さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.16 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和34年(1959)> 

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 16
  • 2019.09.12

景気停滞気味につき、うどん関連記事も庶民生活をなぞる程度でした

 昭和34年の「うどん」関連記事は4本。まずは、香川県民の食生活の嗜好調査が行われ、「家庭でうどんがどれくらいの頻度で食べられているのか?」というデータが発表されていました。

(5月8日)

まだ多い米食 県民の嗜好調査まとまる

 香川県では県民の食生活改善と栄養指導のため、昨年夏、キッチンカーを県内55ヶ所に巡回させ、栄養料理のつくり方の実演指導を行ったが、この巡回指導を通じて県民の嗜好調査を行った結果がこのほどまとまった。

 主食として好きなものは米飯が62%、うどんが18%、ソーメン10.5%、パン8.5%となっており、やはり米食が大きなウェートを占めており、米食の内容をみると米だけを食べている家庭は43%、麦を混ぜている家庭が53%に達し、米麦混合のところが多い。一方、主食として粉食を食べる家庭は「うどん」を毎日1回食べるというのが17%、週2回が9%、週1回が7%で、時々食べるという家庭は30%となっており、パンの場合毎日1回が11%、週1回、2回といったのが各5%、時々食べるというのは4%であった。(以下略)

 調査のサンプル数が書かれていませんが、小数点以下が0.5%単位で出ているということは、サンプル数はおそらく「200」ですね。その結果は、
(1)「主食では米よりそうめんよりパンよりうどんが好き」と答えた人が18%。
(2)「うどんを毎日1回食べる」と答えた家庭が17%。
 とのことですが、今と比べてどうでしょう。「うどんが一番好き」の18%は今とそれほど大きく変わらないような気もしますが、「うどんを毎日1回食べる家庭が17%」は、今より断然多いのではないでしょうか。

 続いて今度は、「サラリーマンとうどんの関係」が窺える記事が2つ見つかりました。

(7月27日)

コラム/一日一言

 早くも香川県下で本年産米の出荷があった。25日、上高瀬農協へ売り渡された極早生20俵がそれで、例年より1週間も早いという。続いてここ2、3日のうちに、130~140俵の新米が同農協に集まるそうだ。電熱で育てた苗で4月中旬に田植を行い、天候に恵まれて土用入り早々収穫にこぎつけたという。早場米といえば、四国では南国土佐だけがその特権を誇っていたものだが、今では香川県でもこんなに早く出荷できるようになった。たゆまぬ研究と農業技術の賜だろう。相つぐ豊作と早場米の出荷で、最近は端境期などという有難くないことばも、有って無きがごとき存在となった。例年この頃になるとヤミ米はウナギ上りに値上りするのが常識となっていたが、今年はアベコベに安値を呼んでいる。もちろん5ヵ年連続の豊作予想もあろうし、農家の保有米のだぶつきも見逃せまい。

 しかし、消費者とは無いものねだりをする動物らしく、戦時、戦後は”銀メシ””純メシ”などと称して目の色を変えた白米に対しても、この頃はそれほど魅力を感じなくなっている。魅力というよりも、主食としての白米が従来のワンマン的権威の座から一歩後退したとも言える。子供たちは学校給食の影響ですっかりパン食になじみ、これが家庭にまで広がった。父兄の弁当も大低そばかうどんで間に合わすというサラリーマンが多いとなれば、三度が三度米食でまかなっている家庭はそうたくさんはなさそうだ。(以下略)

 「米離れの傾向がある」という内容ですが、文中、聞き捨てならないのは「父兄の弁当も大抵そばかうどんで間に合わすというサラリーマンが多い」というフレーズ。「弁当にそば、うどん」って、弁当箱に麺を入れて水筒にダシ入れて持って行ってたのか?! あるいは弁当でなくて「昼食にそば屋かうどん屋に行ってた」ということなのか? まさか、ビニール袋に麺とダシを一緒に入れて持って行ってた…わけはないと思いますが(昔うどん屋で見たことあるけど・笑)。具体的にどういうことなのかよくわかりませんが、とにかくこの記事は、この頃すでに「サラリーマンの昼食にうどん」というスタイルがポピュラーになっていたらしいことを示唆しています。

 続いて、「サラリーマンとビジネスガールの昼食」に関するアンケートの集計結果が出ていました。サンプルは男性75人、女性25人の計100人。ただし、このアンケート、四国新聞に載っていたけど東京からの配信記事の可能性もあるので、香川の実態じゃないかもしれない。というわけで、とりあえずこれは「都会の一般的な傾向」ということで、項目別に見てみましょう。

(10月29日)

金額で押える昼食 サラリーマンのアンケートから

 忙しいサラリーマンの家庭では、朝の食事は「トーストに紅茶」とか「ご飯にミソ汁」といった簡単なものになりがちですが、1日の活動のエネルギーを補給することからみれば、食事の栄養の割合は朝3、昼4、夜5といった配分にするのがもっとも合理的といえます。ところで、夕食は家庭の主婦があれこれ栄養を考え腕にヨリをかけてごちそうを作るので問題はありませんが、昼食は一つの盲点になっているようです。お弁当にしても、あるいは食堂で食べるにしても、日中の活動に必要なエネルギーが十分とられているでしょうか? そこで、アンケートにより100人のサラリーマンやビジネスガールの昼食を拝見してみました。

<アンケート>
サラリーマンは昼食に何を食べているか?

(1)種類別
弁当………………………男 9 女14
社員食堂…………………男21 女0
社外からとりよせた……男20 女5
社外へ食べに出かける…男25 女6

 男性は9割近くが外食、女性は半分以上が弁当という結果でした。まあ、それはそんなものですか。

(2)主食別
ご飯……男45 女21
メン類…男18 女3
パン……男11 女1
その他…男1

 「昼食に麺類」は、男性が75人中18人の24%、女性が25人中3人の12%で、女性が男性の半分しかない。次項のアンケートを見ると、この「麺類」の多くは「そば」のようですから、やはりこれは東京あたりのアンケートだと思われますが、香川でも「昼食に麺類」は明らかに男の世界でした。例えば、1980年代(昭和50年代~60年代)に高松市のオフィス街でいろいろ調査をしたところによると、昼のうどん店(特に大衆セルフ店)はほとんどが男のサラリーマンや営業マン、その他労働者たちの昼食の場と化していて、若いOLさんたちからは「1人でうどん店に入るのは恥ずかしい」という声がたくさん聞こえてきました。どうも「うどん」は若い女性にとって「オシャレじゃない、ダサいオヤジの食い物」的なイメージがあったようで、実際、うどん屋の大将も「若い女性は難攻不落のターゲット(笑)」とか言っていたのを覚えています。

 続いて3つ目のアンケートテーマは、「昼食に使う食事代とメニューの関係」。とりあえず列挙してみます。

(3)値段別 計77人(べんとう持参を除く)
●30円~50円…17%
30円(男2人)もりそば
35円(男1人)ざるそば 
50円(女1人)ちからうどん
50円(男9人)カツサンド、パンランチ、カレーライス、魚フライ・サラダ、コロッケサラダ チャーハン大もり

●55円~100円…68%
55円(女4人)弁当(肉だんご2、こんにゃく、ちくわ、油揚の煮物、白菜つけもの)
60円(男8人)たぬきうどんともりそば、もりそば2つ、たぬき大盛り、弁当、にぎりずし、盛合せランチ
65円(男4人)ソーセージとパン、ステーキとカキフライ、スパゲッティつき、茶めし・ミソ汁・湯豆腐
70円(男1人)カレーそば
75円(男2人)カツ丼
80円(女1人)カツライス
80円(男6人)カツサンドと紅茶、ハンバーグステーキ、カキフライとサラダ、やきそば、もりそば2つと生玉子
90円(女1人)赤飯おむすび、いなりずし、のりまきソーセージ
90円(男1人)カレーライス
100円(女4人)スパゲッティ、カキフライ、おでん、茶めしと赤だし
100円(男20人)天ぷらそば、もりそば2つ、じゃじゃめん、サンドイッチ、カレーライス、ポークカツ、ギョーザ、天どん、牛どん、すきやき丼、にぎりずし、チャーハン、カツサンドイッチとポタージュ、ハンバーグステーキ

●120円~150円…10%
120円(男5人)五目やきそば、中華丼、ハヤシライス、トーストとソーセージ、セロリ、紅茶・ヨーグルト、ちらしずし
140円(男1人)おさしみごはんと天ぷら
150円(男2人)カツライスとスープ

●180円~230円…5%
180円(男1人)おさしみと天ぷら
190円(男1人)ハムとチーズのサンドイッチとミルク
200円(男1人)スパゲッティ
230円(男1人)チキンライス(90円)+ビール1本(140円)

 数字とメニューがいっぱい並んで何をどう見たらいいのか迷いますが、わかることを整理してみると、まず、昼食に「55円~100円」を使うサラリーマン・オフィスガールが68%で最も多い。中でも「100円」使う人が男女合わせて100人中24人でトップということは、「昭和34年のサラリーマンは昼食に大体100円使っていた」と見てよいでしょう。

 次に、ここに出てくる「うどん」メニューは「ちからうどん」と「たぬきうどん」の2種類だけ(やはりこれは東京のアンケートですね)。ちなみに、うどんの値段は「ちからうどん」が50円。「たぬきうどん」は「もりそば」と合わせて60円、あるいは「たぬきうどん大盛り」で60円。ということは、天かすを乗せただけの一番安い「たぬきうどん」は一杯30円ぐらい…というのが昭和34年のおそらく東京のうどんの値段の相場だと思われます。

 さて、続いてコラム「一日一言」の中に、「うどん祭」なるイベントが出てきました。

(5月13日)

コラム「一日一言」

 夏の宵、ひややっこでグッと飲み干すビールの味は、日本人ならではのダイゴ味であろう。ところで、そのトウフが場末の八百屋のホコリの浮いたオケに沈んでいたり、薄汚いおかみさんの手でワシづかみされる図を考えたら、味も涼感も吹っ飛ぶだろう。ところが、ちゃんとポリエチレンの袋に入った栄養ドウフなるものが香川県下でもお目見えしてるのを、きのうから開幕した「たべもの祭」で知った。トウフは四角なものという従来の考え方を固守する人には、丸いトウフはちょっと取っ付きにくいだろうが、衛生的な面から見ればまことに有意義な”商品革命”といえよう。

 以前の中国はハエという虫に対しては非常に寛大で、ハエのとまらぬ中華料理などというものは考えられなかったが、共産政権はまず第一にハエを駆除して大国の台所をかためた。われわれも毎年、夏を迎えるごとに「ハエや蚊を撲滅せよ」との掛け声を聞くが、なかなか効果はあがっていない。ところで、食中毒や伝染病のはびこる季節を前に、県、高松市、県食品協会が音頭をとって「香川県たべもの祭」といういとも珍しい催しを行っている。食い意地がはった連中は飲めよ食えよのお祭かと勘違いするかも分らぬが、どっこい、そうは問屋が卸さぬ。食品衛生思想の普及向上をはかり、あわせて食生活の改善指導を行い、さらに観光香川の発展に寄与しようという、一石三鳥をねらったお役所と商社のPRだ。

 しかし従来行われたパン祭やうどん祭と違って、あまカラを筆頭に、デパートの食料品売場よろしく、あらゆる食品を展示しているのがミソで、お役所仕事としてはなかなかイカセル。小島政二郎の「食いしん坊」以来、読書界にもここ数年、食べものに関する本がブームに乗り、女性の料理講習熱やテレビ料理熱とともに、男性の食品や料理に対する関心も深まってきた。「台所の全権を女中や細君にまかせ切りでは、本当のうまいものは食えぬ」というディレッタントの声もある。それはそれとして、男性が台所や食べものに関心を持つのは決して恥ではない。料亭やレストランで一流といわれる板場やコックはすべて男性だ。芸術や文化を作り出すのはペンや筆だけではなく、包丁やマナ板のあることも忘れてはなるまい。

 「薄汚いおかみさんの手でワシづかみされる」などという今では許されないだろう表現があったり、中国共産党を称えるかのようなフレーズを紛れ込ませていたり、「ディレッタント(好事家)」などという“横文字”を使って気取ってみたりと、ツッコミどころはあちこちにあるのですが(笑)、「新聞で見る昭和の讃岐うどん」として見逃せないのは、後半にサラッと出てくる「うどん祭」の一言。戦後からここまで記事で一言も触れられていなかったイベントが突然出てきました。「従来行われた」とありますから単発イベントだったと思われますが、新聞記事になるほどの規模ではなかったのかもしれませんが、特に注釈もなくここに書かれているということは、県民にはそれなりに知られた催しだったとも思えます。主催者も内容も全くわかりませんが、とにかくうどん業界も何らかのイベント活動をやっていたということでしょうか。

(4月10日)

“おうどんが欲しい” 鈴木三重子さんら来高

 「愛ちゃん」もので今人気のテイチク専属の鈴木三重子さん一行21人は、さくらカーニバルの歌謡パレードに出演のため、9日早朝関西汽船で高松に到着した。宿舎ホテル・コトデンで鈴木さんは「高松は去年の4月に引き続き今度で二度目ですが、港の出船、入船はいつ見ても素晴らしいと思います。また私、おうどんが大好きなんですが、こちらではまだいただいたことがございませんので、今度は、と楽しみにしています」と東京からの旅の疲れも見せずに語った。

 鈴木さんは相馬盆唄で名高い福島県相馬の出身で、5年前テイチクから『籠の鳥エレジー』でデビュー。”愛ちゃん”もので爆発的な人気を呼んだ歌手で、カーニバルでは新曲『娘巡礼』も披露する。鈴木三重子さんと一緒に出演する3人の歌手は次の通り。
▽島久夫=新潟県出身、28歳。31年4月テイチク入社。デビュー曲『港の渡り鳥』、最近の曲に『波風まかせ』がある。
▽藤沢登志夫=秋田県出身、25歳。ビクターで『新相馬節』など民謡を唄っていたが、歌謡曲に転向して東芝レコードに新入社。『俺らは行くぞ』がある。
▽佐藤節子=神戸市出身、22歳。今年のテイチク入社の新人。『乙女心と花ことば』を唄う。

 『愛ちゃんはお嫁に』で紅白歌合戦にも出場した鈴木三重子さんが高松にやってきて、「おうどんを食べたい」とおっしゃっていたと。ということは、この頃すでに全国的に「香川ではうどんが名物」というイメージがあったということでしょう。ここまで、「地元PR用の物産のラインナップにうどん商品が全く出てこない」ということで「県や地元マスコミはうどんを格下に見ていたのではないか?」という疑念がありましたが、「うどん祭」や鈴木三重子さんのコメントを見ると、ちょっと見直してもいいかも(笑)。

 続いて、東京に住む香川県出身者を紹介する「東京のさぬきっ子」という連載コラムに、東京で讃岐うどんの店を始めた方が取り上げられていました。

(8月7日)

連載「東京のさぬきっ子」 当てた”讃岐うどん” 喜田博氏(うどん店主)

 「玉藻うどん」店主。都の西北、早稲田の森に一昨年から名物が一つ増えた。“玉藻よし”讃岐の国の住人、喜田氏の始めた手打さぬきうどんである。
 35年間の教師生活に終止符の打たれた日、この人に残されたものは何がしかの退職金と、6人の幼い子供だった。もっとも、上の2人は東京へ遊学中だったが、子供たちの教育のためには、というので一家をあげて上京し、うどん屋を始めたわけである。その動機は光子夫人(54)が昭和25年から高松高校購買部の食堂でうどんを扱っていたので、ある程度の経験と自信があったから。

 高松から職人も1人連れてきて学生相手に始めたのが当たった。東京のうどんが関西に比べてどれほどまずいのかということの証明のようなもので、ことに関西出身の早大生はこの店に来て郷愁を癒すようになった。自家製造のため店の裏に作った製めん所もすぐ手狭となり、現在雑司ヶ谷に移って職人も3人がかりでやっているが、至って好評。新宿、池袋の三越はじめ乾物屋へも卸しているが、すでに能力の限界と、うれしい悲鳴をあげている。在京県人の間でもよく知られてきたようで、遠く横浜あたりから定期的に通ってくる人もあるとか。今では次男の俊氏(27)がそれまでの勤めを止め、両親を助けて働いている。

 昭和30年代初頭に、東京の早稲田で自家製手打ちの讃岐うどんの店を始めた香川県人がいました。例によって「東京のうどんが関西に比べてどれほどまずいのかということの証明」とまで新聞で言い切れる“良き時代”(笑)ですが、文中で「昭和25年には高松高校の食堂でうどんが出ていた」という事実も判明しました(「昭和の証言」でも出てきたような気がしますが)。以上、昭和34年の「新聞に出てきた讃岐うどんの風景」でした。

そうめん生産は好調の様子

(4月6日)

今年は関東へも 池田町特産手延そうめん すばらしき売れ行き

 池田町特産「手延そうめん」の製造はこのほど終わったが、今年の売行きは目ざましく、全生産4万箱の70~80%を売り尽くし、昨年11月から製造を始めたそうめんは悪天候続きで目標の4万箱をわずかに下回ったが、昨年のストックが全然ないため販売業者から注文が殺到しており、この調子だと今月一杯で売り切れるのではないかとみられている。このため高値を呼び、1箱(18キロ入り)1340円から1350円(昨年より40円~50円高)で中国、四国方面へ出荷されている。なお、今年から新販路として神奈川、大阪方面へも出荷されている。

(12月15日)

目標は4万箱 寒ソーメン生産急調子

 寒ソーメンのシーズンにはいり、香川県小豆郡池田町の農家では農閑期を利用して生産に拍車をかけている。今年の生産目標は4万箱で、生産業者は約140軒。いま造られている製品は来春ごろから出荷を始め、夏までに終わる。価格は1箱1260円見当になる見込み。販路は大阪はじめ中国地方が主だが、今年は全くストックがなく、すでに予約申し込みが舞い込んでいるという。

 昨年はそうめん生産の記事が1本もありませんでしたが、今年は年度当初も年末も絶好調の様子。年末生産の商品は価格がちょっと安めの見込みですが、「品が十分ある時は価格が落ち着き、品薄になると価格が上がる」という経済のセオリーです。それにしても依然として、そうめんの生産状況は記事になるけど、うどんの生産や消費に関する数字は全く出てきません。

麺の摂取量が減っている?!

 では、恒例の「食生活情報」をいくつか。まずは「一日一言」で「麺類の摂取量がどんどん減っている」という指摘がありました。

(3月30日)

コラム「一日一言」

 世界が宇宙時代に入ったせいでもあるまいが、世の中のすべてが大型化してきた。映画しかり、船舶しかり、発電設備しかり、大きくなってないのは庶民住宅ぐらいだ。日本人の体格も年々大型になっている。昭和32年の小学5年生の身長、体重は明治32年の高等小学2年生(いまの小学6年生)と同じだという。成人については詳しい資料がないが、やはり少しずつ大きくなっているようだ。それでもアメリカの日本人二世とくらべると、まだまだずいぶんと劣るらしい。同じ日本人でありながら、生まれた時すでに平均して身長で2センチ、体重で300~500グラムの差があり、成長とともにこの差はひどくなり、3~4歳では二世の方が2倍近くよけいに伸びるという。だから、日本人が大型化しているといっても、手放しで喜ぶほどのことはない。まだまだ伸ばす余地があるわけだ。

 日本人の赤ん坊が二世ほどすくすくと伸びないのは、3~4歳ごろから”座る”クセをつけるので足が圧迫されるためともいわれる。しかし、一番大きい理由は栄養摂取が量的にも質的にも不十分だからだ。二世と日本人とでは摂取量で700カロリーの違いがあり、ことに肉類や卵、果物、バター、牛乳は二世の1割以下しかとっていない。これも日本人が貧乏のせいだと片づければそれまでだが、そうとばかりはいえない。戦後せっかく減っていた米食率は最近増え出し、逆にメン類、野菜、魚などの摂取量がどんどん減っている。また、食べることを切りつめてまで分不相応の服飾や娯楽に浮身をやつす習慣が強まっている。花見の行楽もいいが、ホコリを吸ってクタクタになるほどのカネがあるなら、肉や卵で晩の食卓を飾った方がいっそ賢明だろう。おたがいに”花よりダンゴ”といきたいものだ。

 昭和31年あたりから「米食が過ぎて栄養不足が懸念される」という記事が何度も出てきましたが、「麺類の摂取量がどんどん減っている」という指摘が初めて出てきました。ただし、数字が何も出てこないので、「どんどん減っている」と書かれても本当かどうか、あるいは減っているにしてもどの程度なのか、といった実態は正確にはわかりません。また、まだ貧しい時代だというのに「食べるのを切り詰めてまで服や娯楽にうつつをぬかす習慣が強まっている」とのこと。まあ、今も「ロクなものを食べずに、しかし金を食う遊びから抜けられない」という人たちがいっぱいいて社会問題になっていることを思うと、人の性(さが)は半世紀経ってもあんまり変わってないんですね(笑)。

 続いて、夕刊(四国新聞は1980年代中盤頃まで夕刊を出していました)に「農林省の栄養調査」のまとめが載っていました。

(4月22日)

農林省の栄養調査 脂肪は戦前の2倍に コムギの比重増す やはり「食生活改善」を示唆

 日本人の栄養摂取量は戦前と比べてどう変わったか、栄養面でどんな食料品をどんな割合で取っているか…という農林省の栄養調査の結果がまとまった。同省の統計調査部が昭和26年から32年までの7年間のあらゆる食料品の消費統計から国民1人あたりの栄養量をはじき出し、昭和9~13年の平均と比較したもの。厚生省の国民栄養調査が医学的な立場から「白米への頼りすぎ」を指摘、「食生活の改善」を強調しているのに対し、この調査は統計的な立場から「栄養量の米への依存度は低くなり、かわりに小麦の比率が伸びた。また動物性たん白質と脂肪の摂取量は戦前の2倍になった」といっている。しかし欧米の主要国に比べると栄養量はまだまだ低く、食生活改善の必要を示唆している点などは厚生省調査と一致している。(以下略)

 厚生省は「白米に頼りすぎ」と分析しているのに、農林省は「米への依存度は低くなっている」と言っています。それで両者とも「食生活を改善せよ」と主張しているということは、厚生省と農林省の「食生活の改善方法」は絶対方向性が違うはずなのに、それを「食生活改善の必要を示唆している点などは厚生省調査と一致している」とまとめちゃダメでしょう(笑)。

地元物産の新顔は木製品、サラダボール、グレースコートに「美人薬」?!

 続いて物産関係では、東京で開催された「国際見本市」に、香川県から新製品も含めて150点が出品されました。

(5月5日)

県の特産品150点を出品 東京国際見本市へ

 香川県では今日5日から22日まで18日間、東京で開かれる国際見本市に県の特産品150点を出品した。県関係の出品は晴海の第二会場に展示されるが、今年はアジロ盆、漆器などの古顔と顔を並べてニューフェースの木製品、サラダボール、グレースコートが初めて出品され、大いに期待される。出品の内訳は漆器6点(テーブルなど)、オモチャ14点、クリスマス用紙装飾品21点、木製品、サラダボール45点、アジロ盆10点、ビーチパラソル6点、グレースコート13点、しょう油6点、調味料1点となっており、昨年より30点ばかり多い。昨年は130件の引き合いがあったが、デザインで格段の進歩をみせている県の特産品のうち木製品、グレースコートなどはとくに海外に人気があるので、引き合いも昨年を上回るものと予想されている。

 サラダボールとかグレースコートとかクリスマス用の紙の装飾品とかビーチパラソルとか、「ほんとに香川の名産品だったの?!」みたいな名前がぞろぞろ並んでいます。百貨店の物産展じゃなくて「国際見本市」なので海外受けしそうなものを中心に出品したのかもしれませんが、県がわざわざ選んだのだろうから、当時はそれなりに自慢の特産だったのでしょうね(ちょっと疑いの目・笑)。

(1月30日)

小豆島の宣伝に一役 大阪の県物産あっ旋所内に案内所開設

 香川県小豆郡土庄町の小豆島自動車株式会社(堀本文治社長)では、このほど大阪市東区の県物産あっ旋所内に大阪案内所(岡井脩所長)を開設、オリーブの観光地小豆島を宣伝するほか、近く発売されるオリーブ油からつくる”美人薬”の宣伝にもつとめる。

 小豆島で、オリーブオイルを使った「美人薬」なるものが発売されるそうです。オリーブ商品はこれまでに「オリーブもち、オリーブ羊かん、オリーブもなか、オリーブせんべい、オリーブこけし、オリーブ人形、オリーブそうめん、オリーブもろみ、オリーブビスケット」が出てきましたが(「昭和30年」参照)、いよいよ美容商品に進出してきました。ちなみに、「オリーブ」は昭和30年代初頭にすでにこんなに関連商品の展開に頑張っていたのに、「うどん」の関連商品はまだ全く音沙汰がありません。

高松市職員が「コスプレ」で観光PR!

 地元のPR関連で、観光関係の記事も拾ってみました。

(1月23日)

イカすハカマに衣替え 春の観光団体へ歓迎陣

 観光客の歓迎にあの手この手を考えている高松市観光課では、今度そろいのハカマとジュバン10着分を5000円でこしらえた。ご自慢の郷土民踊『源平音頭』を商工観光課員が経費節約のため自ら演じて紹介していたが、ハッピや背広姿ではどうも感じが出ないので、奮発したという。男は黒のハカマ、女性は白のハカマで、黒のジュバンに「観光高松」と染め抜き、白ハチマキ、赤ダスキという剣豪ならぬ”歓迎春の陣”の構え。この春やってくる大口観光客を迎え、三好商工観光課長らがこの衣装を着用して栗林公園で大いに踊ろうと頑張っている。

 当時の高松市観光課の職員さんたちは、揃いの衣装を着て栗林公園で“ご自慢の郷土民踊”の『源平音頭』を踊りながら、観光振興の先頭に立って頑張っていたようです。同じ高松の郷土民踊の『一合まいた』は高松まつりの総踊りで披露されていますが、『源平音頭』は高松市民が目にする機会はほとんどなくなってしまいました。

(3月24日)

手はじめに尾道へ繰り出す 観光誘致民踊団

 高松市では来月、近県各地で行われる商工まつりに郷土民踊団などを繰り出して観光誘致宣伝を行う。まず手はじめは4月3日の「尾道商工まつり」で、内町同好会の盆踊り(約20人)が招かれて出かけるが、この機会に『旅は高松』『ドンチャン旅日記』の映画も持って行き、同地の公民館で公開する。これに次いで12日には岡山県笠岡、広島県因島両市で『二十四の瞳』にちなんだ仮装衣装をつけた市職員らが市中をパレード、春の観光客誘致に拍車をかける。

 今度は観光客お迎えの踊りではなくて、観光客誘致のために「郷土民踊団」を近県各地の祭りに繰り出すという「踊りの出張PR」大作戦。そして、高松市職員は『二十四の瞳』のコスプレ隊(笑)になって出動です。あと、『旅は高松』『ドンチャン旅日記』の映画2本をめちゃめちゃ見てみたいけど(笑)、残ってないのかな。

 続いて、四国新聞の社説が香川の観光行政に対する所見を述べていましたので、ちょっと長いですが当時の様子を全体的に知るために全文を再掲しておきます。

(2月23日)

社説/観光のマンネリを破れ

 ”全県これ観光地”といってもいいほど香川県は観光資源に満ちている。瀬戸内海国立公園の中心を占め、栗林公園、屋島、金刀比羅宮、善通寺、小豆島をはじめ名勝、史跡は数多く、しかも交通の便がよく、温暖で雨の少ない天候にも恵まれて、毎年全国からの観光客は数百万人を数え、近年は外人観光客も増えてきた。また名物のお遍路さんも年間30万人を超えるという。他府県からみれば、まことにうらやましい立地条件がそろっている。

 だが、われわれはこのあまりにも恵まれた条件に甘えすぎてはいないだろうか。また、マンネリズムに陥り、一つのカベに突き当たろうとはしていないだろうか。そして、今にして県下官民が一層の努力を尽くさなければ、他府県に観光客を奪われる恐れはないだろうか。観光シーズンを前に、いらぬ取越し苦労だといわれるかもしれないが、われわれには、こうした懸念を捨て切れない。各観光協会などでは、それぞれ手ぬかりなく今年の観光客誘致計画を立てているようだ。しかし、他府県でも同じように、あるいはそれ以上に新観光資源の開発、宣伝に務めている。わずかな改善ぐらいではこれまでの観光客を維持するのがせいぜいで、一層の発展は望めないに違いない。この際、香川県下の観光事業に再検討を加える必要があろう。

 観光事業で改善すべきことといえば、すぐみやげ品の品質改善が問題になる。”名物にうまいものなし”ぐらいならいいが、時には不良品やインチキ物が出て”観光香川”の信用を台なしにすることがある。したがって業者の良心に訴えるとともに例の”推奨制度”を強化することは、ぜひ必要であろう。また、出版物やマスコミを通じての宣伝、観光宣伝隊の派遣なども非常に大切である。しかし、こうした努力は観光県としては、年じゅう片時も休みなく続けなければならないもので、観光香川の声価と実績を飛躍させるためには、これだけでは不十分である。全県的な統一した観光政策がなければならぬ。そうした意味で、香川県観光協会を社団法人に組織変えして体制の強化をはかるとの案には賛成であるが、それとともに、県当局がさらに積極的態度をとることが望ましい。

 これといった大産業のない香川県では、観光事業を過小評価してはならない。予算がないからと消極的政策でお茶をにごすことは許されない。栗林公園の入園料引上げを考える前に、もっと観光というものに本腰を入れてしかるべきではないか。観光地の繁盛は、県当局の重点施策といわれる青少年対策に悪影響を及ぼす面もあるかもしれないが、観光政策がよろしきを得れば、これも最小限に食い止められよう。全県を統一された観光地として、各地を有機的なつながりの中で、総合的に発展させる政策をうちたてるべきである。

 業者としても、各地が手をつないで、相ともに発展するよう努力すべきである。観光客の中には「観光ルートが確立されていないので、すばらしい観光資源を見落す」という苦言もある。栗林公園~屋島~琴平を回るものだけが観光客ではない。観光客の年齢や階層に応じたいくつかのモデルルートを決め、その客筋にマッチした設備をつくり、宣伝のポイントも、ここに置くだけの配慮がほしい。また、県下の各行事と直結した誘致も必要である。金刀比羅宮の大祭などは全国から参拝客が集まるが、たった一晩で帰らせる手はない。参拝と観光の二つを堪能して帰ってもらうようなコースを組んで宣伝すべきだ。さらに、徳島の阿波踊や西大寺の裸祭のような行事も、一朝一夕にできるものではないが、考えていい問題であろう。

 ところで、県下には、県民自身が見逃がしている観光資源がまだまだ多い。例えば、香川県特有の無数のタメ池は、見馴れぬものにはまさに奇観ともいうべく、修学旅行団などには絶好の社会科的観光資源である。満濃池や安戸池その他を観光地として開発し、宣伝していいはずだ。また、塩飽諸島、直島付近や大槌、小槌の景観はすばらしいの一語に尽きる。こうした島々に観光施設を設け、これに観光船ないしはショーボートを配すれば、瀬戸内海国立公園の真価は生きて来よう。採算のとれる経営も不可能ではあるまい。旅館とみやげ店と歓楽街中心の観光事業から脱皮して、近代化への息を吹込むことによってのみ、観光香川の新たな発展が約束されよう。

 昭和34年時点で「毎年全国からの観光客は数百万人を数え」とあります。「数百万人」が何百万人かわからないところがアバウトですが(笑)、県の観光協会が発表している年別の観光客入込数によると、瀬戸大橋の架かる前年の昭和62年(1987)に「490万人」とありますから、推測するに200~300万人。そこから経済成長期を背景にジワジワ増え続けて62年に490万人になったという感じでしょうか。ちなみに、橋の架かった昭和63年(1988)は1035万人に跳ね上がり、そこから800万人、700万人と落ち、この20年くらいでジワジワと盛り返して、平成25年(2013)から900万人を超えてきたという推移(観光協会の計算方法による)です。観光客数の増加に最も貢献したのは記事にあるモデルルートや観光施設やイベントやお土産や宣伝ではなく、橋というハードだったと言ってしまえば身もフタもありませんが(笑)。

 しかしそれでも地道な観光プロモーションは大切なことで、昭和30年代~40年代の観光は社員旅行や慰安旅行、修学旅行等の団体旅行の時代ですから(農協の団体旅行もこの頃から活発になりました)、記事にあるようなご意見が出てきて当然だったのでしょう(個人旅行が主体になって来た近年においても、この60年以上前の観光戦略と同じようなことをしているところがまだまだあるようですが・笑)。ただし、時代がそうだったのか、あるいは視点が欠けていたのか、この観光政策への提言の中に「グルメ」の要素は全く出てきません(もちろん「讃岐うどん」などは触れられてもいません)。

 あと、「これといった大産業のない香川県では観光事業を過小評価してはならない」とありますが、その後の香川県を経済的に発展させたのは観光産業ではなく、番の州を中心とする工業地帯の完成や高松市を中心とする「支店経済」の発展によるものが大きいという、これも経済活性化の原則に沿った経緯です。

昭和34年のうどん関連広告・求人広告

 この年のうどん関連、飲食関連の広告は、「四五銭亭」と「高松駅弁」が年賀広告と皇太子殿下ご結婚祝賀広告に出稿(いずれも名刺広告)していた他は見つかりませんでした。また、求人広告も「金泉食糧商会」が年間16本の単独求人広告を出していただけで、職安の求人は昨年より減少(新聞掲載が減少しただけかもしれませんが)。求人内容を見ても「日収・月収」の額は横ばいか減少気味で、景気のいい雰囲気は特に見られませんでした。しかし、「神武景気」の後、昭和33年には「なべ底不況」に陥ったのですが、34年は「岩戸景気」が始まったという局面。ここから再び、所得が伸び始めることになります。

(昭和35年に続く)

  • TAGS: 
  • 関連URL: 

ページTOPへ