の戦況が悪化していく中での「讃岐うどん」
昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発し、日本は“日中戦争”から一気にアジア太平洋へと戦線を拡大することになりました。戦況は、開戦当初こそ連戦連勝でフィリピン、インドネシア、ミャンマー等々を占領していったものの、わずか半年後の昭和17年(1942)6月にミッドウェー海戦に敗れて以降、海外の拠点が次々に陥落。敗勢が続く中、ついに昭和20年(1945)に入って米軍による日本本土への空襲が激化し、8月の原爆投下で敗戦に至る…というのが大まかな経緯で、本稿の昭和16年~19年は本土空襲激化の前、海外戦線が悪化していくあたりの状況です。なお、昭和16年から「香川新報」は「香川日日新聞」に名称が変わりました。
昭和16年(1941)
節米~うどん食への転換が進み、乾麺類の移出統制も開始
昭和16年の「香川日日新聞」に載っていた「うどん」関連記事(広告含む)は、いずれも「節米」に関するものでした。まず、家庭でのうどん作り推奨の講習から。
うどん製法講習
仲多度郡豊原村小学校では「節米代用食うどん」の製法を阿宅女子青年学校教師指導で21日から講習しているが、受講者50余名で成績良好である。
仲多度郡豊原村は、現在の多度津町。「節米」のための「うどん食」への転換は、前年から軍や警察、県、市町村、郵便局、電話局等々で始まりましたが(「昭和11年~」参照)、いよいよ家庭にまで広げられてきました。
続いては、節米の「うどん食」、「パン食」を促進するためのぶどう酒の広告。
「うどん食、パン食励行」の流れに便乗して「ぶどう酒」を売ろうという広告です(笑)。掲載時はまだ太平洋戦争が勃発する前で、この程度の便乗商売はまだ“お上”に睨まれていないようです。
続いて3月末に、乾麺類(干うどん・素麺)の県外持ち出しの制限が始まりました。
干麺類の県外移出 今日から制限実施 一箱でも承認が要る
乾麺類の県外移出制限はいよいよ今25日から実施された。県ではかねて乾麺類の需要激増に伴い、これが移出を統制して需要調整を図るため、今後乾麺類即ち干うどん、素麺を二箱以上県外に移出せんとする場合はすべて知事に申請して承認を受け、移出承認票を貼付せねばならぬこととした。すなわち、移出承認票は県外に移出するものには一箱毎に一枚ずつ貼布を要するのであって、この票は県製麺工業組合連合会においてこれを作成し、移出承認の都度その同数量の承認票に県より證印の押捺を受け、同組合連合会より出荷業者に配給するものであるが、一方、個人からの県外流出防止として業者以外から県外に移出せんとする場合は直接知事に承認票の交付を申請し、一箱といえどもこれを県外に持出す際は必ずこの移出承認票を貼布しておかねばならぬこととなっている。
移出承認票 鉄道でもなければ受附けぬ
本県産麺の乾麺は昨年8月より県の承認を受けたる上で県外に移出していたが、3月25日よりさらにこれを強力に統制することになり、今後は移出承認票なき物は鉄道において絶対に受附けぬことになった。
「乾麺類の需要激増に伴い、干うどんと素麺を2箱以上県外に移出する時は県知事の承認が必要」という制度が始まったとのこと。やはり、「節米」の風潮を受けて、うどんは“特需”状態になっていたと思われます。
昭和17年(1942)
この年の6月のミッドウェー敗戦から戦況が悪化していくわけですが、新聞がいわゆる「大本営発表」を続けたために国民の多くは戦況悪化を知らされず、「海外で頑張っている兵隊さんのために、みんな我慢して頑張ろう」みたいな感じの昭和17年。うどん関連記事も、とりあえずそんな感じで。
かやくうどん、規格不良に警告 高松署から飲食店へ
年末年始の県外人の雑踏につけ、築港附近および市の中央部飲食店の中には「素うどん」の上にわずかばかりのかやくを載せて従来の「かやくうどん」に比し著しく規格の低下したものを「かやくうどん」として販売せるのみならず、甚だしきに至っては客が「素うどん」を注文すると右の規格不良の「かやくうどん」の他は「一切品切れなり」と称して売り惜しみをする不埒なる飲食店が相当多数にのぼっていることを探知した高松署経済警察では「消費者に影響するところ大なり」と見て、同署では県経済保安課の指示に基づき6日、高松飲食店組合長を招致して厳重警告を発するとともに、将来かかる不埒なる業者を摘発ししだい厳重処罰することになった。
「経済警察」というのは、戦争中の経済統制に対する違反を取り締まるために作られた警察組織。これだけ見ると「店の不正を厳しく取り締まってくれていいじゃないか」と思う人がいるかもしれませんが、歴史上、統制経済がうまく行った試しはなく、やっぱり健全な姿ではありません。
続いて、村の共同炊事の話題。
麦秋奉仕を語る うどんの玉取りもやっとのことで
(前略)…私達は造田村の中心である栄町協同炊事の御手伝をしました。私は家庭であまり炊事をした事がないので、始めは何の勝手もわからず、御飯を炊いても御菜を焚いても始めどんなものが出来るかと中々苦心しました。しかし、村の人々が一生懸命に働いて居る姿を見て私もまた細心の注意を払い、終いには御飯も御菜も思うようにできるようになりました。また、二日目にウドンの玉取りをしましたが、始めはどんなにしても玉ができないので苦心しましたが、村の方々より玉取りの免状を渡すと言われるようになりました。…(以下略)
見出しに「麦秋奉仕」とありますが、記事にあるのは「共同炊事」。これは戦時中に推奨された習慣で、燃料費や原材料費の節約が主な目的ですが、ここでも「うどん」が盛んに作られていたようです。
続いて、「田植えが終了した」という記事中に、「半夏生のうどん」の記述がありました。
三豊西南、田植終了
三豊郡西南部では播種作業もスラスラと順調に捗取り、例年ならばまだまだ最中という今日此頃だが、1日を以て全く植付を終了して清々しい青田の輝きを見せている。2日の半夏には一列に共栄祝の手製うどんに安息の舌鼓を打った。殊に大野原の如きは従来近郷近在よりは10日以上も遅れて足洗をしていた村柄だが、レコードを破って逸早く余所に魁がけて田植えを片付けて、何処を風が吹くようと涼しい顔でホントに始めての言い知れぬ朗らかな潔よい俺が田家風景を味った事である。
「足洗(あしあらい)」は、田植えが終わった後、労をねぎらうために地域の人が集まってうどんやばら寿司や揚げ物やいろんなものを作って食べるという、半夏生とセットになった行事。語源は想像通り、「田植えでドロンコになった足を洗う」というところから来ているそうです。
続いて、さぬき市で今も続いている「竹林上人追悼茶会」の記事が出ていました。
暑熱を払い 竹林法会盛況 東讃志度寺十周年茶筵
東讃名物の一つ志度町志度寺を中心の「竹林上人追悼茶会」は、熱暑の18日午前8時前から挙行され、午前5時半の電車、同じく6時半の志度行列車は素晴らしいこの追悼会への参会者で賑い…(中略)…自性院の点心席は中村氏自ら指揮に当り、地方色横溢の手打ちうどんを供して上人追悼の心ばえを見せ、同午後5時まで約10時間に亘り熱暑中の和敬の集いがくり展げられ、大盛況裏に待望の十周年の大会を終った。
竹林上人は、“讃岐の良寛さん”と言われる江戸時代の多彩で清貧なお坊さん。追悼茶会は「昭和初期から始まった」とされていますが、新聞に出てきたのはおそらくこれが最初です。かなり盛大な茶会が催されていたようで、そこに「うどん」も登場していました。「茶会にうどん」は、やっぱり讃岐ならではの振る舞いです。ちなみに、ここには「追悼茶会」とありますが、今は「追善茶会」という名称で開催されています。
「赤澤式手回し製麺機」
うどん製造講習
三豊郡大野原日婦幹部級50余名は本月1日、村國校家事室において村産業組合の肝いりに係る県派遣の児玉氏及びその助手を講師とする赤澤式手回し製麺機による家庭用うどん製造の実地講習会を開催。すなわち、水加減と練り方一つで打ち粉も全くいらず、小麦粉100匁で生麺が240匁でき、しかも製麺量は1時間に約1斗というとても経済的で便利この上ないコツを実習修得し、いざ小麦豊作に踊る年柄の農村にふさわしい節米代用食施策の急先鋒として全村をうどん食一色に塗りつぶすべく、銃後を守り抜く台所の主婦に大わらわとなって呼びかけている。
家庭用うどん製造機の「赤澤式手回し製麺機」なるものが出てきました。家庭で、手回しで、1時間に1斗ということは10升だから1升瓶10本分の生麺ができるというシロモノですが、絵がないので姿が想像できません。ちなみに、本稿「昭和21年」の記事中に「大日本工機」と「山崎製作所」の家庭用製麺器のイラストと写真(多度津町資料館に収蔵)を載せていますが、メーカー名もサイズ的にも、どうもそれとは違う機械のようです。節米の代用食の「急先鋒」として、「全村をうどん食一色に塗りつぶすべく」、「銃後を守り抜く台所の主婦」を目指して「大わらわ」の取り組みが呼びかけられています。前年12月の太平洋戦争開戦からおよそ9カ月、6月のミッドウェー敗戦から3カ月、戦況が悪化に向かう中、戦いはまだ海外戦線が中心です。
戦時中でもバラエティーなうどんメニューが
うどん類の値上げ記事の中に、うどんのメニュー名がたくさん出てきました。
うどん類値上げ
麺類が24日から値上げになりました……従来県内の飲食店で販売していた大衆食である「うどん」または「そば」(もり、またはかけ)は、1玉40匁以上のものが6銭であったのが1銭値上がりとなって7銭となり、それにつれ、なんば、すあんかけ、しのだ10銭、湯だけ、月見うどん、ざるそば15銭、松茸うどん、しっぽく、肉うどん18銭、あんかけ、玉子とじ、鍋焼うどん、カレーなんば、天ぷらうどんが20銭と、1銭から3銭の値上げとなり、一方麺類製造業者の方の販売も1玉2銭5厘と2銭7厘の二種となった。ただし、支那そば類は全部除かれている。
「うどんメニュー」を整理して書き出すと、
【7銭】
・かけうどん
【10銭】
・なんば
・すあんかけ
・しのだ
【15銭】
・湯だけ
・月見うどん
【18銭】
・松茸うどん
・しっぽく
・肉うどん
【20銭】
・あんかけ
・玉子とじ
・鍋焼きうどん
・カレーなんば
・天ぷらうどん
というラインナップ。戦時中ですが、なかなかのバリエーションが揃っていたようです。気になるのは15銭の「湯だけ」ですが、何でしょう。「湯だめ」の誤植でしょうか。まさか「湯」だけかかったうどんではないと思いますが(笑)。
この年の最後は、豊浜名物の紹介でした。
豊浜名物 干麺と敷島豆腐
西讃豊浜町の名物「干麺」、通俗「干うどん」は、機械製麺工業組合員金栄丸、合田照一、萬城屋本家合田定利、分家合田金治、大壽屋本家合田平三、分家合田文八、みのや大西覚一、日向屋合田元治其他の工場で材料不足の折ながら丹念に生産されている。なおまた、味と柔かさで名を得ている専売特許格の「敷島豆腐」は上原重直氏の工場で一手に製造され、いずれも俄料理向の調法食料品とてこれが出廻を八方から待たれている。
豊浜町はすでに明治35年創業の「合田照一商店」を代表とする「干麺」の名産地になっていましたが、「敷島豆腐」なるものは初めて出てきました。記事によると名物だったようですが、ネットで調べても詳細が出てきませんでした。
昭和18年(1943)
「香川の雪」という乾麺(素麺、うどん、冷や麦)が普及していた
「香川の雪」というネーミングの乾麺(素麺。うどん、冷や麦)が出てきました。
香川県庁公示
●特殊機械製素麺販売価格指定
昭和15年5月商工省告示第227号・麺類の販売価格指定中、地方長官の指定する特殊製品を左記の通り指定した。
・機械製素麺 銘柄「香川の雪」
・干ウドン 銘柄「香川の雪」
・冷麦 銘柄「香川の雪」
「地方長官の指定する特殊製品」というのがよくわかりませんが、行政が指定するということは、「香川の雪」はそれなりに定着していた商品だと思われます。地球温暖化のせいで今では「香川の雪」と言われてもピンと来ませんが(笑)、昭和の昔は、冬の香川に雪は普通でした。ちなみに、ネーミングされた乾麺商品としては、昭和27年の記事に当時の「香川県中央製粉製麺協同組合」傘下の坂出市の15の製麺工場が生産していた「香川の月」という乾麺が出てきますが(「昭和27年」参照)、シリーズ商品でしょうか。
うどんのゆで汁を「人造米」に?!
食糧不足の最中、神戸で「うどんのゆで汁を使って人造米を作る」という研究者が現れました。
素晴らしい人造米を発案! うどんの煮汁から
うどん製造の釜元では毎日糊状のうどん煮汁が一石余もできる。以前は乳牛の飼料として重宝がられていたが、今日では運搬の都合で蒐集できず、塩分が強過ぎてあたら小麦粉濃度の濃い汁が惜気もなく捨てられているが、「小麦粉と甘藷粉をこのうどん煮汁でねり合わせれば素晴しい『人造米』ができる」と全国の麺類業者に国策戦時食糧の普及を図っている街の科学人がある。「人造米」の発案者は神戸湊東区多聞通北国太郎氏(61)で、同氏はつねに「戦時下の食糧製造に携わる者は、貴重な食糧資材を100パーセント以上に生かす製品の加産増量の工夫が第一である」と、かねて小麦粉代用の甘藷粉の研究に腐心していた。
そこで眼をつけたのが、食糧製造業者から毛嫌いされる甘藷粉と小麦粉を半々に使って甘藷粉の欠点である捻着力の乏しさをうどん煮汁で補い、種々工夫をこらした結果、これを製麺機にかけ米粒大に切断して乾燥させると硬さも形もほぼお米のご飯に近いものが出来上がったので、北氏は麺類製造業者に広く呼びかけ、最近では大阪、姫路、和歌山各市の業者がどしどし人造米を製造し、米麦飯に混じて食糧の加産増量の実を上げている。
右につき、北氏は語る
私の研究の動機は「甘藷粉をいかにして多量粉に代替させ、しかも美味く食わせるか」という発願からで、うどん製造の釜元から捨てられゆく煮汁が完全に甘藷粉の欠陥を補ってくれました。神戸市内だけでもうどん製造業者が37軒あり、毎日40石内外の小麦粉の糊が捨てられている勘定で、これを生かして使うだけでも莫大な食糧加産になると、私は各市の業者に奨めています。
続報がないので、あまり大きな成功例にはならなかったのかもしれませんが、これも戦時中ならではのニュース。「神戸市内だけでもうどん製造業者が37軒ある」という情報が出てきました。
飲食店の不正摘発と価格統制
引き続き、飲食店の価格統制が厳しく取り締まられています。
外来者に暴利貪る 悪辣な飲食店主にお灸
公園前築港桟橋通り附近の外来者頻繁な場所にある飲食店で、従来暴利をむさぼっている実例が多々あるので、高松署経済警察ではこの辺の取締りを厳重にしている折柄、高松市栗林町公園前飲食店営業○○○○(51)は6日、通りがかりの一元客高松市中野町△△△△さん(38)に対し、かやくうどん一杯公定価格10銭也を超過して50銭を支払わせたことを発見。高松署で同人を厳重取調中であるが、その被害は600名に及び、一杯に対し50銭~70銭をむさぼっていたものである。
飲食物価格周知
最近、食料品の不足から夜泣きうどん屋、飲食店などが利潤追求をこととして価格違反を繰り返している現状に鑑がみ、高松署経済警察では15日午後2時から同署武道場に露店飲食店、飲食業者、カフエー、喫茶店主等約350人を招致して、追って改正せられる飲食物公定物価の周知を行い、改正後価格違反に対して断の字を加えることになった。
香川県庁公示 公定価格改正(麺類)
・玉うどん、玉そば各々1玉2銭5厘
・うどん(もりまたはかけ)…7銭
・そば (もりまたはかけ)…7銭
・冷うどん………………………8銭
・湯だめ…………………………14銭
・かやくうどん…規格によって10銭と15銭
(以下略)
農家の「米の拠出」の努力に対して「乾麺」が送られる
食料統制の一環で行われていた「米の供出」に関する記事がありました。
農家へ乾麺おくる 高松旧市の各家庭から
高松市農会では供出米につき新市域は勿論、旧市内各農家の愛国心に応えて完全供出を目指して努力しており、また各農家としても現下の米穀事情を深く認識して25日を以て割当を完遂した。一方、町内会連合会長会を25日市役所で開き、その席上、この報告を受けた出席の各連合会長はこの農家の涙ぐましい努力に対し、感謝報恩の意味で旧市の各家庭から乾麺一束ないし二束を送ることが提議され、満場一致これを近く実行することを申し合わせた。
高松市内各家庭から乾麺二万束供出 21日から農家へ贈る
高松市では、食糧増産に挺身する新旧両市内の農家が先に行われた供出米の納入に当り、自家残存米の如何に拘らず割当量の完全供出の実を挙げると共に、麦刈り、田植などに涙ぐましいほどの努力を傾けて敢闘し続ける労苦を偲び、これに報ゆる感謝運動としてこの程来、各町内会長を通じ消費者側の家庭から乾麺の供出を求めこれを各農家へ贈呈することとなり、これが供出運動を行っていたところ、全市の各家庭から総計二万束の乾麺が供出されることになったので、21日から23日までの3日間にわたってそれぞれの所属国民学校へ現品を持ち寄ってもらった上、市農会を経て農家へ贈ることとなっている。
戦中の「米の供出制度」は、農家が作った米を国が一定価格で強制的に買い上げるというもの。おそらく各都道府県に供出量の割当があって、それを完遂した高松市が、農家の努力に対して市内の各家庭から乾麺を集めて農家に配るという話です。家庭からの乾麺供出が「有料(市の買い上げ)」だったのか「無料で供出」だったのかがわかりませんが、とにかく大変な時代です。
昭和19年(1944)
うどんの価格が急速に値上がりしてきた
戦況が悪化の一途を辿る昭和19年のうどん関連記事は、値上げの話題で持ちきりでした。
香川県庁公示
調理せる麺類の最高販売価格指定
・うどん(もりまたはかけ)…1杯8銭
・そば (もりまたはかけ)…1杯8銭
・その他のうどんそば類………1杯10銭
飲食業者へ周知
善通寺署では1日午後、管内町村の飲食店業者100余名を招集し、岡田署長からうどんの価格改正その他防諜防犯等について周知した。
うどん値上げ 一杯11銭
うどんが値上げします。従来1玉40匁であった規格を50匁に改め、玉買の単価4銭、飲食店の素うどん単価11銭、生蕎麦1玉の規格を43匁に改め、調理したその単価13銭と改正されました。
パン、ウドン等価格改訂
小麦粉及びパン発酵原料酵母の値上げに伴い、農務省では21日パン、22日麺類の価格を改訂。即日実施することとなった。新小売値段は次の通り。
・干ウドン19銭(1銭値上げ)
・干麺18銭(包装荷造材料節約のため、従来の干麺を五分程度に切断した新製品)
・パン半斤14銭(1円値上げ)
前年5月に7銭だった「かけうどん」が、この3月に8銭に。さらに8月に、玉は少し大きくなったものの11銭に値上げになりました。それに対して、嘆きの投稿が。
(投稿)11銭のうどん
飲食店で売る「うどん」が1杯8銭から一躍、11銭に値上げとなった。ただし、それがため量目は幾分多くなった。そのうどん玉1つの卸し値段がわずか4銭…それを11銭也に売るのだが、これには燃料、調味料その他の物資を要することはもちろんではあるが、それでも相当利益を得ているはずだと勘定される。営業だから利益は当然あるべきことには違いない。試みに、僕が数日前、市内の某飲食店の行列に加わって食った「うどん」は温めもせずお玉をそのまま器に盛り、極めて水臭いダシ汁をほんの申し訳程度に、しかも極めて少しかけてあったに過ぎぬ。これでは食えぬと異口同音…それで11銭也とは。こんな簡便的営業本意の飲食店がなお他にあってはお客は迷惑だ。
価格統制下の値上げに市民から文句が出るということは、庶民レベルではまだ戦況についての危機感が薄いようにも見えますが、続いてこんな投稿も載っていました。
(投稿)高松市民へ
高松市民に告ぐ。私が高松市外を歩いているとよく見かけるのですが、食堂の前の行列、何十人何百人の並んだ列。開店12時というのに1時間、2時間前より1杯の雑炊、うどんを食わんがために並ぶ人。あれだけのムダな時間があればその労力を生産増強に回せばどれだけの戦力を生むか、行列に並んでいる人は考えてもらいたい。食糧配給不足のため苦しんでいるのは誰も同じだ。この大戦下、このような苦しみは当たり前だ。これを心得てこそ勝利は我の頭上にあるのだ。これからこのようなムダな時間を費やさずにお互いに戦力増強に努めようじゃありませんか。
食糧配給不足で、「食堂に開店時間の1時間も2時間も前から人が並んでいる」という状況が新聞に載っていました。それに対して「勝つためにみんなで頑張れ」という意見の投稿。やはり、平時ではありません。
「ドングリも食料に」という運動が始まる
そしていよいよ、「ドングリも食料に」という運動まで始まりました。
百万石のドングリ
今度、軍需省航空兵器総局では、全国のヨイコたちに呼びかけて百万石のドングリを集めることとなった。集めたものを粉にして、小麦粉を混ぜるとおいしいパンやうどんができるが、これを翼の増産に残業したり徹夜したりする産業戦士に配給して「腹が減っては…」の嘆きを解消しようというのである。…(中略)…ドングリには米と同じ程度の栄養価がある。そんなものを今まで捨てて顧みなかったことがむしろ不思議でさえあるが、しかもこれが地域を問わず大量にあることは力強い。航空兵器総局ではここに目をつけて、さしあたり百万石だけ集め、ドングリパンやドングリうどんを作って、産業戦士の食料の足しにしようということになったものである。…(以下略)
ドングリの粉と小麦粉を混ぜて「ドングリうどん」を作って食糧不足を補おうという話です。“練り込み系うどん”の走りかもしれませんが、事情が違うので何とも言えません。
といったところで、昭和19年が終了。「昭和20年」から始めた「新聞で見る」シリーズは平成30年まで言った後、『スターウォーズ』方式で明治に戻って(笑)、ようやく全体をつなげることができました。今後はテーマごとに讃岐うどんの歴史をテーマごとにまとめてみたり年表を整理したりしながら、「讃岐うどんの未来遺産」としての史料をブラッシュアップしていきたいと思いますので、引き続きご愛顧いただければ幸いです。




