香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

善通寺市文京町・昭和21年生まれの男性の証言

善通寺の“街”では「うどんは外で食べる」文化だった

(取材・文:

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  • vol: 192
  • 2017.04.20

うどんは店でちょっと食べて、お客さんには中華そばを出していた

 僕は小学校1年の時(昭和27年)から善通寺の駅前に住んでいたんですが、「家でうどんを食べた」という記憶はないですね。家で親がうどんを打つこともなかったし、うどん玉を買うてきて家で食べたというのも記憶にない。子供の頃からずっと、うちは「うどんは外で食べるもの」だったですね。

 外で食べる言うても、家族で食事に出かけるとかそういうんじゃないですよ。お腹が空いた時にちょっと腹を持たすのにうどんを食べるという感じでね。夕方に「お腹空いたー」言うたら、母親が「晩ご飯はまだやから、その辺でうどん食べて来な」いうて小銭を持たされてうどんを食べに行ってたという、そういう記憶だけがあります。

 それが便利なことにね、うちの家のすぐ近くにうどん屋があったんです。今、「ヒダ」いう散髪屋さんがあるところのすぐ前、善通寺の駅から50mあるかないかのところです。うどん屋というか、うどんと中華そばだけを出してた小さい食堂みたいな店ですね。寿司ですか? いや、寿司は置いてなかったように思う。うどんと、うどんのダシに中華麺を入れたような中華そばだけしかなかったと思います。

 けど、僕はその店で中華そばを食べたことはないんです。中華そばは高かったから、親がそんなにお金を持たせてくれなんだ(笑)。うどんの倍ぐらいしたんじゃないかな。中華そばはね、家にお客さんが来た時だけ、その店から出前を取っていました。それをお客さんに出していたんですけど、ついでに子供の僕の分も取ってくれて、それを家で食べていたんです。それ以外は食べさせてくれなんだ。だから、家にお客さんが来たら「中華そばが食べられる」いうてうれしかったのを覚えてます(笑)。それが昭和30年頃ですね。

小学生が農家の製麺屋で醤油だけかけてうどんを食べていた

 あと、これも小学生の時ですけど、善通寺東部小学校の友達らと一緒に近くの池によく泳ぎに行ってたんです。泥水みたいな汚い池でしたけど。そこで僕らは岸辺で泳ぐというか、水遊び程度のことをして遊んでたんですけど、達者な子は池の中心の方まで泳いで行くんですね。ところが、池の中心のあたりには水中に藻がいっぱい生えとるから、それに足が絡まっておぼれて死ぬやつもおったんです。まあそれでも遊ぶところがそんなにないからよく行っていたんですが、その時に、親がいつもトマトとかマッカウリと一緒に何十円か小銭を持たせてくれていました。

 トマトやマッカウリはね、池のそばに湧き水が出とる出水があってね、そこで冷やしておくんです。その出水は木の枠で囲んであるんですけど、中に入って行って、木の枠の下にトマトやマッカウリを入れておく。そしたら上の木枠に当たって全体が水に浸かったままで浮いてこないから、よう冷えるんです。池の水はぬるいけど、出水の水は冷たいですからね。それで、池で遊んどる途中で出水で冷やしたトマトやマッカウリを食べるわけですが、それでも子供やから腹が減るでしょ。そこで、池で遊んだ帰りに、うどんを食べに行くんです。

 東部小学校の近くに農家でうどんを作ってる家があってね。確か石井君っていう同級生の家で、もうほんまに納屋みたいなところでうどんを作ってた。製麺業を営んでいたというより、農家をしながらそういう製麺業もしてたんでしょうね。それで、そこで丼にうどん玉を入れてもろてね、ダシがないからそこにある醤油をかけて食うて帰りよったんです。

コシのないうどんは当たり前

 そこはうどんを作るだけで、お店はしてなかったですね。できた玉をどっかへ持って行って売ってたんでしょうね。まあ当時は自分の店でうどんを打ってるようなうどん屋は見たことがなかったから、店はみんなそういう製麺屋さんから茹でたうどん玉を買って、ダシをかけてお客さんに出してたと思いますね。うちの前にあったうどん屋も、店の中にうどんの釜もないし、おばさんが店でうどんを茹でたり玉を取ったりしてるのを見たことがありませんから。

 うどんのコシですか? たぶん延びたうどんしか食べたことがなかったと思いますけど、そもそも、うどんのコシなんか気にしたこともなかったですよ(笑)。食べられたらそれだけで十分おいしかったという記憶しかありません。

 当時(昭和30年頃)はね、家でご飯を食べるいうても、冷蔵庫なんかなかったから、夏なんか朝炊いたご飯が晩にはもう腐りかけてきよるわけです。それを親が匂いを嗅いでね、「ちょっと臭いな」いうたらごはんにお茶をかけて混ぜて、そのお茶を一旦捨てて、ほんでまたお茶をかけてお茶かけご飯にして食べよったんです。そんなもんを食べよったから、うどんが延びとろうが何しようが、僕にとったら腹が減っとるから何ともない(笑)。

街と農家で食生活のスタイルが全然違ってた

 昔はハレの日に「うどん、寿司、色のついた天ぷら(揚げ物)」が出てたんですか? いや、うちではそういうのはなかったですね。寿司はね、正月と秋祭りとお盆には家でバラ寿司を作っていましたけど、それぐらいですよ。バラ寿司を作った時にもうどんは作らなかったし、うどん玉を買ってきて家で食べるというのもなかったですね。とにかく、僕の住んでいたあたりでは、うどんは家で食べるものじゃなくて、店に行って食べるものだったんです。

 たぶん、善通寺でも街中とその周りの農家の方では食習慣がかなり違ってたんじゃないですか? 昭和30年代の善通寺の中心街は、かなり栄えてましたからね。ヘタすると丸亀より栄えてたかもしれん。お大師さん(総本山善通寺)の前の赤門筋の角に電車(琴平参宮電鉄)の駅があってね、丸亀から来る電車と多度津から来る電車と琴平から来る電車が赤門の駅で合流してましたからずいぶん賑やかでしたよ。本郷通りは当時、丸亀から来る電車の線路でしたからね。それで、駅の周辺には映画館も4軒もあって、店があり、食堂があり、宿があり。

 それから自衛隊があったでしょ。当時はまだ戦後だから自衛隊員も数が多くてね、その辺に出たら制服を着た自衛隊員がようけ歩いとったし、おそらく自衛隊員が飯も食うし飲みにも出るし、いろんなものも買うし。こんぴら参りの電車の駅とお大師さんと自衛隊景気で、今のJRの善通寺駅からお大師さんまでの間は、ほんとに栄えてましたよ。ところが、その一角から一つ外に出たら田んぼばっかりでね。だから、その頃の善通寺は「街」と「農家」で食生活のスタイルが全然違うみたいなところがあったんじゃないですか?

 言うてみたら、街の人らは「何でも買って食べる文化」で、農家の人は「自分のところで作って食べる文化」だったような気がしますね。僕の家も「味噌汁する」いうたら八百屋に行って豆腐から何から買うて来よりましたし、冷蔵庫がない時代ですから、たいていの家がその日にいるものをその日に買ってたと思います。だからうどんも自分の家で打ったりせずに、たいてい店に行って食べる。まあ、玉を買ってきて家でいろいろした人もおるかもわからんけど、僕の家ではそういうのはなかったですね。周りの家でも、僕はそういう話は聞いたことがありません。

 農家では打ち込みうどんやドジョウうどんをやってたんですか。いや、僕は子供の頃にそんなのを見たことも食べたこともないですね。近所でそんなのをやってるのも見たことがないし、やってたという話を聞いたこともありません。やっぱり、そういうのは農家の風習じゃないですか? 街とはずいぶん違うと思いますね。

昭和40年代前半に生活環境が激変した

 でも、街やいうても、そんなに贅沢なものを食べてたというわけじゃないですよ。うどん屋に行ってもメニューは「うどん」いうのがあるだけで、ネギと薄いカマボコが一切れか二切れ入ってるだけですからね。きつねうどんや天ぷらうどんみたいな具材メニューなんか見たことがないし。

 そういうのが出て来始めたのは、昭和40年代の中頃からじゃないですかね。そう思うのは、僕が就職してからの給料の上がり方がそうだったからです。僕が高校を卒業して就職したのが昭和40年なんですが、その時の初任給が1万5000円だったんです。それが次の年に1万7500円になって、次の年が1万9500円、その次が2万1500円と、年に2000円ずつ上がっていってたんですが、昭和45年の大阪万博があった年から5000円上がり、次の年に8000円上がり、その次の年は1万円も上がり、とにかく昭和45年頃からドーン、ドーンと上がり始めたんです。

 会社の寮もね、僕が入った昭和40年頃は木造の畳の8畳の部屋に2~3人が一緒に入っているような状態だったんだけど、昭和45年には1人ずつの個室になっていましたから。だから、食生活もあの辺からいっぺんに変わり始めたと思いますよ。うどん屋になんとかうどんとかいうメニューが普通に出始めたのも、そのあたりから後の話じゃないですかね。

 僕は会社勤めをし始めてからも、今ほどうどんは食べてなかったですよ。まあ、会社の社員食堂にうどんはあったように思いますし、外でも仲間とうどん屋に行くことはありましたけど、昼はどちらかというと喫茶店でランチとかいう方が多かったですね。昭和40年代、50年代はそんなに「うどん、うどん」言うてなかったし、周りの社員もそんなにうどん屋には行ってなかった。僕が意識してうどん屋に行き始めたのは、田尾さんらがやり始めてからですよ(笑)。

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