さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.45 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和62年(1987)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 45
  • 2021.12.27

瀬戸大橋開通1年前。うどん業界も沸き上がっているようで、いないようで…

 瀬戸大橋(児島~坂出ルート)開通の1年前になりました。昭和53年(1978)10月10日の着工以来、「瀬戸大橋時代到来」の言葉は新聞にチラホラと出ていましたが、開通を間近に控えて話題も増えてきたみたいなので、まずは「瀬戸大橋」と「うどん」絡みの記事から拾っていきましょう。

1月に福島市で瀬戸大橋PRを兼ねた「四国の観光と物産展」開催

 毎年のように県外各所で行われている四国や香川の観光物産展で、前年あたりから「瀬戸大橋のPR」が始まっています。この年の「四国の観光と物産展」の皮切りは、福島県で行われました。

(1月21日)

四国人気わき起こる 福島での観光・物産展好評

 みちのく東北の販路開拓、拡大と「青い国・四国」の観光PRを図るため、毎年開催されている「四国の観光と物産展」(四国ブロック物産斡旋協議会=幹事香川県=主催)がこのほど、福島市内のデパートで開かれ、開催延べ日数は一日短かったものの、前年を上回る売上高を記録するなど好評を得た。同展は四国4県の郷土物産と瀬戸大橋の開通を間近に控えた四国の観光PRを図るため開いているもので、これまでにも東北新幹線の開通を機に二度ばかり仙台市内で開いて好評だった。会場には各県単位に特産品コーナーを設け、香川からは手打ちうどんやオリーブ油、民芸品、菓子類が出品。特に、手打ちうどんの実演と茶店方式による即売コーナーは人気を集めた。…(以下略)

2月の農水省の特産品イベントでも瀬戸大橋をPR

 続いて、2月に行われた農水省の特産品PRイベントでも、香川の特産品と瀬戸大橋がPRされていました。

(2月3日)

瀬戸大橋と香川の特産PR 農水省「ふるさとの週」オープン うどんに人気 実演と試食コーナー

 飛躍の時代を迎えて、変わりゆく香川の姿と特産品を全国にPRする農林水産省の「ふるさとの週(瀬戸大橋と特産品の里・香川)」が同省の消費者の部屋で2日オープン、荻野副知事、衛藤政務次官、鶴岡漁政部長らが出席して開会式が行われた。この催しは、同省が消費者とのコミニュケーションの充実を図ろうと59年から各県単位に特別展示を行っているもので、今回が6回目。オープニングに先立ち、国の重要無形文化財に指定されている滝の宮念仏踊が同保存会の有岡喜一さん(74)ら33人によって披露された。

 会場正面には瀬戸大橋の大型パネルとレタスやキウイ、ミカンなどの特産品で作ったシンボルディスプレーを設置。「八朔」や「オカイレとニワアゲ」といった季節の郷土料理などが展示され、手打ちうどんの実演と試食コーナーが人気を呼んだ。地下の売店ではうどんやオリーブのピクルス、レタス、ニンジン、キウイ、茶などの即売も行われた。13日までの期間中、1日約1000人の入場者が見込まれており、初日から3日間は「さぬきうどんの日」として1日約200食が入場者に振るまわれる。また、果実や水産加工物、冷凍食品の試食や地酒の利き酒といった小イベントも設けられ、香川の味をPRする。…(以下略)

 こちらは農水省の「消費者の部屋」なる場所で行われたとのことなので、小規模な催しでしょうか。記事中、「八朔やオカイレとニワアゲといった季節の郷土料理…」とありますが、「オカイレ」は秋の収穫のこと、「ニワアゲ」は籾(もみ)すりの終わりのことで、どちらも郷土料理名ではなくて農作業の呼称。ちょっと紛らわしい文章の記事でした。

巨大な「うどんで作った瀬戸大橋」が登場

 続いて、3月20日から東京の新宿で「瀬戸大橋と讃岐うどんまつり」が開催されることになりました。1月の福島の「四国の観光と物産展」の幹事県も香川なので、年度末の香川県の観光課は大忙しです。まずは「まつり」の告知記事から。

(1月24日)

讃岐うどんで大橋模型 PR作戦の目玉 東京で「まつり」開催 首都圏に架橋博売り込み(県・県観光協会)

 県と県観光協会は坂出市などとともに首都圏に瀬戸大橋や瀬戸大橋博’88を売り込もうと、瀬戸大橋博開幕1年前の3月20日から3日間、東京・新宿の新宿住友ビル「三角広場」で「瀬戸大橋と讃岐うどんまつり」の開催を計画している。まつりには讃岐うどん製の全長12メートルに及ぶ瀬戸大橋模型を”目玉商品”として出展し、約5万人と見込んでいる入場者に瀬戸大橋のダイナミックなスケールを印象づけたいという。

 瀬戸大橋博は総事業費が1兆円を超える国家的プロジェクトであるとはいえ、全国的にはほとんど知られておらず、まして瀬戸大橋博の知名度は限りなくゼロに近いというのが実態。そこで、知名度では”先輩格”の讃岐うどんをPR作戦の柱として使うことになった。その模型は瀬戸大橋ルートで最大規模の南備讃瀬戸大橋をモデルにする。素材は、生麺では技術的に難しいため、乾麺とそうめんを使う。工夫を重ねた末、橋脚はバルサ材に麺を張りつけ、メーンロープはピアノ線に巻きつけることにした。使用する麺類の量は約80キロ。すでに昨年11月末から準備を進め、完成までほぼ3カ月を見込んでいる。大きさは実物の約150分の1に相当する全長12メートル、幅0.5メートル、高さ1.5メートル。完成すれば”ギネスもの”のうどん模型になる。…(以下略)

 またまた「うどんで瀬戸大橋」が作られることになりました。前年の11月に東京で開催された「青い国四国、高松とさぬき路観光キャンペーン」では「造形作家吉田稔郎氏が讃岐うどんを使って製作したミニ瀬戸大橋」が登場しましたが(昭和61年参照)、今度は「全長12メートルの瀬戸大橋の模型」を作って飾ろうという計画です。3月の「瀬戸大橋と讃岐うどんまつり」でお披露目となりますが、わずか数ヵ月の間に2回も「うどんで作った瀬戸大橋」を見せられる東京都民は一体どんな印象を持つのか(笑)、感想を聞きたいものです。

 そして2月終盤に、その「うどんで作った瀬戸大橋」が完成しました。

(2月25日)

うどんで大橋の雄大さ 来月東京で展示 随所に”工夫の跡”

 県と県観光協会などが3月20日から東京・新宿の新宿住友ビル三角広場で開く「瀬戸大橋と讃岐うどんまつり」の目玉商品・讃岐うどん製の瀬戸大橋模型が24日、丸亀市内の工芸会社で完成した。模型は瀬戸大橋ルートで最大規模の南備讃瀬戸大橋がモデル。大きさは実物の約150分の1に相当する全長12メートル、幅0.5メートル、高さ1.5メートルで、材料の乾めんは約100キロ、1300人分を使った。昨年11月中旬から同市内の工芸会社作業場で製作が始まり、合板、バルサ材、ツガの木などでまず橋脚、橋台、橋げたの骨組みを仕上げ、その表面に長さ25センチ、幅3ミリの板状の乾めんをのりで張り付けていく”工法”で作業が続いていた。

 製作に当たってはアルバイトら延べ250人を動員。本四公団の設計図を基に橋げた、主塔も実物通りに再現、特に優美な曲線を描くメーンロープは、ワイヤにチューブを巻いてその上からそうめんを張り付けるなど随所に工夫の跡がありあり。作業場では、同時出品の乾麺製の高さ2.7メートルの金毘羅灯籠、2.4メートル四方の瀬戸大橋ルート立体地図も完成。瀬戸大橋模型は中央部で2つに分けた上、他の作品とともに3月18日、大型トラックで陸路東京に運び、会場で橋げたを吊るハンガーロープに見立てたそうめんも取り付ける。ちなみに、高灯籠などを含む全作品の製作費は231万円。設計、製作監督を担当した丸亀市内の建築家大西泰弘さん(32)は「乾麺が湿度により伸び縮みするため、張り付け作業に苦労した。大橋の雄大さが少しでも見る人に伝われば幸いです」と話している。

S62年記事・うどんの瀬戸大橋

 記事には「讃岐うどん製の全長12メートルに及ぶ瀬戸大橋模型」と紹介されていますが、正しくは「木製の瀬戸大橋にうどんとそうめんを張り付けた模型」でしたか。まあ、全長12メートルの吊り橋を全面的に“うどん”で作ったら強度が持たないのでしょうけど。しかし「うどん」と「瀬戸大橋」のPRに「うどんで作った瀬戸大橋」を2回もやるとは、なんともストレートな(笑)。

瀬戸大橋と四国の観光地の認知度調査

 その「瀬戸大橋と讃岐うどんまつり」について、日本経済新聞がイベント内で集めたアンケート結果を記事にしていました。

(5月30日)「日本経済新聞」

東京で調査、「瀬戸大橋、よく知らない」半数超す 観光地、旧態依然のイメージ

 瀬戸大橋がどのような橋かよく知らない人が東京で58.1%。香川県がこの3月に瀬戸大橋をPRする催し物会場で調査したところ、こんな結果が出た。行ってみたい四国の観光地では、琴平、小豆島、鳴門(大鳴門橋)、道後温泉と以前から全国に知られた観光名所が上位を占めたものの、他の観光地は知名度が低く人気薄。瀬戸大橋を生かした広域観光ルート、余暇時代を反映した滞在型観光が叫ばれている中で、四国の観光地が旧態依然としたイメージのままで捉えられていることが浮き彫りにされた。

 この調査結果は、今年3月に県が東京・新宿で瀬戸大橋のPRと香川県の観光宣伝をした「瀬戸大橋と讃岐うどんまつり」の会場内で来場者にアンケート調査し、1649人から得た回答をまとめたもの。瀬戸大橋に対する知識を聞いた問いに対しては「全く知らない」が全体の2.6%、「あまり知らない」が8.3%、「名称程度は知っている」が47.2%で、橋の内容を知らない人が半数を超えた。一方、「概略または全部知っている」人は合計41.9%。特に20歳未満の世代で知名度が低かった。この調査は瀬戸大橋の模型や解説を展示した会場でのデータなので、実際の知名度はもっと低いとみられる。

 行ってみたい四国の観光地の問いでは、四国の代表的な26カ所の観光地の中から選択方式・複数回答で答えてもらったところ、琴平(全体の56.0%)、小豆島(52.4%)鳴門(51.8%)、道後温泉(49.8%)、足摺岬(37.3%)の人気が高かった。だが他はすべて30%以下。10%を切ったものも四国カルストなど9カ所あり、全般的に知名度が低い。県観光振興課は調査結果を「鳴門(大鳴門橋)の人気が高いことから瀬戸大橋も今後かなりの人気が予想される」と分析している。しかし、交通基盤整備が遅れた四国では人気の高い観光地だけを選んだ広域観光ルート作りは難しく、瀬戸大橋という絶好の観光資源を活用するには、積極的な広報活動を始め、かなりの努力が必要になりそう。

 新宿で開催された「瀬戸大橋と讃岐うどんまつり」に来場した人のうち1649人に「瀬戸大橋」の認知度アンケートを行ったところ、

「瀬戸大橋を全く知らない」…………………… 2.6%
「瀬戸大橋をあまり知らない」………………… 8.3%
「瀬戸大橋の名称程度は知っている」…………47.2%
「瀬戸大橋の概略または全部を知っている」…41.9%

という結果だったそうです。記事はこの結果から「瀬戸大橋がまだまだ知られていない」とまとめていますが、例えば、青函トンネル開通1年前に東京で同じようなアンケートを採ってもよく似た結果になりそうな気もしますので、瀬戸大橋に限らず、このあたりが東京の人の「地方の大きな出来事」に対する一般的な認知度ではないかと思います。また、四国の観光地の知名度も、インターネットのない時代の少し偏ったサンプルですから、それほど悲観することはないかもしれません。

 ただし、「交通基盤整備が遅れた四国では、人気の高い観光地だけを選んだ広域観光ルート作りは難しい」というのはご指摘の通り。今ではピンと来ない人も多いと思いますが、当時は四国に高速道路がほとんどなかったため、かなり大きな問題でした。何しろ、瀬戸大橋開通前後の四国の高速道路は、

●昭和60年(1985)3月…「三島川之江~土居」が開通。
●昭和62年(1987)10月…「大豊~南国」が開通。
●昭和62年(1987)12月…「善通寺~三島川之江」が開通。
●昭和63年(1988)4月…「瀬戸大橋」が開通。
●平成4年(1992)4月…「高松西~善通寺」と「坂出~坂出JCT」が開通。「瀬戸大橋」と「高松自動車道」が結ばれる。

という状況で、瀬戸大橋開通時には「善通寺~土居」と「大豊~南国」の分断された高速道路が2本あるのみ。瀬戸大橋を渡って四国に入ってきた車はいきなり坂出ICで降りて一般道に入るしかなく、四国内もほとんどが一般道を使わなければ行き来できませんでした。瀬戸大橋と高松自動車道がくっつくのは橋が開通してから4年後のことで、それでもそこから高知や愛媛や徳島へは一般道を必ず使わないといけないという状態がしばらく続いていましたから、記事にある「交通基盤整備が遅れた四国では、人気の高い観光地だけを選んだ広域観光ルート作りは難しい」というのは、当時は全くその通りだったわけです。

屋島山上の「レストランセンター」が、うどん専門店を核にした改築を開始

 
 続いて、こちらも日本経済新聞の記事。屋島山上にある「屋島レストランセンター」が、瀬戸大橋開通をにらんで「うどん専門店を核にした大改築」に着手しました。

(10月4日)「日本経済新聞」

屋島登山鉄道、大型うどん店を核に山上観光施設を改築

 源平の古戦場・屋島でケーブルカーを運行する屋島登山鉄道(本社高松市)は、屋島山上で観光施設の大型改築に着手した。かつての宿泊施設を取り壊して、250人収容の大型讃岐うどん専門店を核にした観光客の休憩施設を63年3月に開業する。同年4月の本四連絡橋・瀬戸大橋開通後に四国を訪れる貸し切りバス団体客の受け皿施設を狙い、このところ沈滞気味の屋島観光の巻き返しを図る。

 改築するのは「屋島レストランセンター」の別館。瓦葺きの和風建築で2階建て、延べ床面積約800平方メートル。1階にうどん専門店、2階に250人収容の多目的小ホールを設ける。総工費2億円。物産販売店などがある本館と合わせ、瀬戸大橋開通後、急増が予想される団体観光客を受け入れ、フル稼働させる計画。大西社長は「瀬戸大橋の観光ブームはせいぜい2年か3年の短期決戦型になる。屋島の立地条件を考えた上で観光客の休憩施設を作ることにした」と話している。屋島を訪れる観光客はこのところ減少傾向にある。60年には大鳴門橋開通ブームで観光客が急増したが、61年以降沈静化、同社のレストランも今年9月の利用客は61年の半分に落ち込んでいるという。

S62年記事・屋島レストランセンター改築

 瀬戸大橋開通直前に開業予定で、社長は「瀬戸大橋の観光ブームはせいぜい2年か3年の短期決戦型になる」との見立てですが、県観光協会が発表している「県内主要観光地の入込客数推移」によると、屋島の観光客入込数は、

●昭和62年(1987)…120万3000人
●昭和63年(1988)…213万2000人
●平成元年(1989)…173万7000人
●平成2年(1990)…137万9000人
●平成3年(1991)…130万4000人
●平成4年(1992)…123万1000人
●平成5年(1993)…108万7000人
●平成6年(1994)… 94万2000人

となっていて、橋の開通で2倍になった入込数は4年後に開通前と同じくらいにまで減少。まさに社長の見立て通りになりました。以後、屋島の観光客入込数の減少傾向は止まらず、近年は10年以上ずっと年間50万人前後で推移。その間、屋島ケーブルは平成17年(2005)に廃線となりました。

スーパー「ヤマト」が生うどんの通販に乗り出す

 日本経済新聞から、うどん関連の経済記事をもう1本。

(11月7日)「日本経済新聞」

スーパー「ヤマト」、生うどんを通販 鮮度維持に宅配便 年内にも関東・関西で

 地場スーパーのヤマト(本社高松市、社長久保平四郎氏)は、年内にも讃岐名物の生うどんの通信販売に乗り出す。自社の生鮮加工センターでスーパーの商品用に生産しているうどんを増産、関東、関西の大消費地を市場に、宅配便を使って夕方配送し、翌日午前中に配達する。半生や冷凍もののうどんの通信販売を手がけている例はあるが、生うどんを扱うのは珍しく、古里ブームを追い風にしてひと味違った讃岐うどんを売り込んでいく考えだ。

 通信販売の顧客層には一般消費者と飲食店など業務用需要の二つを開拓、1食単位の小口から大口の注文まで幅広く対応する。一般消費者への売り込みの手がかりとして、香川県出身者へダイレクトメールを送って需要を掘り起こす。通信販売用のうどんは現在、スーパーで販売するうどんを作っている高松市内の同社のプロセスセンター(生鮮食品加工工場)で生産する。このほど製造工程を機械化し、生産能力を日産1万5000食(8時間稼働)に増やした。現在は手作業主体に1日2000食作っているが、通信販売開始と同時に3000食に増やし、増産分の一部を通信販売に回す計画。

 久保社長は「現在、うどんメーカーなどが手がけている通信販売用のうどんは、ある程度乾燥させているものがほとんどだが、当社は完全な生うどんを出す。宅配便の配送網を使えば鮮度が落ちないうちに配達できる」と話している。通信販売進出は、瀬戸大橋の開通を控え、同社の地盤とする香川県下で大型店の進出計画や増床計画が相次ぎ、競争が激しくなると予想されるため、スーパー店頭での小売部門以外にも販路を開拓、収益源を確保しようというのが狙いだ。

 スーパーマーケットから、うどん商品の製造販売計画が出てきました。うどん業界以外からのうどん商品への参入がここで新聞に大きく出てきたということは、当時のうどん商品が地元では“ビジネスの種”として広く認知されていたということでしょう。

昭和61年の香川の「商業統計」発表。「うどん・そば店」は599店

 久しぶりに県の商業統計調査が行われ、昭和61年のうどん店の数が出てきました。

(6月21日)

「61年商業統計調査」商店数初めて減少 売上高伸び最低、持ち帰り食品普及響く

 県内のバー、スナックなどを除く飲食店の年間販売額(売上高)は600億円の大台に乗ったが、伸び率は過去25年間で最低となり、商店数は初めて減少していることが県統計調査課の61年商業統計調査でわかった。このデータには若者らに人気の高いファーストフード店やコンビニエンスストアからの持ち帰り食品は含まれておらず、最近の食生活の多様化を反映、県下の飲食業界に地殻変動が起きていることを示している。

 商業統計調査は「卸・小売業」と「飲食店」の2種類に分け、各種行政施策の基礎資料として活かそうと2~4年ごとに実施している。今回の飲食店調査は昨年10月1日現在で全飲食店を対象に進めた。ただ、遊興、アルコール飲料を伴う料亭、バー、酒場などは除かれている。調査によると、飲食関係の商店数は喫茶の1797店をはじめ、一般食堂925店、うどん・そば599店など計4595店。前回の57年調査と比べ、4.1%減少した。飲食店の数が落ち込んだのは37年以降で初めて。業種別では日本料理や喫茶の減少が目立つ。

 全体の年間売上高は600億6900万円。600億円台を超えたが、前回調査からの伸び率はわずか5.2%にとどまった。伸び率が一ケタに落ち込んだのは、やはり37年以降でこれが初めてのケース。業種別の売上高トップはなんといっても喫茶。店舗数が多いだけに、ケタ違いの162億700万円にのぼっている。ここ数年、外食産業が目ざましく成長しているにもかかわらず、飲食店が全般で振るわないのは、ハンバーグやドーナツをはじめ、終夜営業のコンビニエンスストアからの持ち帰りが手軽な食品として人気を集め、着実にシェアを広げていることによるものと見られている。こうした中で、1店あたりの売上高と伸び率をみると、都市近郊などに本格店舗の増えているうどん・そばは1453万円にのぼり、43.9%増と売上高を大幅に伸ばしている。生き残り競争の激しい日本料理も3780万円、26.0%増と健闘している。

<61年県下飲食店の状況>

(業種)   (商店数)(販売額)   (伸び率)
一般食堂…………925店  99億3449万円 △ 4.0%
日本料理店………190店  71億8215万円  26.0%
西洋料理店………120店  58億4613万円   4.4%
中華その他………291店  46億3915万円 △17.6%
うどん・そば店…599店  87億0128万円  43.9%
すし店……………180店  31億4430万円   4.1%
喫茶店………… 1797店 162億0651万円  12.2%
その他飲食店……493店  44億1459万円  26.8%

 大まかな概況としては「コンビニやファストフード店の持ち帰り食品が若者の間で人気になり、県内の飲食店の数が減少している」とのことですが、「うどん・そば店」の数が「599店」とありました。昭和54年の商業統計では「約600店」という数字が推計されていますので(「昭和54年」参照)、大体そのあたりが当時の実数に近いのだと思われます。しかし、識者やメディアの間では昭和50年代終盤になってもまだ「うどん店は2000軒、3000軒とも言われる」とかいう表現がまかり通っていたように、“うどんの話”には「データやファクトより情緒」みたいなところが結構あるようです(笑)。

うどん店に「排水規制」の動きが…

 環境庁が全国の「飲食店」「学校給食センター」「弁当・仕出し店」の3業種に対する排水規制強化の準備を始めました。約1年の猶予期間を置いて、昭和64年1月から実施するとのことです。

(5月13日)

飲食店などの排水規制へ 調理場100平方メートル以上対象 水質汚濁防止で環境庁

 河川、湖沼、海などの水質汚濁を防止するため、全国の飲食店、学校給食センター、弁当・仕出し店の3業種を対象に排水規制を検討していた環境庁は12日、調理場面積の大きな店舗・施設について、水質汚濁防止法の排水基準を適用する「特定施設」として新たに指定する方針を固めた。規制の対象になる店舗・施設について、同庁は「調理場面積100平方メートル以上」を基準にしたい意向で、厚生、文部、農水の関係省と協議を進めるが、この基準によると、3業種約91万店舗・施設の10%程度が排水規制を受ける見込みという。今年12月に政令を改正し、約1年の猶予期間を置いて64年1月から実施する考えだ。

 特定施設に指定されると浄化槽の設置が義務付けられ、改善命令に従わないと罰則が適用される。環境庁は、64年以降に調理場面積100平方メートル未満の小規模な店舗・施設も順次追加指定したいとしており、改めて設備投資を迫られる飲食業界へ与える影響は大きい。

 環境庁によると、食堂・レストラン、そば・うどん店、すし店、喫茶店など全国の飲食数は84万店、小・中学校の給食センター2600施設、弁当・仕出し店7万店舗に上る。すでに排水規制が適用されている製造業などと異なり、零細企業がほとんどなことから、これら3業種の排水は現在、家庭の雑排水と同じように規制を受けないまま下水道に流すなど、処理されている。しかし、調理や食器洗いに使った水による環境汚染は深刻だ。環境庁の飲食業を対象にしたサンプル調査では、排水の生物化学的酸素要求量(BOD)は146ppmを記録。これは環境基準を適用された排水と比べても最も汚く、特別の浄化を義務付けられている工場排水の約15倍の汚濁ぶり。また、給食センター2600施設で発生する排水中の汚染・汚濁物質量は1日当たり推定21トンに達し、奈良県や大分県が瀬戸内海に流す生活排水中の汚染・汚濁物質量に匹敵するという。…(以下略)

 環境庁の全国対象の規制計画ですから、特に讃岐うどん店を狙ったものではなく、規制の対象となる飲食店は「調理場面積100平方メートル以上」の店なので、県内のうどん店で規制の影響を受けるのはそれなりに大きい店(イメージするなら、調理場が10メートル四方あるうどん店)だけですが、記事には「64年以降に調理場面積100平方メートル未満の小規模な店舗・施設も順次追加指定したい」とありますので、そのあたりの実施状況は続報を待ちましょう。

 ちなみにその後、香川県でうどん店の排水問題が大きく取り上げられたのは、讃岐うどん巡りブームが“超”ピークに達しつつあった平成20年頃のこと。「うどん店からの排水に対して苦情が寄せられるようになった」とのことで、県が「小規模店にも新たな排水規制をかける」という条例の制定に動き、ブームの人気店となった小規模の製麺所型店を中心にちょっとした衝撃が走りました。どんな苦情がどれくらい来たのか等の詳細が報道されなかったこともあって、「ブームを妬んだ勢力が製麺所型人気店を狙い撃ちしたのではないか?」という陰謀説まで耳にしましたが(笑)、その後、「うどん店の排水規制が海の栄養不足を招いて魚が減っている」という調査も出てきたりして、うどん店の排水問題は、なかなか一筋縄ではいかないようです。

第9回さぬきうどん品評会の結果発表

 昨年に続き、「さぬきうどん品評会」の受賞者が四国新聞の全ページ広告で載っていましたので、興味のある方は細かいところまでご確認ください。

S62年広告・さぬきうどん品評会

 各賞は並列に記載されていますが、これまでの新聞発表からすれば、まず最高賞は「農林水産大臣賞」で、続いて「食糧庁長官賞」と「中国四国農政局長賞」。つまり、お国の管轄の偉い人の名で出される賞が金、銀、銅のトップ3で、以下、「香川県知事賞」と「全国製麺協同組合連合会長賞」の2つが特別賞、それ以下が優秀賞という分類だと思われます。表彰は個人名ですが、下の協賛広告内にそれぞれの店や企業の代表者名が入っていますので、付き合わせてみれば受賞者の店や企業がわかります。ちなみに協賛広告内に「丸亀製麺株式会社」の名前がありますが、もちろんこれは地元の歴史ある製麺会社で、2000年代から全国展開を始めた兵庫県発祥の「丸亀製麺」とは関係ありません。

坂出の柳屋製麺所の柳本さんが「現代の名工」に選ばれる

 全国の卓越した技能者に贈られる厚生労働大臣表彰の「現代の名工」に、坂出の柳屋製麺所の柳本誠一さん讃岐うどん界で初めて選出されました。

(11月10日)

“現代の名工”に柳本さん(坂出) うどん普及に貢献 1日1万6500食を製造 考案の機械使い、日持ち「包装めん」開発

 この道一筋に技術を磨き、第一人者となったいわゆる”現代の名工”を労相が表彰する「卓越した技能者表彰」の62年度受賞者に、坂出市白金町一丁目、製麺所経営柳本誠一さん(78)が決まった。柳本さんは、うどん打ちの名人。それも手打ちではなく、自ら考案した機械で日もちのする「包装麺」を開発、業界の発展に貢献したのが認められた。県下の受賞はこれで8人目。表彰式は10日午前10時半から東京・中野の全国勤労青少年会館で行われる。…(中略)…

 柳本さんは昭和23年、坂出市内でうどん食堂を開店、25年には柳屋製麺所を設立した。自ら図面をひいて新しいうどん製造機を考案するなどの研究を重ね、38年には保存期間の長い「包装麺」の開発に成功。「柳屋」の”生うどん”、”ゆでうどん”を東京をはじめ大阪、名古屋、九州方面まで送り出している。今では1日にゆでうどん1万2000食、生うどん4500食を製造販売するまでになった。

 柳本さんのこうした努力が業界の発展に貢献した。後進の育成にも力を注ぎ、同業者への技術指導やアドバイスも続けてきた。さぬき製麺事業協同組合理事長などを経て、現在は県生麺事業協同組合副理事長。「現代の名工」に選ばれたことを家族から病床で伝えられた柳本さんは「こんなにうれしいことはない。好きな道を歩いてきただけなのに…」と喜びをかみしめている。

 「現代の名工」の表彰制度は昭和42年度から始まり、いろんな職人の世界で優れた技術を持っていたり普及に貢献したりした人を毎年100人くらい(今は150人くらいに増えている)選んで表彰する制度ですが、昭和の香川県の受賞者は以下のようなラインナップ。うどん関連では柳本さんが「現代の名工」の香川第1号です。

昭和47年 古段 隆(工具修理工)
昭和52年 多田 満(造園士)
昭和53年 丸岡トメ(獅子頭製造工)
昭和56年 高橋義熈(美術工芸彫刻)
昭和60年 川原貞夫(和服仕立職)
昭和61年 久保重一(宮大工)、植村市男(彫刻師)
昭和62年 柳本誠一(麺類製造工)、森安廣一(畳工)

「香川ルネッサンスの集い」の物産イベントで「どじょう汁」を打ち出したのは、飯山町だけ

 昭和59年から「香川ルネッサンス計画」という地域おこしキャンペーンが始まったのですが、その一環の「香川ルネッサンスのつどい」というイベントの「物産コーナー」に登場した「各市町の“推し”物産」の一覧が新聞に載っていました。

(3月10日)

ふるさと自慢大集合 高松中央公園で「ルネッサンスのつどい」

 魅力と活力ある“まちづくり”を目指し59年4月にスタートした、県提唱の5市38町による「香川ルネッサンス計画」は、3年目を迎えた。瀬戸大橋時代を控え、そのつぼみがようやくふくらみ始めたが、各地域の動きを広く知ってもらおうと、実行委員会の手によって「香川ルネッサンスのつどい 今、ふるさと一色」が15日午前10時から高松市中央公園で開かれる。…(以下略)

<「香川ルネッサンスのつどい「物産コーナー」参加一覧>
高松市  うどん茶屋
観音寺市 煮干しイリコ、かまぼこ、ちくわ銭形土鈴、お好み焼き、こうじ
白鳥町  手袋、ソックスカバー等特産物
大川町  新鮮野菜、縫製袋物、郷土名産(菓子)その他
長尾町  竹めしの実演販売、かぐや姫人形即売等
池田町  オリーブ盆栽展示、即売
三木町  いちご等農産物、花木
牟礼町  百年会キャラクターのネーミング発表会、トレーナー・ワッペン即売、柴野栗山のお守限定販売
香川町  特産品(甘なっ豆、しょうゆ豆)
庵治町  海産物(干物類等)、石彫品展示即売
香南町  香南焼展示・即売
綾上町  山田米のむすび等
綾南町  アルギドヨード卵
塩江町  温かい泉コーナー
国分寺町 盆栽展示・即売
宇多津町 ミニたこつぼ展示・即売
飯山町  どじょう汁
琴南町  そば茶屋
満濃町  物産の展示・即売(半生麺、カリン商品、まんのう茶等)
多度津町 ミス多度津による特産の「さぬきワイン」サンプルパーティー
琴平町  さぬき一刀彫の実演・即売
仲南町  農産物即売(茶、花等)讃岐彫うるし工芸品
高瀬町  お茶
大野原町 農産物(レタス、ナス)特産品約20種
山本町  タケノコ等特産物
詫間町  花の即売
三野町  獅子頭、張り子のとら
仁尾町  いちご即売
豊浜町  わた菓子、野菜(レタス、キュウリ等)座ぶとん、ポップコーン
財田町  石人形等

 「どじょう汁(うどん)」を打ち出しているのは、前年から「おじょもまつり」で「どじょう汁日本一大賞」を始めて意気盛んな「飯山町」だけで、昭和59年に町長自ら「どじょう汁の里」をPRしていた綾上町は「山田米のむすび」で出店、今日「どじょううどんは長尾」と言われている長尾町もまだ「竹の里」で出てきています。

「丸亀お城まつり」で「第4回・さぬきうどん早食い競争日本一決定戦」開催

 うどん関連の恒例イベントも、特に目新しい展開もなく予定通り行われていました。

 まずは丸亀お城まつりの「さぬきうどん早食い競争日本一決定戦」。

(5月18日)

4000人が総おどり 丸亀お城まつりフィナーレ 小雨の中、イベントも多彩に

 城下町に初夏の訪れを告げる第38回丸亀お城まつり(丸亀お城まつり協賛会主催、四国新聞社など協賛)最終日の17日は、フィナーレを飾る総おどりが市内の目抜き通り繰り広げられ、「踊ってごんな見てごんな」の軽やかなリズムに乗って4000人の踊り子が身ぶり手ぶりも鮮やかに乱舞。3日間、陽気なテンポでつづったまつりの幕を閉じた。…(中略)…市民ひろばでは正午から「さぬきうどん早食い競争日本一決定戦」が催された。「うどん王国の心意気を」と45人が3分間一本勝負に挑戦。大人の部は10杯を平らげた高松市の○○○○さん(29)が2年連続優勝、子供の部は同市、○○○○君(古高松小6年)が5.3杯で完勝した。…(以下略)

 「日本一決定戦」と銘打っていますが、例年通り全国からギャル曽根級の挑戦者もなくこぢんまりと、しかし45人の参加で盛況に開催されました。

飯山町の「おじょもまつり」で「第2回・輝け!ドジョウ汁日本一大賞」開催

 続いて、飯山の「おじょもまつり」が2回目を迎えました。

(6月18日)

「モモ娘」はあなた! おじょもまつり、8月14~15日 ドジョウ汁日本一大賞も(飯山)

 飯山町の町おこしのイベント「第2回おじょもまつり」(同町地域振興イベント事業実行委員会)が8月14、15日の両日、同町東小川の土器川河川敷グラウンドで行われることになり、「モモ娘コンテスト」の参加者や「輝け!ドジョウ汁日本一大賞」の参加グループなどを募っている。「おじょもまつり」は同町のシンボル讃岐富士にちなんだ“おじょも伝説”(昔、大男が飯野山と象頭山をまたいで小便をしたら土器川ができた)と特産の“モモ”を主題にしたイベントで、瀬戸大橋時代を迎える同町をPRしようと昨年から“おじょもまつり”を行い、会場は2万人の人出でにぎわった。今年もお盆の14、15の両日に開くことをこのほど決め、各催しの参加者を広く募ることにした。

 まつりのメーンとなるのが「モモ娘コンテスト」。今年も2人を募る。同町在住者か同町内の職場で働く18歳から25歳までの未婚女性が対象。6月30日で応募を締め切る。選ばれたモモ娘には賞金3万円と沖縄旅行がプレゼントされる。昨年好評だった「輝け!ドジョウ汁日本一大賞」は今年は15組を募っている。味自慢のグループが対象。この他、大声コンテスト、腕相撲大会、紅白カラオケ歌合戦、ガラクタオークション、ヘリコプターでの讃岐富士と瀬戸大橋見学、展示・販売団体・グループなどの参加を同町役場イベント実行委員会事務局で受け付けている。

 この参加者募集記事によると、「おじょもまつり」の目玉は「ドジョウ汁日本一大賞」ではなくて「モモ娘コンテスト」の方だと書いてあります(今ならどこかからクレームが入りそうな「18歳から25歳までの未婚女性が対象」という条件が付いていますが・笑)。しかし、イベント翌日のレポート記事には…

(8月16日)

“おらが味”競う ドジョウ汁大会が人気 飯山の「おじょもまつり」

 猛暑ものかは、熱いドジョウ汁に挑戦。飯山町で15日、第2回おじょもまつり(四国新聞社後援)のメーン行事である「輝け!!ドジョウ汁日本一大賞」の催しが行われ、会場となった同町東小川の土器川河川敷では味自慢の郷土料理づくりチーム15団体が大集合。日本一の名にふさわしく、大釜相手にねじり鉢巻きで汗まみれになりながら”おらが味”を競い合った。おじょもまつりは建設省の「全国水辺の風物詩30選・手づくり郷土賞」に輝いたこともあって一段とフィーバー、14、15の両日、ヘリコプターコーナー、総踊りなど盛りだくさんのイベントが河川敷いっぱいに繰り広げられ、延べ4万人でにぎわった。

 中でも人気の的はドジョウ汁。町内外15チームはこの日使われる70キロのドジョウの供養を行って本番入り。直径1.2メートルの大釜を使ってゴボウやネギ、豆腐、ニンニクなど思い思いの味つけをして炊き上がったドジョウ汁を、審査委員長の北川料理学校・北川保夫校長や同町の小林助役ら9人の審査員と、かけつけた3人の国会議員らも加わって”慎重審査”した。炊き上がったドジョウ汁はまつりの会場を訪れた人たちに無料で配られ、見物人たちは土用並みの暑さの中でぐつぐつ煮立つドジョウ汁を汗をふきふき、どんぶりで2杯も3杯も挑戦していた。今年のドジョウ汁日本一大賞には飯山町・沖クラブ(香川芳文代表)が選ばれた。

 こっちは「ドジョウ汁日本一大賞」がメーンだと書いています。しかも、タイトルのビックリマークが2つに増えています。全く信用ならない記事です(笑)。

「第6回さぬきうどんまつり」と「第7回さぬきうどんラリー」開催

 続いて、「第6回さぬきうどんまつり」と「第7回さぬきうどんラリー」のセットイベントも例年通り開催されました。内容も例年通りなので、「さぬきうどんラリー」の広告だけ再掲しておきます。ラリー参加店のリストには55店(社)が名前を連ねていますが、広告枠には38店(社)しかありません。「ラリーには参加するけど広告は出さない」といううどん店が出てきたということでしょうか。当初の広告企画の形が少し崩れてきたのかもしれません。

S62年広告・さぬきうどんラリー1

S62年広告・さぬきうどんラリー2

S62年広告・さぬきうどんラリー3

S62年広告・さぬきうどんラリー4

7月7日の「乾麺デー」に丸亀町商店街で「第4回そうめん流し」開催

 続いて、久しぶりに「乾麺デー」の「そうめん流し」のイベント記事が出てきました。

(7月6日)

買い物客ら涼味満点、そうめん流し楽しむ(高松の商店街) 

 七夕の日は乾麺デー、そうめんをどうぞ。高松市丸亀町の商店街に5日、そうめん流しが登場、無料試食会が催され買い物客らが賞味を満喫した。県製粉製麺協同組合が乾麺デ―のPRにと催したもので、今年で4回目。平安の昔、「七夕に糸のような麺を食べると機織りが上達する」という習わしがあったことから、そうめん、ひやむぎの消費拡大をと、全国の乾麺業界が7年前に七夕の日を乾麺デ―と制定、キャンペーンに乗り出している。

 この日午前10時から中国銀行高松支店前で行われたそうめん流しは、県組合の青年部(川田明義部長)が担当。ぼんぼりやササ飾りで七夕ムードを盛り上げ、青竹を半分に割ったそうめん流しは野趣もたっぷり。ボーナスサンデーで買い物に繰り出した家族連れらが午後2時ごろまで立ち代わり足を止めて夏の味覚に舌鼓を打っていた。

 「乾麺デーに丸亀町商店街でそうめん流し」の記事は昭和60年にも出てきましたが、「乾麺デー」なのに県下で昭和30年代あたりまでかなり流通していた「干しうどん」が扱われてないなあと思っていたら、「そうめん、ひやむぎの消費拡大を目指す乾麺デー」だったんですね。ちなみに、そのあたりの一応の定義は、

「そうめん」…長径1.3ミリ未満(手延べの場合は1.7ミリ未満)
「ひやむぎ」…長径1.3ミリ以上、1.7ミリ未満
「うどん」……長径1.7ミリ以上

だそうで、うどんは「七夕に糸のような麺を食べると機織りが上達するという習わし」から外れているとみなされているみたいです。

香川大学の開放講座で「讃岐うどん」を解説

 香川大学が「讃岐の伝統食品」という開放講座を開講し、第1回で「うどん」を取り上げていました。講師はもちろん、香大教授で「さぬきうどん研究会」会長の真部先生です。

(5月10日)

人気呼ぶ開放講座 香大「讃岐の伝統食品」、第1回は「うどん」を分析

 香川大学教育開放センター春季5講座の先頭を切って7日、「讃岐の伝統食品」が開講した。この講座は和三盆糖・塩など伝統食品の由来や特色を10回にわたり解説、論及するもので、今季初めての開設。風土・生活に密着した”食品”を通して、讃岐のアイデンティティーを探ろうという視点が、注目を集めている。

 第1回のテーマは、讃岐の”顔”であり”味”ともいえる「うどん」(講師・真部正敏農学部教授)。講義では、うどんの歴史、発展の資料、農村行事とのかかわりなどの体系的な解説のあと、スライドを使って、手打ちうどんの作り方が説明された。さらに、県民のうどん意識についてのアンケート結果も紹介。「手打ちうどんを中心に」、「県産の小麦粉=地粉を使い」、「家庭にも打ち方を普及」しようという県民の姿勢が分析された。「さぬきうどん研究会」会長も務める真部教授は、「業界まかせではなく、ひとつの文化として、うどんを次代に伝え残してゆこう、という方向が表れていますね。それは、日本の食生活の正しいあり方を見直そうという意識ともいえるでしょう。その意味でもまず、風土が生んだ食品についてきちんと理解することは大切です」と語っている。…(以下略)

 讃岐うどんの「歴史」と「文化」と「技術」の概要を紹介する講座です。記事に「手打ちうどんを中心に、県産小麦を使い、家庭にも打ち方を普及しようという県民の姿勢が分析された」とありますが、当時、多くの県民からそういう気運が高まっていたという話はあまり聞きませんでしたので、そのあたりは「県民の姿勢」というより「さぬきうどん研究会の姿勢」だったような気もします(笑)。しかしいずれにしろ、「讃岐うどん文化の継承」という点では大切で貴重な取り組みでした。

県産「シラサギコムギ」の試作に着手

(5月10日)

県産小麦、讃岐うどんの風味アップへ品質転換の研究に着手 「シラサギコムギ」有力(県農試)

 讃岐うどんの原料小麦に占める県産小麦の割合が2割程度まで高まったのを機会に、県農林部は加工適性の優れた品種を探り一段とおいしい讃岐うどんをつくり出そうと、本年度から品種適応についての試験研究に着手した。品種転換が可能かどうかは各種の要素が微妙に絡むうどんづくりの根幹となるだけに予断を許さないが、遅くても2~3年後にはメドを立て、今後の観光新時代に向けて風味アップの”新讃岐うどん”を登場させる計画だ。

 讃岐うどんの原材料としての小麦粉は大半をオーストラリアなどの外国産小麦に依存しており、原材料に関する限り”豪州うどん”とも言えるほど。しかし、ここ数年、生産農家や関係団体の努力で県産小麦の生産量が年ごとに増え、麺用小麦粉に占める県内産の比率も事業所ごとに異なるものの、全般で2割程度に上昇した。ところが、県産小麦の”自給率”がここまで高まったことにより、製粉、製麺などの加工適性が新たな問題点として浮かび上がった。そこで県農林部は62年度から2~3年を目標期間と設定、新しい讃岐うどんにふさわしい加工適性や食感、食味の優れた品種の試験研究に取り組むことにした。

 現在、県内で普及している小麦の品種は九州農試が育成した「セトコムギ」。収量が安定している上、倒伏しにくいなどの利点があり、作付けが増えた。しかし、加工適性からみれば「シラサギコムギ」がより優れているため、試験研究ではこれを品種転換の有力候補として選んだ。試験研究はすでに準備作業が始まり、県農試の実験ほ場でサンプルとなる「シラサギコムギ」が生育中。ただ、この品種は「セトコムギ」より熟期が遅く、収穫が梅雨時期にかかる恐れや倒伏しやすいなどの難点もあり、こうした課題を一つひとつ解消、”新讃岐うどん”誕生につなげたいという。

 当時の県産小麦の主力だった「セトコムギ」に次ぐ新品種として「シラサギコムギ」が有力視されているというニュースですが、県のHPで「香川県の小麦奨励品種の変遷」を見ると、

(大正6年~)「金毘羅」
(大正6年~)「早生小麦」
(昭和4年~)「中生相州6号」
(昭和8年~)「新中長」
(昭和10年~)「江島珍子」
(昭和15年~)「農林26号」
(昭和17年~)「農林51号」
(昭和28年~)「農林67号」
(昭和31年~)「ジュンレイコムギ」
(昭和42年~)「ウシオコムギ」
(昭和47年~)「オマセコムギ」
(昭和52年~)「セトコムギ」
(平成元年~)「ダイチノミノリ」
(平成9年~)「チクゴイズミ」
(平成13年~)「さぬきの夢2000(香育7号)」
(平成21年~)「さぬきの夢2009(香育21号)」

という推移になっていて、「セトコムギ」の次に出てくるはずの「シラサギコムギ」の名前がありません。有力視されていたけれど、結果、何かの理由で県の奨励品種にならなかったのだと思われますがで、そのあたりの事情は続報を待ちましょう。それにしても、昭和20年代にも一度出てきた「江島珍子」がどうしても気になります(笑)。

飯山町がドジョウ養殖に本腰を入れ始める

 「日本一ドジョウ汁大賞」でドジョウ汁を売り込み中の飯山町で、ドジョウの養殖が始まるようです。

(6月30日)

ドジョウ汁で日本一に ドジョウ養殖に本腰、稚魚300キロ放流 減反水田利用し町も補助(飯山町)

 “おじょもまつり”など各種の地域振興イベントに力を入れている飯山町は「日本一ドジョウ汁のまち」を目指して昨年からドジョウ汁をテーマにした催しを開いている。この日本一のドジョウ汁の元となるドジョウを町内の農家の協力で減反水田を利用して養殖することになり、29日午後、新土町長や香川町議会議長らも立ち会って養殖水田にドジョウの稚魚300キロ余りを放流した。

 飯山町は、特産のモモ、町民の心の古里「讃岐富士」、大男伝説の主人公“おじょも”などをイベント事業に取り入れて瀬戸大橋時代の住みよい町づくりを目指している。同事業の一環として昨年、土器川河川敷公園で開いた手づくりイベントの“日本一ドジョウ汁大賞”が大ヒット。飯山町のドジョウ汁のイメージを県内外にまでPRすることができた。このため、毎年催すドジョウ汁大賞や町内のドジョウ汁愛好者の材料にするドジョウが手軽にいつでも間に合うように同町内で生産しようと、農家の協力で町が補助金を出して養殖することにした。

 今回、ドジョウ養殖を始めたのは同町法軍寺、農業増田孝一さん(43)、同片原朝太郎さん(70)、同吉本康造さん(57)の3人。それぞれ今年の稲作減反水田を増田さんが15アール、片原さんが3アール、吉本さんが8アールずつ転用。水田にドジョウが逃げ出さないように特別に囲いを張り、鳥害から守るためのネットがけをするなどして養殖場を設置。同日午後、坂出市の養殖組合業者から2年ものの体長3~5センチの稚魚300キロ余りを約120万円で購入、各水田に放流した。放流したドジョウは特殊なエサを与えて養殖、8月の“おじょもまつり”ごろには体長が2倍の6~10センチほどに成長、収量も600キロ余りになる。同町ではこの養殖が成功すれば同町内で常時おいしいドジョウ汁が食べられる店を作るなどして、スタミナ食として好評のドジョウ汁を大いに売り出したいとしている。

 6月18日の記事で「輝け!!ドジョウ汁日本一大賞」というタイトルを連発していたのに、30日のこの記事で「日本一ドジョウ汁大賞」に変わっています(笑)。しかしいずれにしろ、当時の飯山町はかなりの“ドジョウ汁推し”を進めていたようで、同日の「一日一言」でも飯山のドジョウネタが書かれていました。

(6月30日)

コラム「一日一言」

 …(前略)…土用ウナギの宣伝に大きな役割を果たしたとされているのは讃岐出身の天才・平賀源内だが、ウナギより、讃岐では夏バテ防止にドジョウ汁というのが庶民的である。生かしておいたドジョウに酒を注ぎ泥を吐かせて臭みを取る。塩もみしてぬめりを除いて湯のたぎる大鍋へ打ち込む。他の具はササがきゴボウ、サトイモ、ニンジン、ダイコン、ネギ、油揚げ、どんどん投げ込んで煮る。生うどんを打ち込んだら後はみそで味をつけるばかりとなる。書いているうちにノドが鳴りそうだ。

 こういうことの好きな伯父に連れられてドジョウ捕りに行ったことがある。径15センチぐらいの手網にテグス編みのネットをつけ、じっとしているドジョウの上にかぶせる。パッと躍りあがったドジョウをすくい上げるのである。暴れさせて水を濁らさせては漁にならない。絶妙のタイミングが要求される。

 おじょもまつりという郷土色満点のイベントを案出した飯山町、呼びもののドジョウ汁のドジョウが地のものでは間に合わないので高知から移入、休耕田を利用して中間肥育しようとの計画を立てたという。休耕田を使って養殖しようというアイデアが光る。昔は田んぼにいくらでもいたのだから成功は疑いなし。寒い地方では沼土の底深く冬眠しているドジョウをクワとスコップで掘り出すと聞いた。これも野趣いっぱいで、今でも忘れられない。…(以下略)

 「ドジョウイベント」から「ドジョウ生産」へとなかなか力の入った取り組みに、コラムでも「成功は疑いなし」と書かれています。しかし、その後、“ドジョウ汁の本場”は長尾に持って行かれましたので、どこかで「飯山のドジョウ汁」は衰退していったのだと思われますが、そのあたりの衰退の経緯が果たして新聞で紹介されるのか、続報を待ちましょう。

綾南町が北海道の姉妹町・秩父別町へうどん等の使節団を派遣

 綾南町が姉妹町の北海道秩父別町へ信善使節団を派遣し、手打ちうどんの実演を行って盛り上がったようです。

(8月15日)

讃岐の味ふるまう 北海道へうどん使節派遣(綾南)

 綾南町は姉妹町の北海道雨滝郡秩父別町へこのほど親善使節団(前田一之団長、団員10人)を派遣、一行は第10回屯田祭りに参加、手打ちうどんの実演を行うなど親善を深めた。”うどん使節団”は小麦粉100キロと道具一式を持ち込んで大奮闘、讃岐の味をふるまい大歓迎された。

 一行は秩父別入りした翌朝、午前7時から町給食センターで800食のうどんを昼すぎまでかかって打ち上げ、ファミリースポーツ公園の試食会で町民にサービスした。綾南町側の奮闘ぶりに後藤義博秩父別町長らも感激、うどん切り、玉づくりなどを手伝った。会場では実演と解説が行われ、主婦らが熱心に耳を傾けていた。…(以下略)

 前年に出てきた「北海道で開拓時代から讃岐うどん文化が受け継がれている」という記事は北海道の栗沢町で(「昭和61年」参照)、この秩父別町とは少し離れていますから、「北海道の讃岐うどん」は北海道の各所に名残があるみたいです。かつて、筆者のスタッフが旭川市で「旭川名物・讃岐うどん」というのぼりを見つけて憤慨していましたが(笑)、もしかするとあれも讃岐と何かのつながりがあったのかもしれません。

白鳥町「山賊市場」の「マツタケうどん」が登場

 白鳥町の「山賊市場のマツタケうどん」が紹介されていました。

(10月7日)

マツタケうどん登場 白鳥、観光客誘致作戦の第2弾

 白鳥町の山あいに、このほど地元の特産を生かした「マツタケうどん」がオープンした。手打ちのうどんにとれたてのマツタケをボリュームたっぷり乗せて味わう本場の風味、自然の香りを求める家族連れやドライバーたちに早くも大もてだ。

 オープンしたのは、昨年3月、徳島との県境を貫いて開通した鵜の田尾トンネル(白鳥町兼弘~徳島県土成町間)から北へ1キロほど下がった国道318号沿いにある「山賊市場」。地元の農業丸田文彦さん(34)が恵まれた阿讃の自然を満喫しながら山の幸を存分に味わってもらおうと今年初めオープンした観光シイタケ園に続く観光客誘致作戦の第2弾。古い民家をそのまま利用、レトロ感覚あふれる店内で味わう香りの王様。1人前800円という手ごろな値段で秋の味覚が十分堪能できるとあって、人気も急上昇。「ターゲットはトンネル開通以来急増している県外ナンバーの観光客たち。それに来年からは瀬戸大橋を渡って人の波が押し寄せますから…」と丸田さん。都会の雑踏から逃れようとする”都会人たち”に大受けしそう。

 タイトルだけを見ると、白鳥町が観光客誘致を目的に「マツタケうどん」を売り出したのかと思ってしまいますが、記事によると「マツタケうどん」がオープンしたとのこと。しかし、「マツタケうどん」という店がオープンしたのかと思いきや、すぐ次の文章に「オープンしたのは山賊市場」とあって、何だか支離滅裂な記事です(笑)。とりあえず、うどん通の方ならお察しの通り、ここはおそらく爆盛りのうどんで知られる「山賊村」だと思われます。当時は「山賊市場」という名前で市場と観光シイタケ園とうどん店をやっていたようです。

県下小中学校で「郷土料理給食」を実施

 続いてこの年は、小中学校のうどんの話題が5本も見つかりました。まず、「学校給食週間」で「郷土料理を生かした学校給食」が実施され、県下各地の小中学校の給食にしっぽくうどんや打ち込み汁が登場しました。

(1月22日)

学校給食に”讃岐の味” 給食週間の目玉、しょうゆ豆、てっぱい、しっぽくうどん 来週、県下市町で登場

 学校給食に自慢の讃岐料理が登場する「郷土料理を生かした学校給食」が、今年も24日から始まる学校給食週間を中心に実施される。しょうゆ豆、てっぱい、しっぽくうどんなど家庭で調理する機会が少なくなった”讃岐の味”が、今年も格好の話題となりそうだ。全国学校栄養士協議会県支部(植田佐恵子支部長)の呼びかけで市町教委が実施するもので、全市町の参加は今年で5回目。文部省は58年5月から導入を提唱しているが、県支部はいち早く同年1月から学校給食週間中に実施している。…(中略)…

 登場するメニュー(小学校)をみると、和洋食の比較では和食(ごはん、うどん類)が4市33町に対し、洋食(パン類)が1市5町と圧倒的に和食優位。和食では、11町が「いりこ飯」を実施するほか、あなごめし(高松市)、たいめし(内海町)、ばらずし(豊浜町)などが登場。しっぽくうどん、打ち込み汁も引田、志度、香川、琴平など12町でメニューにのぼっている。おかず類では、しょうゆ豆が高松、丸亀、満濃など10市町、まんばのけんちゃんが坂出市など9市町、てっぱいが綾南町など8町。…(以下略)

 当時の香川の行政区域は5市38町。メニューの多い順は、

12町……しっぽくうどん、打ち込み汁
11町……いりこ飯
10市町…しょうゆ豆
9市町…まんばのけんちゃん
8町……てっぱい

というラインナップですが、このうち「いりこ飯」だけは、近年ほとんど見なくなりました。続いて、その実施レポート。

(1月28日)

いりこ飯おいしかった 県下小、中学校で郷土料理給食 津田小、てっぱいなど好評

 24日から始まった学校給食週間に合わせ、県下全市町で自慢の讃岐料理をとり入れた「郷土料理を生かした学校給食」が実施され、子供たちの人気を集めている。津田町の津田小学校(大山衛校長、児童423人)では27日、地元で捕れたいりこを使ったいりこ飯やてっぱいなどが登場。児童たちは家庭料理としてあまり見かけなくなった伝統の”讃岐の味”に舌鼓を打っていた。…(中略)…

(1月28日)

綾南中は「打ち込みうどん」、作り方も学ぶ

 綾南中学校(宮崎正夫校長)では27日、1年生272人が地域とのふれあい学習としてランチルームで郷土料理「打ち込みうどん」の実習を行い、谷岡睦雄綾南町教育長、宮崎校長らが白衣、帽子、前掛けの本格的な”いでたち”で指導にあたった。谷岡教育長らは鮮やかな手つきを披露しながらも「一度くらいで要領がつかめるものではない」とチャレンジ精神を強調、生徒たちはクラスごとに十河利夫町給食会事務局長の指示に従って挑戦した。この日の打ち込みうどんは全校生の給食メニューで、小麦粉23キロ、850食のうどんづくりが行われた。小麦粉をねる下準備は午前8時半から谷岡教育長を含め給食会のスタッフが行った。「うどんは水、塩加減とねり上げで70%出来具合が決まる」といわれるだけに、生徒たちは手づくり作業の難しさを身近に学んでいた。この作業はビデオテープに収められ、各教室に放送された。

 綾南中学校では「郷土料理給食」で生徒が「打ち込みうどん」を作ってそれを給食にし、作業風景をビデオに収めて教室で放送しました。さすが中学生、できたものを食べて「おいしかったです。たのしかったです」の小学生とはひと味違います(笑)。

小学生が「ドジョウ汁」に微妙な反応(笑)

 続いて、国分寺小学校の児童が「郷土料理に親しむ会」で「ドジョウ汁」を食べたという記事。

(9月8日)

ドジョウ汁に舌鼓 「親しむ会」で郷土料理満喫(国分寺北部小)

 国分寺町の国分寺北部小学校(岡豊校長、775人)でこのほど「郷土料理に親しむ会」が催され、全校児童が讃岐ならではの名物料理ドジョウ汁に舌鼓を打った。同校は、県教委から62、63の両年度、学校給食研究校に指定されており、親しむ会は児童に新しい味覚を体験させ、栄養に対する先人の工夫や知恵を絞ってもらうのが狙い。

 この日は吉原雅昭同小PTA会長ら父母35人がドジョウ6キロのほか、生うどん900玉、季節の野菜などを用意。午前9時から校庭に11個の大釜を据えて2時間がかりで調理、みそ仕立ての自慢の味を子供たちにふるまった。事前のアンケート調査では児童の6割が「ドジョウを食べたことがない」と回答。それだけに教室で神妙な面持ちの児童もいたが、大半は「思ったよりおいしい」と答え、2杯、3杯とおかわりする姿も目立った。

 「神妙な面持ちの児童」とか「思ったよりおいしい」というあたりのニュアンスから、子供たちの「ドジョウ汁」に対する微妙な反応が窺えます(笑)。残念ながらドジョウ汁(うどん)が今日あまり普及していないのは、「汁はうまいけどドジョウがちょっと…」という反応がどうしてもあるからでしょうね。

郷土色を生かした学校給食映画に、昭和小が「うどん」で参加

 全国学校栄養士協議会というところが郷土食を生かした学校給食の映画を作ろうとしているそうですが、そのラインナップに「さぬきうどん」が入り、「うどんを使った学校給食」のロケ場所として綾南町の昭和小学校が選ばれたようです。

(9月30日)

さぬきうどん、映画に 郷土食の学校給食、6年生が手づくり挑戦(綾南・昭和小)

 全国学校栄養士協議会(田中信会長)が進めている郷土食を生かした学校給食の映画製作で「さぬきうどん」が取り入れられることになり、撮影場所として綾南町昭和小に白羽の矢が立った。10月27日の本番を前にリハーサルとして7日、打ち込みうどん給食と古老から郷土食の話を聞く会を催す。本番では15キロの小麦粉で6年生がうどんづくりに挑戦する。

 映画撮影は全国10カ所で予定。郷土食の歴史とその内容、郷土の産物を生かした先人の知恵である料理法を収録することにしており、それぞれの郷土食の保存と伝承に活用したいとしている。県下では豊浜町で「いりこめし」がとりあげられ、すでに撮影を終わっている。他の郷土食メニューは次の通り。けの汁(青森県)、岩豆腐(岩手県)、ほうばずし(岐阜県)、ごへいもち(同)、ながいも(鳥取県)、大山おこわ(同)、具雑煮・ピカド(長崎県)、タムージューシー・もずく酢の物(沖縄県)

 合わせて豊浜町の「いりこめし」も取り上げられ、「すでに撮影が終わっている」とのこと。ということは、こちらも学校給食映画なのでどこかの小学校か中学校で撮ったのではないかと思われますが、そっちは学校名も含めて記事になっていませんでした。

小豆島の三都小学校では「たらいうどん給食」

 小豆島の池田町の三都小学校で「たらいうどん給食」が行われました。

(10月4日)

たらいうどん給食 三都小、幼稚園児も招待

 池田町三都小学校(石田光義校長、60人)は3日、同校集会所でうどん給食をした。今年学校園(約4アール)でとれた小麦をもとにして作られたうどんを、全校生と招待した三都幼稚園の23人が仲良く食べた。同校ではこれまで、うどん給食を4、5回しているが、この日は趣向を凝らしての”たらいうどん”。児童たちは、容器を囲み、はしでうどんをすくい上げては”ツルツル”。どの顔も楽しさにあふれていた。評判がよかったため、同校では今後も時々”たらいうどん”の給食をして児童たちを喜ばせることにしている。

 学校の畑で作った小麦を使って「たらいうどん」を作ったそうです。小豆島なら「そうめん給食」の方が郷土料理として一貫性があると思いますが、小豆島の学校で「そうめん作り体験」とか「そうめん給食」をしたという記事は、まだ一度も出てきていません。以上、小中学校絡みのうどん関連記事でした。

高松宮さまは「わら家の細ネギ」がお好きだった

 2月3日に薨去(こうきょ)された高松宮宣仁親王を偲んで、高松宮さまが昭和56年に香川を訪れた時の讃岐うどんに関するエピソードが載っていました。

(2月4日)

讃岐の細ネギお気に入り 高松宮さま うどんの薬味に“しょって”帰って栽培

 「それでは讃岐の細ネギをしょって帰りますか」。56年10月、恩賜財団済生会総会に出席されたあと、高松空港でユーモアたっぷりのお言葉。高松宮さまと讃岐の深いかかわりをしのばせるエピソードだった。

 宮さまはこの時、公式訪問の合間をぬって高松市内の民俗博物館・四国村をご見学された。園内の「わら家」でさぬきうどんをお召し上がりになり、案内役を務めた四国村理事長夫人の加藤鎮子さんは「殿下はさぬきうどんと細ネギがよく合っておいしいと話され、普通の人の何倍も細ネギを入れられました。特別の器でうどんを差し上げましたが、他の客がたらいで食べているのをご覧になり、あっちの方がよかったのに、とみんなをお笑わせになりました」と述懐する。

 さらに加藤さんを驚かせたのは、その日の夜、ホテルで開かれた夕食会での殿下のお言葉。「さぬきの細ネギを東京で栽培してみたい」。「まさか」と思って、お付きの人に念を押した。殿下が本当におっしゃっていることがわかり、翌日、高松空港にお届けした。後日、殿下から加藤さんに「さぬきの細ネギがうまく育っていますよ」との連絡があった。加藤さんは「殿下が空港で細ネギに目をおやりになって、ジェスチャーをお交えになり、ネギをしょってのお言葉をいわれたことを今でもはっきりと覚えています。お優しい人柄で、ユーモアのある宮さまでした」と声を沈ませた。

 見出しに「讃岐の細ネギお気に入り」とありますが、記事を読むと、召し上がったのは四国村の「わら家」の細ネギ。それを「普通の人の何倍も細ネギを入れられました」そうですが、当時の「わら家」の細ネギは厳選された契約栽培のネギで、細かく刻んだ細ネギがいっぱい入った壺にダシを入れてネギだけバクバク食べる輩までいたという、香川でも図抜けた格別の逸品でした。

スピリチュアルな“讃岐うどん考”

 続いてこの年は、識者やうどん関係者の讃岐うどんに関する寄稿文がいくつも掲載されていました。

 まずは、香川職業訓練短大の浦山先生による寄稿。

(2月23日)

連載「連鎖評論/カウンターショット」…讃岐の精神安定剤か うどん共同体(香川職業訓練短大・浦山隆一)

 日常会話に「うどん」なる単語が、ひんぱんに登場するようになったのは本県に来てからだ。昼食時、「うどんにしますか、それとも外(ほか)にしますか?」の会話によって当日のメニューが決まる。讃岐では大抵、うどんと相場が決まっているとか。しかし、うどんと決まってから、その後が大変。W店は麺が太い、K店は味が上品だが物足らない、Y店は腰はあるが好き嫌いあり、N店やI店は柔らかい。となれば、またひと悶着ある。筆者にとって、どうせ小麦粉の塊なのだから、どっちでも良いことなのだが。だが「うどんグルメ」を自認する周囲の人々には、ハムレットよろしく「K店にすべきか、Y店にすべきか、それが大問題」とみえる。筆者の知る某人は年中、有名うどん店「K」の「うどん定食」一本槍であった。おみごと。…(中略)…

 うどんが単なる食品ではなく、食品以上の象徴を意味していることに気付いたのは、本州と四国を結ぶ宇高連絡船の中である。幾たびか船に乗っていると、毎回、同じ行動形式が人々に共通しているのだ。「行き」と「帰り」とでは違う。本州から四国への帰りの便に注目しよう。列車が宇野駅に着く、人々はわれ先にと連絡船になだれ込む。席に荷物を置き一段落したかに見えた人々の中から席を立つ人がいる。トイレにでも行ったのか。船はゆっくり岸を離れた。筆者も外気に触れるため甲板に出る。

 なんと、甲板の讃岐うどんのコーナーは長蛇の列ではないか。様子を見ると売り切れそうな勢いである。そんなに空腹ならば岡山で駅弁でも買えば良いのに……。汁まで飲み終えて満足そうに見える。こんな光景に会うたび、これは何だと思うようになった。聞けば、このうどんが食べたくて駅弁を買うことを控えたとか。これは、徒事(ただごと)ではないゾ。

 よく観察すれば、どうも地元(四国)の人が長蛇の列に多いようだ。こうまでして食べる一杯のうどんとは、食品を越えたトランキライザー(精神安定剤)なのか。おなかも「起きる」が、そんな生理的面だけでなく、讃岐うどんを食することで故郷讃岐を腹の中に納める儀式なのか。たとえ短期間でも故郷を離れ旅人となった讃岐人の心の中にある一時的故郷喪失状態に少しでも早く安心を与える一種の精神安定食品。それが、うどんだ。連絡船「讃岐うどん」の出前コーナーの意味はコレですョ。一杯のうどんが時空を越えて旅人を故郷に連れ戻す。大げさに言えば、うどんは宗教的宇宙論の「中心の象徴」である「軸」(axis mundi)とも解釈されよう。うどんの形だって、ひもだ。口から胃へ、上から下へ宇宙軸で結ばれ、流れ込むうどんの一本一本が個人の精神回復場の中心軸となる。

 ついでに、うどんにまつわるエピソードを一つ。自他ともにうどん通と認められる高松在住の著名な建築家と岡山に同行した時の体験である。仕事も終わり夕方4時、高松駅に着いた。ちょっと疲れていたので筆者の体は、アルコールを要求していた。そんな様子を察してか、その方が声をかけた。「ちょっとイッパイやっていきませんか。」その声に「ぜひ」と答えた。日もまだ高いが逸(はや)る心を抑えながら、とある一軒の店に入る。なッなんと!! 「うどん屋」ではないか。「ここの店は意外といけるのですョ」。その声にガックリとなった。焼き鳥と日本酒だと思ったのに。それ以後、香川では「ちょっと一杯」と誘われた時は、どちらの意味かきちんと確かめることにしている。この行動形式にも讃岐人共通の帰国形式が読み取れる。…(以下略)

 浦山先生は県外から赴任された方で、風水建築や民俗学に詳しい先生でしたので、なかなかスピリチュアルなアプローチの“讃岐うどん考”を展開されていました。

アンカレジ空港の“うどんのようなもの”レポート

 続いて香川大学の井原先生が、アラスカのアンカレジ空港にあった「うどん店」の話を寄せていました。

(6月24日)

コラム「新西洋見聞録」…うどんにびっくり、ローカルな交流を痛感(香川大学経済学部教授・井原健雄)

 9カ月ほど日本を離れ、「地域政策の国際比較研究」のため、ヨーロッパとアメリカを訪問することになった。…(中略)…5月16日の午後9時半、スカンジナビア航空の大型ジェット機は成田空港を離れ、約7時間後にアラスカのアンカレジ空港に到着した。給油と乗務員の交代などのため、そこで約1時間待たされることになった。いわゆる「トランジット」である。仕方なく、その空港の回廊を歩いていると、「うどん」ののれんが目に止まった。「名代うどん 味自慢」と立派な日本字で書いてある。アメリカで見た最初の日本文字である。その文字を目にした途端、いままでの疲れがどこかへとんでいくような、安ど感を味わうことができた。

 近寄ってみると、日本人のみならず、多くの外国の人たちも、その「うどん」を賞味している。しかし、そのつくりは本物の「さぬきうどん」とはかなり異なっており、どちらかといえば「カップめん」に近いように思われた。私は機内でかなり多くのビールを飲み、香ばしいパンを食べていたので、そのうどんを賞味することができなかった。しかし、本場の「さぬきうどん」はかくあるべしと、主要な国際空港に進出したらもっとローカルレベルの国際交流が出来るのではないかと、心から強く願わずにはおられなかった。…(以下略)

 「名代うどん 味自慢」と書かれたのれんが出ているのに「カップ麺」みたいなうどんが出ていたそうですが、先生は機内でビールとパンでお腹いっぱいになってたようで、その“うどんのようなもの”は食べなかったとのこと。井原先生に限らず、讃岐人ならみんな、ああいうのは見ただけで「ちゃんとした讃岐うどんが出てたらなあ」と思うものですね。

韓国の麺事情レポート

 次は、大和製作所の藤井社長が「韓国の麺事情」を寄稿されていました。

(7月27日)

韓国麺事情見聞記 日本式のうどん店も 味、製法に多くの共通点(大和製作所社長・藤井薫)

 最近、新聞紙上などで韓国がクローズアップされていますが、その韓国には讃岐うどんを思わせる日本流の手打式のうどん、そば店がかなりあり、看板にも「日式」と漢字で表示し、もちろん中味も製法も共通点が多いことをご存じでしょうか。香川県下で製麺業界に関係していることと、外食産業コンサルタント会社の韓国ゼミに最近参加したことで、案外知られていない韓国の麺事情を見聞してきました。讃岐うどんのファンにその現況をお伝えしましょう。

 韓国ではソウル市を中心に、様々な形態の飲食店を見て回りました。日本で言ううどん・そば屋はいたるところで目に付きました。その中には日本流の手打ち式うどん、そば店もあり、店の看板には「日式」と書かれていました。

 そのうちの一軒、手打ちそば屋では、重さが10キロもあろうかと思われる大きなそばの生地を、太い麺棒で汗だくになって延ばしていました。肝心の味の方も結構おいしく、だしもコンブと煮干しでとってあり、醤油で味付けをしてありました。メニューも天ぷらそば、きつねそば、ざるそばとほとんど日本と同じ。ただ、上に乗っている具の量は非常に多く、野菜などもたっぷりでした。値段はソウル市内で約100~1500ウォンで、日本円にすれば約200~300円といったところです。ここで日本と全く違っているのは、うどんとかそばに必ず大根の漬物が付いており、このお代わりは自由とのこと。この漬物はたくあんと似ていますが、味は塩味ではなく、酢で味付けしており、さっぱりしておいしいものでした。

 うどん・そば店で驚いたのは、日本と全く同じような巻き寿司とかいなり寿司を一緒に売っていたこと。これは「キンバ」と呼び、味は日本の寿司より少し薄味でした。意外だったのは、我々日本人がうどん・そば店へ行って食べても味の点では全くと言っていいほど違和感はなく、このまま日本へ持って行っても繁盛するであろうと思われるようなお店がたくさんあったことでした。

 うどん店に入りましたが、日本で手打ちうどんに相当する「カルククス包丁うどん」があり、包丁で切ったうどん、すなわち手作りうどんということを訴えているうどん店が目立ちました。韓国のカルククスと日本の手打ちうどんの最も大きい違いは、麺の太さです。あちらのは普通、幅2~3ミリ、厚さ1.5~2ミリの細いうどんなのです。ざるとか釜上げのように、汁につけて食べるのはほとんどなく、メニューも天ぷらうどん、きつねうどん、キムチうどんなど、ダシをかけて食べるのが大半でした。

 うどんのダシもそばと同じで、かつおぶしは使わずに煮干しとコンブと醤油で味付けをし、天かすを浮かしています。麺の製法も讃岐うどんの製法と全く同じで、麺棒で延ばし包丁で切る方式でした。ひょっとしたら讃岐うどんのルーツは韓国ではないかと思ったほどでした。麺類のフランチャイズをしている会社はソウル市内だけでも4、5社あり、一番大きいチェーン店は全部で100店あまりの展開でした。

 韓国の麺で最も有名なのは冷麺(ネンミョン)で、これはそば粉とジャガイモデンプンを水で混ぜて作った生地を、ところてん方式の押し出し機で沸騰している湯の中へ落としてゆで上げ、水で冷やして大きなステンレスのボウルの中心に丸めて盛り、ダシをかけて食べる料理です。日本の焼き肉店などで食べる冷麺との大きな違いは、麺線は細いのに非常に腰が強く、歯でなかなかかみ切りにくいこと。お店の店員が大きなはさみを持ってお客のボウルの中の麺を上からチョキチョキと切っていくのには、大変おかしくて噴き出してしまいました。また、このスープがナシとかリンゴなどの果物と牛骨を使って作っており、非常にさっぱりして冬の寒い時に温かいオンドル部屋で食べるのに最高の食べ物です。…(以下略)

 

 「カルククス」は、筆者も2010年頃に現地で食べたことがあります(「カルグクス」と書かれていました)。韓国の大学との交流会で「讃岐うどんの本場の“うどん博士”が来られたのなら」ということで(笑)人気の「カルグクス専門店」に招待されたのですが、テーブルに魚介類と野菜とダシがたっぷり入ったコンロ付きの大鍋と山盛りの「カルグクス」の生麺(中細で柔らかくて薄い緑色が入っていました)が運ばれてきて、コンロに火を付けてダシと具材が煮立ったところへカルグクスの生麺を入れて食べるという、「打ち込みうどん」みたいなメニューでした。ここに書かれている「天ぷらうどん、きつねうどん、キムチうどんなど、ダシをかけて食べる」というメニューもあったと思いますが、あの“打ち込みカルグクス”、柔らかい中細麺なのに煮込んでもそれなりにコシがあって、ダシもいい味で、香川に持ってきても全く遜色ないくらいうまかったのを覚えています。

社説で「讃岐うどんの“県際化”」なる提言が

 続いて、四国新聞の社説で(当時は四国新聞にも社説がありました)「讃岐うどんを全国へ」という趣旨の主張がありました。

(5月11日)

社説/うどんの県際化を図れ

 文化の中で食文化の占める比率が高まりつつある。量よりも質(クオリティー)のものを求める時代には、食文化も高質化が要求される。付加価値として見ばえということも大事だし、味、栄養といったものが要求される。われわれの暮らしは、明治にまず服装が欧風化し、第二次大戦後は住宅の洋風化が進み、衣食住という順で欧風化した。そうした中で日本古来の味が影をひそめている気がするが、本県でのうどんだけは依然伝統を守り、消費の方も順調である。香川のうどんの消費量は、小麦粉換算で年間1万トンを超えており、全国シェアは4.8%といわれる。乾麺(そうめんを含む)の方は年間2万7000トンに達し、全国シェアは9.2%という高率。高松でもサラリーマンの昼食時には、うどん店が大にぎわいである。県の試算によると、年間1人当たり125玉(昭和56年度)を平らげており、全国平均の4倍以上で、いかに讃岐人がうどん好きかうかがえる。

 讃岐人のうどん好きを現実に見てびっくりしたのは、一昨年夏、中国の厦門(アモイ)市での出来事だった。旅行団が日本から持っていった乾麺を中国の食堂で作ったところ、ごちそうしようとしていた中国人のためらいの前で、日本の子供がなつかしそうに食べてしまったことだった。東京に出張したサラリーマンの中にも、わざわざ「讃岐うどん」の店を探して賞味する人がいる。いつも食べているからなのか、讃岐人はあの独特の食品が好きなのか。うどんは、中国のうどんが変化したと伝えられるが、それを空海が持ち帰ったという伝説があり、なおのこと、讃岐独特の味となったようである。

 小麦粉さえあればすぐに作れるということから、「赤穂浪士討ち入りもそばではなくうどんだった」という説もあるくらい。赤穂も香川と同じで塩の産地。塩としょうゆ、煮干しのダシという条件が内海沿岸には揃っている。うどんの普及は地場産業の育成にもなるし、地方の活性化にもつながろう。香川の味を”県際化”して全国に普及させることも必要だ。

 ニューヨークには豆腐をはじめ刺し身、寿司と、日本食は何でもある。特に寿司はアメリカ人に好評で、どの店もアメリカ人の方が多い。本来、刺し身を食べる民族は日本人と韓国の一部、中国の寧波(ニンポー)地方だけと言われていたが、第二次大戦後、急激にアメリカに進出、併せて寿司が伸びてきた。しかし、アメリカにはまだ本格的うどん店はない。ニューヨーク在住の洋画家・川島猛氏の話では、うどんだけでは採算が合わないからだという。やはりてんぷらなどをつけて高額メニューにしないと商売にならないという。これは中国においても証明された。2年前、当時の前川知事らが訪中した際、同行の讃岐の製麺業界の代表が西安の空海記念碑の前でうどんを打ち、献麺式をして中国人も舌つづみを打ったが、中国へうどんを輸出する話はまったく採算が合わずに商談は成立しなかった。1玉50円程度だから、これは国外進出は無理であろう。

 しかし国際化といえば讃岐うどんは今日、80%が豪州産の小麦粉で”豪州うどん”とさえ言える。そこで20%の香川産をさらにアップするため品種改良を研究するという。県や市町の会議での昼食時に、幕の内は出てもうどんは出ない。もっとうどんを接待に使ったり、”公用”にすべきだろう。麺業界も、うどんラリーなどのイベントを拡充、うどん会館、うどん神社をつくるなど、他県から来た人に、味だけでない付加価値を与えなくてはならない。昼食としてのうどんもよいが、デザート的要素として宴席などにもよくなじみ、うどんを出す高級料理店も出ているのはうれしいことである。うどん粉は国際化しているが、逆に製品の国際化、県際化を図るべきだ。このところ岡山や松山などにも香川のうどん店が進出していることは注目される。これを契機に香川の他の産業にも波及させたい。

 ちょっと話が分散していて要点がわかりにくいのですが、「讃岐うどんが海外に進出するのは、単価が安すぎて難しい。それなら全国に普及させていってはどうか(これを国際化ならぬ“県際化”と呼んでいるようです)。加えて、讃岐うどんをもっと高級化して接待に使って“公用”にすべきだ」というのが主張のポイントのようです。

「かな泉」「さぬき麺業」「大和製作所」の3社長の紹介記事

 この年の四国新聞に、当時の讃岐うどん界を牽引する「かな泉」「さぬき麺業」「大和製作所」の3社の社長がインタビュー記事で紹介されていました。いずれも「企業ヒストリー」的な内容が盛り込まれていましたので、貴重な“讃岐うどん業界の記憶”として再掲しておきます。

 まずは1月に掲載された「かな泉」の泉川社長のインタビューコラムから。

(1月26日)

連載「経営を語る」/うどんを海外へ おう盛なチャレンジ精神(うどんの庄「かな泉」社長・泉川隆亮氏)

 「私は”時代”のバックアップのお陰でここまでやってこれた。本当に幸せ者だ」と迫力ある甲高い声で開口一番。事業家として今が一番脂が乗り切った感じ。よどみない口調から自信と信念が伝わってくる。

 牟礼町の農家の次男坊として生まれる。昭和23年復員後、地元の漬物・つくだ煮会社に復職したが、若いころから持ち続けていた「自分で何かをやりたい」という夢が捨て切れず、退社。時に25歳。「独身という気楽さがあったのかもしれない。せっぱ詰まった気持ちはなかった。しかし、そこの社長から“もし失敗したら表からは迎えてやれないが、裏から迎えてやるからいつでも帰って来い”と言われた。うれしかったね」。

 食糧難の戦後。そこで目をつけたのが、うどん玉の卸業。高松市大工町のフェリー通りに店を構えた。現在の大工町店で、記念すべき第一号店でもある。裸一貫、しかもズブの素人。「周りから型破りだと言われたが、この業界は師匠がいらないし、制約がない。だから、若さに任せて飛び込んだ」。かなりの冒険野郎でもある。「初めて打つうどん。ボロボロで、今だったら食べられたものではなかった。食い物のない時代だったから助けられた。勉強するためにヨソの店によく買いに行った。そして、玉を買うふりをして奥の仕事場を盗み見したものですよ。頭を抑えられる人がいなかったから、全くの門外漢。好きな発想で勉強出来たのも幸運だった」と述懐する。

 当時は半統制の時代。卸すのはほとんどがヤミの食堂。その後、主婦の店や社員食堂などに販路を拡大。うどん玉の卸では”ご三家”になるほど順調な伸びをみせた。「しかし、悲しいことに卸では消費者の声がストレートに返って来ない。そして、機械化が進み、ごまかしの手打ちうどんが幅を利かしだした」。そこで考えついたのが、手打ちうどんを実演しながらお客さまに食べてもらうモデル店の開店。今日の隆盛を築く第一歩でもあった。昭和45年のことで、ちょうど讃岐うどんが脚光を浴び出したころであり、時流に乗った。

 また、土産物用の生うどんが売れ出したのもそのころ。「『かな泉』と刷り込んだ手提げ袋を無料でつけたのがPR効果になった。”動くセールスマン”ですよ。また故人になった大平元総理や宮脇農協中央会会長らがテレビで讃岐うどんを宣伝してくれたのも大いにプラスになった」。これも時代のバックアップがあったお陰と言いたげである。48年には郊外店の第一号になる屋島店を出店。車社会のはしりであり、畑だったところにバイパスがつき、思わぬ大繁盛。次に着目したのがオフィス街でのセルフ店(紺屋町店)。社員食堂の延長と思って出したのが、これまた大当たり。以来、店舗展開も順調で国鉄箕浦駅の国鉄遊休地を借り箕浦店、県外店の第一号である松山店などを含め12店舗のオーナーに。

 瀬戸大橋時代に向けての対応もバッチリ。倉敷市の美観地区に民家を借り、店舗に改築中で3月にもオープンの予定。「ギャルが多いので、うどんの他に”備讃料理”のようなものを考えているんですよ」と柔和な顔をほころばせる。「私は事業を伸ばすのが楽しみ。しかし、オープンするまでは1カ月くらい寝られないことがある。夜中に目が覚めては思いついたことをメモしている」。軌道に乗るまでの”苦しい胸の内”を吐露してくれた。趣味は春から秋にかけての釣り。小物は卒業して鳴門や日和佐でサワラ、メジロなどの大物狙い。「酒は飲めるが、おやじが飲んべえだったので酒の怖さを知っており、晩酌程度にしている」とのこと。

 昨年から力を入れているのが冷凍うどん。「ようやく手ごたえがあった。行く行くはマカロニが世界を制したように、うどんを海外に普及させたい。事業は苦しいほど成功した時の喜びが大きい」。”チャレンジ精神”ますますおう盛である。好きな言葉は「継続は力なり」。豪快さと緻密さを合わせ持った柔軟な思考。讃岐うどんの生命”腰”に通じるのかもしれない。

 補足データによると、泉川社長は大正13年9月12日生まれ。昭和24年1月に創業し、27年に「有限会社金泉食糧商会」を設立し、62年1月に「株式会社うどんの庄・かな泉」に改称しました。当時の年商は約18億円で、従業員は本社と12店舗を合わせて250人(パート含む)という、香川のうどん店を圧倒的に代表する会社でした。

 続いて8月に紹介されたのは、「さぬき麺業」の香川社長です。

(8月24日)

連載「経営を語る」…味で勝負を実践 秋には冷凍めん製造も(さぬき麺業社長・香川政義氏)

 「うどんは生きものである。作る人の心がうどんの生地に伝わり、一方、生地の性質が人の肌に伝わるのを感じとる。すなわち、うどんと人の心が一体となって作られるところに機械打ちでは及ばないおいしいうどんが出来上がるのである」。香川社長は、さぬきうどん研究会の会報(第6号)で「手打ちうどんのうまさの秘訣」と題し、こう表現している。こと、うどんに関しては一家言を持ち、自信にあふれている。”この道50年”の実直な人柄が言葉の端々からにじみ出る。まさに”職人”の心意気であろう。

 うどん屋としては、二代目である。昭和元年、父親の菊次さんが旧川岡村川部町(現高松市川部町)で「香川屋」を屋号とした手打ちうどん店を開店。菊次さんは”名人”といわれるほど、うどん打ちには定評があり、たちまち近在近郷に知れ渡り、大繁盛。門前の小僧ではないが、こんな父親の姿を見て育った政義少年も、その魅力にとりつかれ、いつの間にか家業を継ぐようになった。戦時中は、海軍航空隊整備兵として4年間、戦地(台湾)をくぐってきたが、昭和21年無事復員。しばらく製麺関係の業者に勤めたこともあったが、食糧事情が好転したこともあり、元の場所にうどん店を再開。36年、高松市内のうどん業者が100店を超えたのを機に「高松製麺組合」が設立された。高度成長期、大手の進出を阻止するため、多くの業界で企業合併がみられたが、うどん業界でも組合員の共同出資で「さぬき麺業」を設立、香川社長が責任者に納まった。

 「学校給食へのうどん採用話の取り消しとか、共同製造の足踏みなど”思惑”外れが相次ぎ、苦難の道を歩むようになった」と当時を述懐。「とにかく新商品を売るために四国はもとより、岡山、阪神地方などを歩き回った。金は後でいいから、と頼み込んで商品を卸したこともある。倒産寸前まで追い込まれ、息子の大学中退まで考えた」。こんな時、ピンチを救ったのが45年の大阪万博の開催。東京の有名すし屋が博覧会に出店することになり、「讃岐うどんとすしをセットで売り出したい」と申し込まれた。これが”大当たり”。一杯100円のうどんが毎日7000個から8000個という数で売れに売れた。「讃岐うどんの知名度を高める役目を十分に果たした。起死回生とは、このこと。これが今日の基礎を築いたといっても過言ではない」と口調も弾む。

 保存麺の開発に本腰を入れ出したのもこのころ。1カ月賞味期限のある生麺、ゆで麺などを次々と開発。うどんの地方発送の草分け的な存在である。次に手がけたのは直営店の開店。小山店を皮切りに松並店、通町店、ジャスコ栗林店へと進出した他、大阪のジャスコ茨木店にも店を出し、成功させている。現在は冷凍麺の製造計画を進めており、秋には稼働の運びとなる。

 「いっぺん買うてくれたら、もういっぺん買うてくれるうどんを作れ」が社員に対する口癖。うどんは”味で勝負”を実践する。「讃岐といえばうどん、というイメージが定着した。瀬戸大橋も開通するし、将来は観光バス5台や10台停車できるうどん店を開店させたい。これは業界全体の課題でもあるんです」と熱っぽい。趣味は? とうかがうと「本当の趣味は仕事ですよ」とニガ笑いして「ほとんどを専務(長男政明氏)に任せている。これからは好きな碁(アマ三段の腕前)が打てるかな」。穏やかな顔がほころんだ。黒々とした髪、つややかな顔は年齢(66歳)より、ぐっと若く見える。うどん一筋に歩んだ人生。”味”のある話しっぷりは、讃岐うどんに通じるのかもしれない。

 補足データによると、香川社長は昭和39年3月に「さぬき麺業」を設立し、昭和62年当時は本社工場と6店の直営店(県内5,県外1)を要して年商約10億円、従業員は100人と書かれていました。香川社長は「かな泉」の泉川社長と同世代。記事を見る限り、泉川社長はビジネスマン肌、香川社長は職人肌のイメージが窺えますが、いずれにしろ、お二人はかつての讃岐うどん界を牽引した「両巨頭」であることは間違いありません。

 続いて3人目は、麺機製作の「大和製作所」の藤井社長。こちらはインタビュー記事ではなく、藤井社長の手記です。

(3月16日)

連載「さぬき最前線」…麺と私(大和製作所社長・藤井薫)

 小さい頃から模型飛行機が好きだった私は、岐阜の川崎航空機(現川崎重工岐阜工場)へ入社、3年後には転勤で生まれ故郷の川崎重工坂出工場に移り住み3年間を過ごし、そして約10年前に独立し、設計業を始めました。当時は設計だけの仕事はなかなか見つからず、さまざまな機械の設計製作を手掛けましたが、次第に”めんどころ・さぬき”に着目、製麺機分野へと専門化し、現在ではうどんの他、ラーメン、そばなどすべての分野に取り組んでいます。

 日本の麺文化は、世界でも有数です。麺の製法技術はもとより、料理の種類に至るまで最高のレベルを誇っています。パンの歴史は西洋に端を発し、日本では比較的新しい部類に入りますが、中国から伝来したとされている麺は日本で見事に開花しました。北はサッポロラーメン、南は博多ラーメンに至る”ラーメン文化圏”、江戸前そばや信州そばに代表される”そば文化圏”、水沢うどん、さぬきうどんなどで知られる”うどん文化圏”と、各地には特色あるおいしい麺文化圏が構築されています。

 わが故郷の香川を代表する高品質の手打ちうどんは、科学的にみても小麦粉の芸術だと確信しています。この手法はサッポロラーメン、江戸前そば、あるいは手づくりのギョウザの皮などにも相通じるものがあります。我々がこうした手法をもっともっと深く掘り下げて次の世代へ継承し、そして普及していかなければならないと痛感しています。しかし、現代はスピード時代です。ひと昔前のように時間をかけて職人を養成し、この技術を広めていくというのは至難の業です。私の夢は、人間の手に変わる麺打ちのロボットで日本中、そして世界中においしい麺を広めていくということです。

 短いコラムですが、「讃岐うどんを普及するためには麺の製造における機械化が不可欠だ」という、麺機会社の社長ならではのコメント。讃岐うどんの継承、発展という話になるとどうしても「古き良き伝統文化」や「手づくりの職人技」といった情緒的な論調が優勢になりがちですが、讃岐うどんの経済的発展に「機械化」が避けて通れないのは、まさにビジネスの原理原則です。

 ちなみに、「讃岐うどんの今後の発展」に関しては、これまでに識者や関係者、地元マスコミ等から「県内に讃岐うどん文化をもっと定着、継承させるべきだ」とか「讃岐うどんを全国に、世界に」という提言や主張が何度か出てきましたが、「讃岐うどんで香川に人を呼ぼう」という視点の提言やプロモーションはまだ目立った動きを見せておらず、その実現は平成の前半に勃発した「讃岐うどん巡りブーム」を待つことになります。

まだ「うどん店が2000軒」という表現が出てきます(笑)

 四国新聞の一面記事下コラム「一日一言」に、まだ「香川県下のうどん店はおよそ2000軒」という表現が出てきました。

(11月24日)

コラム「一日一言」

 先日、ある全国大会が開かれた際、出席者に「香川といえば何を思い出しますか?」と質問してみたところ、第一に「讃岐うどん」という言葉が飛び出した。かつて香川のイメージといえば屋島、栗林公園、金刀比羅宮だったが、グルメ時代とあって味が第一に出てきた。香川県下のうどん店はおよそ2000軒。 交通信号機の2倍というデータを聞き、いかに”うどんどころ”かうかがい知ることができる。喫茶店でもうどんを出すところがあるくらいだから、うどんを提供する店は3000軒くらいあるだろう。JR宇高連絡船上のうどん売店、最終便など空腹の乗客で行列である。駅弁を食べるほどでもない。”ちょっと一杯”というていである。

 うどんの歴史は相当古い。明治時代、のちの保守政界のドン三木武吉は、うどん食い逃げ事件というのを起こしている。これは夜泣きうどんだったとか。うどんというのは本来、生うどんか、ゆでうどんを指すのではないか。これ以外に乾麺がある。県人は年間1人あたり125玉平らげているという統計がある。3日に1玉は食べている勘定。うどんがきらいな人は5%くらいしかいないという調査もある。

 サラリーマンの昼食でうどんを食べる人は多い。うまいし、簡単でよい。ところが、県や市などの会議の昼食、幕の内は出てもうどんが出た話は聞いたことがない。国際化時代で外人も多く来県するだろうが、大いにうどんを差し上げることである。これが香川のカジュアルフーズだと、自信を持って出したい。…(以下略)

 6月の記事で「うどん・そば店…599店」というデータを掲載していたのに、「香川県下のうどん店はおよそ2000軒」と言い切っています。自紙の記事を信用していないのか、それとも読んでいないのか、どういうことなんでしょう(笑)。

農業大学校で手打ちうどんの実習

 続いて、県立農業大学校で行われた「手打ちうどんの加工実習」の様子を学生さんがレポートしていました。

(12月23日)

連載「学園では今」…手打ちうどんの加工実習、伝統製法でうまみ出す(リポーター:県立農業大学校1年○○さん)

 私たち生活コース1学年13人が初めて手がけた農産加工実習は、郷土の伝統食品、さぬき手打ちうどんである。わが香川県は、昔から小麦の品質が全国屈指といわれているらしく、さぬきうどんの味は格別との定評は、全国のだれしも認めているところである。不思議に思うのは、今はどこの県でも同じ小麦粉が入手できるはずなのに、どうしてか”さぬきうどん”が持てはやされる。はっきりとは知らないが、手打ちうどんの製法は、弘法大師さまの伝授によるものという話を聞いたことがある。そのせいか、県内でもうどんやさんの看板は、学校のある琴平とか、西讃地方に多い気がする。ということは、やはり粉の優劣だけでなく、私たちの先祖が伝えてきた製法の技術が、今日のさぬき名物を生んだに違いないと思う。

 先生の説明では、うどんのうまみは粉の品質とねり具合、打ち具合、ゆで加減、水と塩の量、そのうえ切り方までもが味を左右するといわれる。今までなんの気なしに食べていたうどんが、まるで生き物を作るほど複雑とは思ってもみなかった。俗にいう腰の強い口あたりの良いうどんを作るには、まず小麦粉から。実習では県内産の小麦に近いアミロ値の高い材料も使い、丹念に練り上げる。なかなか思うように丸くならず、腕がだるくてひと苦労。やっと出来上がったものをビニール袋に入れて足で踏む。丁寧に踏むほど腰の強いねばりのあるうどんができるように思われた。2時間ほどねかした生地を麺棒で何回となく延ばすが、テレビやお店で見かけるようにうまくはできず、薄い所、厚い所、形の方も色とりどりの出来具合にみんな大笑い。自分で作っているという緊張感がほぐれたひとときである。

 約4ミリ幅に切り、沸騰水中で10分間くらいゆでて釜からすくいあげ、水洗い。太いのや細いのや、長いのもあれば短いのもあって、見ているとすごくバラエティーに富んでいて楽しい。でも、味やつやでは今までに味わったことのないおいしさにみんな大満足。自分が作ったうどんをそれぞれ試食し批評し合ってにぎやかなこと。手間さえかければ身近な所にこれだけ安価でさわやかな食べ物がある。学校の実習で学んだ通りわが家で一人で作ってみようとみんな考えているようだった。急に郷土食品”さぬきうどん”が好物になった気がした。

 「実際に作ってみたら想像以上に難しかった」という感想文ですが、文中にサラッと「手打ちうどんの製法は、弘法大師さまの伝授によるものという話を聞いたことがある」と書かれています。こういうのは、ちゃんと「伝説です」と教えてあげないといけませんね(笑)。

サッポロラーメンと讃岐うどんのコラボ店「イエロ&ホワイト」

 らーめんハウス&うどん亭「イエロ&ホワイト」が、プレゼントコーナーで紹介されていました。

(5月3日)

「今週のプレゼント」…らーめんハウス&うどん亭「イエロ&ホワイト」(高松市木太町)

 間もなく開店2周年を迎えるラーメンとうどんのお店。マルナカ春日店の駐車場脇に本屋、喫茶店などと店を並べている。イエロ(イエロー)はラーメン、ホワイトはうどん。うどんとラーメンの専門店は市内でもここだけ。店内32席は昼食時になればまたたく間に満席。顧客層は近くのサラリーマンで、日替わりサービス「イエロセット」(ツナ、カレー、エビなど曜日によって異なるピラフとラーメンの組み合わせ、450円)、「ホワイトセット」(カツ、ウナギ、てんぷらなど曜日によって異なるドンブリものとうどんの組み合わせ、450円)、「サンデースペシャルセット」(カツラーメン、焼肉ラーメン、ネギチャーシューとおむすびの組み合わせ、600円)がおすすめ品。…(中略)…

 スタッフは店長以下5人。ラーメンのスープは北海道からの直輸でコクのある中、さっぱりしているのが特徴。「当初、マルナカのお客さまをターゲットにしていましたが、近くの会社の人たちが顧客に。高松はラーメンが高い傾向にあるが、290円をずっとキープ、安くてうまいお店として定着させたい」と店長。うどん、ラーメンの玉売り(1玉60円)もしている。

 「イエロ&ホワイト」は、坂出市のサンヨーフーズが昭和60年に高松市木太町にオープンした、サッポロラーメンと讃岐うどんのコラボ店(「昭和60年」参照)。当時のオープン広告には「イエロー&ホワイト」と書かれていましたが、「ー」を取って改名したんでしょうか。“業界のチャレンジャー”的なイメージのあるサンヨーフーズが始めたユニークなコンセプトの店ですが、残念ながら今はありません。ちなみにその後、丸亀市のバイパス(現国道11号線)沿いに讃岐うどんとフレンチだったかイタリアンだったかをコラボした斬新でおしゃれな創作メニューのうどん店もオープンしたのですが(筆者もオープンセレモニーに呼ばれました)、これも残念ながら長続きしませんでした。讃岐の根強いうどんファンには、“新し物”はなかなか受け入れられないのかもしれません。

恒例のうどん慰問や接待も各所で

 そして、毎年各所で行われるうどんによる慰問や接待の記事も8本見つかりました。特に変わり映えしない記事ですが、一応並べておきます。

(1月14日)

うどんとしょうゆ豆で慰問 老人ホーム七宝荘(高瀬の婦人会)

 高瀬町婦人会生活改善クラブ連絡協議会(入江朝子会長、会員230人)は13日、豊中町の三豊広域振興組合立養護老人ホーム七宝荘(詫間忠所長、入所者126人)を今年も会員手づくりのうどんとしょうゆ豆を携えて慰問、昼食時にお年寄りらとともに賞味し、歌や踊りを披露して交流を深めた。同協議会の七宝荘慰問は47年以来の年頭行事。会員らは前夜、50キロのうどんねり玉を準備。この日は30人余りが午前9時過ぎから七宝荘をたずね、ねり玉を麺棒で薄くのばして適当な太さに切り、ゆであげた。でき上がった手打ちうどんは、持参したしょうゆ豆と一緒に昼食に出され、入所中のお年寄りらに味わってもらった。…(以下略)

(7月22日)

暑い夏がんばって 綾南署へどじょう汁慰問

 「暑い時に、熱い汗を流して夏をがんばってください」と綾南ボランティア協議会(平田耕造会長)の一行が21日、綾南署を訪れ、恒例のどじょう汁をふるまった。この日はドジョウ3.3キロ、うどん100玉を用意、同署裏に大鍋2基を据えて、スタミナ料理を作った。同協議会の慰問は14回目、夏には欠かせない年中行事となっている。

 また、この日は同署の献血デー。献血を済ませた署員が栄養補給にと、汗を流してかき込んでいた。献血車の職員も「おしょうばん」して大喜び。ドジョウが苦手の署員のためには別鍋も準備されていた。木村博署長にとってはスタミナ慰問は初めてだが、「食は讃州にあり」のリポーターとして”どじょう汁評論家”を自任しており、この日の評価は「ちょっと塩味が強く、煮つまっていた。でもドジョウは軟らかく美味」とVサイン。「讃岐うどんの食べ方でザルが最もあっさりし、ドジョウ汁が最もこってりしている」とのうどん談義も。

(11月2日)

うどんで国際交流 東南ア青年招き懇談会(坂出林田老人会)

 活発な老人会活動を続けている坂出市林田町の林田老人会(熊本一義会長)は1日、オイスカ四国研修センターで農業研修中の東南アジアの青年8人を招いてうどん講習会や懇談会を開いて”国際交流”を深めた。同老人会に招かれたのはインドネシアのギオノさん(23)やスリランカのラタナヤケさん(27)ら東南アジア5カ国の青年8人。ギオノさんたちは今年1月、1年間の研修期間で稲作、野菜栽培など日本の農業技術を学んでいる各国のホープたち。同老人会は、国際化の波に乗り遅れないように、年寄りがその先陣役を果たそうと、日本ととりわけ関係が深い東南アジアの青年たちを招いた。午前10時過ぎ、同オイスカ研修センターの中村大風指導員に付き添われて林田町を訪れた青年たちは、さっそく老人会員のうどん店に招かれ、前かけをしてうどんづくりの手ほどきを受け、出来上がった手打ちうどんに舌つづみを打った。全員「うどんは大好き」と大喜びだった。…(以下略)

(11月21日)

一足早くサンタさん 善通寺の老人ホームを議員さんが慰問、自ら手打ちうどん作り

 善通寺市議会の一行が20日、市立善通寺老人ホーム「五岳荘」と特別養護老人ホーム「仙遊荘」を慰問、お年寄りたちに手打ちうどんをふるまった。この日の手打ちうどん接待は、教育民生委員会(草薙章典委員長)の呼びかけで市議24人全員が参加、麺棒で手際良くうどんを次から次へとのばし、66キロのうどん粉で600玉を作りあげ、両老人ホームのお年寄り100人に昔ながらの手打ちの味を楽しんでもらった。…(以下略)

(12月12日)

温かいうどん慰問 特別警戒の署員もてなす(丸亀JC)

 年末防犯特別警戒初日の10日夜、丸亀青年会議所(島川修治理事長)の代表10人が丸亀署に大釜を持ち込み、出勤する署員に温かい打ち込みうどんを振る舞った。毎年この時期に催している恒例慰問。島川理事長らは午後4時半、同署駐車場に大釜2基を据え付け、本職顔負けの手際良さで下準備。ニンジン、ゴボウ、シイタケなど6種類の具を煮立てたところでみそを入れ、さらに生うどんを150玉。出動に備えて全署員が顔をそろえた午後6時前にはあつあつの打ち込みうどんが出来上がった。おにぎりも150個ほど準備され、署員らは待ちかねたように温かい心づくしに舌鼓。暴力団の発砲事件の捜査などで疲れ気味の署員も会員の励ましに笑顔を見せ、年明けまで続く特別警戒に鋭気を養っていた。

(12月22日)

どじょう汁に舌鼓 年末警戒の警察官慰問(高松南署「母の会」)

 年末年始の特別警戒に当たっているお巡りさんに鋭気を養ってもらおうと21日、高松南署管内の高松市交通安全母の会(13校区)の代表者が同署に大釜を持ち込み、署員130人に手打ちうどんのどじょう汁を振る舞った。このもてなしは、同母の会会長13人が毎年この時期に催している恒例慰問。太田中央校区会長の奈良茂子さんらは、今年も午前9時ごろから同署新館1階の車庫に陣取り、1メートルもある大釜3基を据え付け、下準備。どじょう5キロの他、お母さん方が作った手打ちのうどん330玉とニンジン、ダイコンなど10種類を用意、じっくりと煮込んだ。本職顔負けの手際の良さで、昼前には臨時のうどん店開店となった。署員らは車庫内に漂うおいしそうなにおいに誘われ、待ちかねたように集合。早速、肌寒い中庭で、あつあつのどじょう汁に舌鼓。温かい心づくしに署員は「ぬくもりました。元気が出ます」と喜び、深夜まで及ぶ特別警戒に鋭気を養っていた。

(12月29日)

琴平署員をうどん慰問(町内の業者)

 琴平町内のうどん屋さんで作っている「こんぴらうどんの会」がこのほど琴平署を訪ね、歳末警戒中の署員に肉うどんを接待、年末年始の労をねぎらった。この日、位野木峯夫さん、谷文雄さんら会員4人が集まり、大西保夫署長ら署員52人に250玉の手打ちうどんをサービス、署員はおいしそうに何杯もお代わりしていた。

うどん関連広告の本数は3年連続減

 この年のうどん関連広告の本数は、名前だけの協賛広告も含めて164本。昭和59年から331本、216本、177本、164本と、3年連続減少しています。では、いつものように広告を出していたうどん店とうどん関連会社の一覧をどうぞ。

<県内うどん店>
【高松市・中心部】

「かな泉」(高松市大工町他)……… 26本
「川福」(高松市ライオン通)…………8本
「さぬきうどん」(高松市栗林町他) 5本
「久保製麺」(高松市番町)……………3本
「井筒製麺所」(高松市西の丸町)……3本
「源芳」(高松市番町)…………………2本
「すゑひろ」(高松市中野町)…………2本
「番丁」(高松市番町他)………………2本
「丸川製麺」(高松市中新町)…………2本
「松下製麺所」(高松市中野町)………2本
「さぬき一番」(高松市兵庫町)………1本
「上原製麺所」(高松市栗林町)………1本
「めん」(高松市中央町)………………1本
「三福」(高松市兵庫町)………………1本
「あわじ屋」(高松市丸の内)…………1本
「誠」(高松市亀岡町)…………………1本
「はやかわ」(高松市瓦町)……………1本
「こんぴらおがわうどん」(高松市番町)1本
「うどん棒」(高松市ダイエー店)……1本
「さか枝」(高松市番町)………………1本
「一代」(高松市西の丸町)……………1本
「こんぴら山」(高松市古新町)………1本 12月16日オープン

【高松市・郊外】

「さぬき麺業」(高松市松並町他)……6本
「あづま」(高松市林町)………………3本 4月6日オープン
「大島製麺」(高松市太田上町)………2本
「善や」(高松市新田町)………………1本
「古川食品」(高松市川島東町)………1本
「元」(高松市一宮町)…………………1本
「なかにし」(高松市鹿角町)…………1本
「田中松月堂」(高松市御厩町)………1本
「桃太郎館」(高松市鬼無町)…………1本
「屋島麵業」(高松市高松町)…………1本
「さぬき一番」(高松市福岡町)………1本
「中にし製麺所」(高松市松並町)……1本
「花ざかり」(高松市十川東町)………1本
「久保」(高松市十川東町)……………1本 7月4日オープン
「枡うどん」(高松市福岡町)…………1本 7月19日オープン
「ふじ沢」(高松市多肥上町)…………1本 12月28日オープン

【東讃】

「郷屋敷」(牟礼町)……………………5本
「八十八庵」(長尾町)…………………3本
「入谷製麺」(長尾町)…………………2本
「寒川」(三木町)………………………1本
「門家」(志度町)………………………1本
「権平うどん」(白鳥町)………………1本
「いろり家」(香川町)…………………1本
「山進」(香川町)………………………1本
「つるわ」(志度町)……………………1本
「いわせ」(長尾町)……………………1本 11月18日新装オープン
「若鮎」(志度町)………………………1本 12月8日オープン

【中讃】

「まごころ」(丸亀市蓬莱町)…………2本
「たぬき」(丸亀市山北町)……………2本
「小縣家」(満濃町)……………………2本
「飯野屋」(丸亀市飯野町)……………1本
「さぬき玉屋」(琴平町)………………1本
「たかや」(多度津町)…………………1本
「綾川」(綾南町)………………………1本
「和香松」(坂出市府中町)……………1本
「紀州屋」(満濃町)……………………1本 10月28日オープン

【西讃】

「将八」(観音寺市)……………………2本
「七宝亭」(観音寺市吉岡町)…………1本
「渡辺」(高瀬町)………………………1本 7月22日オープン

<県外うどん店>

「川福」(大阪市南区)…………………1本
「玉藻」(東京都新橋)…………………1本

<県内製麺会社>

「日糧」(詫間町)………………………5本
「石丸製麺」(香南町)…………………4本
「サンヨーフーズ」(坂出市西庄町)…4本
「民サ麵業」(高松市勅使町)…………4本
「藤井製麺」(三木町)…………………3本
「国方製麺所」(高松市多肥上町)……1本
「丸亀製麺」(丸亀市城西町)…………1本
「ピギー食品」(詫間町)………………1本
「東山園」(高松市木太町)……………1本
「高原通商店」(豊浜町)………………1本

<県内製粉会社>

「日讃製粉」(多度津町)………………3本
「吉原食糧」(坂出市青葉町)…………2本
「木下製粉」(坂出市高屋町)…………2本
「豊国製粉所」(観音寺市粟井町)……1本
「安田製粉」(内海町)…………………1本

<その他うどん業界>

「福井製作所」(坂出市府中町)………2本
「さぬき麺機」(高瀬町)………………1本

オープン広告は9本

「あづま」(高松市林町)…4月6日オープン
S62年広告・あづま・オープン
「久保」(高松市十川東町)…7月4日オープン
S62年広告・久保・オープン
「枡うどん」(高松市福岡町)…7月19日オープン
S62年広告・枡うどん・オープン
「渡辺」(高瀬町)…7月22日オープン
S62年広告・渡辺・オープン
「紀州屋」(満濃町)…10月28日オープン
S62年広告・紀州屋・オープン
「いわせ」(長尾町)…11月18日新装オープン
S62年広告・いわせ・オープン
「若鮎」(志度町)…12月8日オープン
S62年広告・若鮎・オープン
「こんぴら山」(高松市古新町)…12月16日オープン
S62年広告・こんぴら山・オープン
「ふじ沢」(高松市多肥上町)…12月28日オープン
S62年広告・ふじ沢・オープン

(昭和63年に続く)

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