さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.51 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る平成の讃岐うどん<平成5年(1993)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 51
  • 2022.06.06

『恐るべきさぬきうどん』第1巻発刊! 「製麺所型うどん店巡り」が“レジャーコンテンツ”として動き出すが、地元メディアはまだ静観?!

 平成元年(1989)に『月刊タウン情報かがわ』で製麺所型うどん店の“針の穴場”探訪記「ゲリラうどん通ごっこ」の連載が始まった後、それを見て讃岐うどんの“おもしろさ”に気付いた全国ネットのテレビや雑誌が少しずつ動き始めました。主な動きとしては、

●平成3年(1991)2月…女性ファッション誌『ハイファッション』の連載企画「村上朝日堂」で、村上春樹氏が「なかむら」「がもう」「山下(坂出市)」といった製麺所型うどん店をはじめとする“怪しくもおもしろい”讃岐うどんの旅を紹介。

●平成3年(1991)7月…山陽放送の『VOICE21』が国学院大学の加藤先生を招いた「うどん博士、讃岐を食す」というグルメ紀行番組で、香川県下の製麺所型うどん店を紹介。

●平成4年(1992)3月…テレビ東京が『武田鉄矢のぐるり日本三度笠』という番組で、大衆セルフ店の「さか枝」をはじめとする“町の製麺所”のうどんを紹介する。出演は武田鉄矢氏、案内人は「ゲリラうどん通ごっこ」を展開する「麺通団」。

●平成4年(1992)3月…旅行情報誌『JTB旅ノート』が、巻頭で麺通団団長・田尾和俊氏の寄稿文「観光客の知らない讃岐うどんの本当の顔」を掲載し、讃岐うどんの「大衆セルフ店」や「製麺所型店」の存在を紹介する。

…などがありますが、いずれも讃岐うどんを「おもしろい、楽しい、怪しい」というレジャーグルメ的な視点で捉えた紹介で、これまでの「歴史、文化、技術」を中心とした情報発信とは明らかに様相が変わり始めています。

 そして平成5年、「ゲリラうどん通ごっこ」を再編した単行本『恐るべきさぬきうどん』が発行され、「怪しい製麺所巡り」という“讃岐うどんレジャー”が世の中に大っぴらに(笑)紹介されることとなりました。それを受けて、ここから全国ネットの雑誌とテレビの「怪しくもおもしろい讃岐うどん巡り」の紹介が一気に加速していくわけですが、まずはそうした状況を踏まえて、平成5年のうどん関連の新聞記事を拾っていきましょう。

「県産小麦は評判が悪い」というコラムに反響

 まずは、正月に掲載された香川大学・北川博敏教授の連載コラム「グルメの哲学」から。

(1月3日)

コラム「グルメの哲学」(香川大学教授・北川博敏)

 (前略)…最も反響が大きかったのは「讃岐うどん」であった。讃岐うどんがおいしいのは讃岐産小麦の品質が良いからと信じていた方々に、「現在使われている小麦粉の9割はオーストラリア産。地元産を1割以上混ぜるとうどん屋から文句が来る」という話はショックだったようである。この問題は、このコラムが一つのきっかけになり県が動き出したし、農水省も本腰を入れているので、讃岐産の小麦で讃岐うどんを味わえる日が来るであろう。しかし、このような研究の一単位は10年であることを覚悟しなければならない。…(以下略)

 北川先生は平成3年に始まった同コラムでいきなり「県産小麦はうどん店に評判が悪い」という話を書かれ、それまで「さぬきうどん研究会」の真部先生や製麺組合を中心に主流となっていた「県産小麦は優れている、オーストラリア産小麦は風味に欠ける」という“県産小麦礼賛”の風潮に一石を投じたのですが、その後どうなったのか気になっていたところ、「過去のコラムの中で最も反響が大きかった」とのこと。想像するに、県民からの反響より、県産小麦を礼賛していた関係者の動揺や反発が大きかったのではないかと思いますが、いずれにしろ、北川先生のアクションが後の「さぬきの夢」の開発にも少なからず影響したようです。

綾南町に「うどん会館」構想が出てくる

 綾南町の藤井町長のインタビュー記事中に、「道の駅滝宮」に併設されている「綾川町うどん会館」の“ルーツ”っぽい話が出てきました。

(4月28日)

特集「シリーズまち・綾南町」…藤井町長インタビュー
伝統生かす「梅の里構想」 生涯学習へ85公民館活用 付加価値農業に力 うどん館づくりも

 (前略)…
ーー 観光面はどうですか。
藤井 かつてにぎわった天神さんの市さえさびれかけています。いま自慢できるものはない。しかし、天神さんを中心にしたうどん会館、「道の駅」構想を具体化したい。瀬戸大橋博で県外客から「うどんのことが一目でわかる資料館がない」と指摘され、橋のたもとで計画したが失敗したとも聞きました。歴史と立地条件から名乗りをあげており、業者の支援もあります。…(以下略)

 「道の駅」はこの年(平成5年)の4月に全国103カ所で同時オープンして話題になりましたが(以後、2000年頃までに一気に700カ所ぐらいに増えて2013年には1000カ所を超えました)、「道の駅滝宮」のオープンはまだ。町長が「道の駅」と「うどん会館」の構想を語っていましたが、この時点では綾南町はまだ「梅の里構想」の方が優先テーマでした。

ついに『恐るべきさぬきうどん』第1巻が発刊

 平成元年(1989)に『タウン情報かがわ』誌上で始まった「讃岐うどん針の穴場探訪記・ゲリラうどん通ごっこ」の連載が5年目に入り、それまでの連載を抜粋して再編した単行本『恐るべきさぬきうどん』の第1巻が4月に発行されました。『恐るべきさぬきうどん』は平成に起こった空前の「讃岐うどん巡りブーム」のきっかけとなった本ですが、その“本編”である「ゲリラうどん通ごっこ」のタウン誌連載がここまで5年を経過して単行本化されるということは、発行元にかなり手応えがあった、すなわち、この頃(1990年代前半)にはすでに香川県内の若者を中心に(タウン誌の読者は若者が中心ですから)「讃岐うどん巡りブーム」が起こりつつあったということです。

(5月4日)

書籍紹介/「恐るべき さぬきうどん」発刊(ホットカプセル)

 県内には、うどんが食べられる店が1000店以上あるといわれている。この中から”知られざるうどんの穴場”にスポットを当てた探訪記「恐るべき さぬきうどん」(B6判、定価1100円)がこのほど、ホットカプセル(高松市本町)から発刊された。同書は、月刊『タウン情報かがわ』に連載中の「ゲリラうどん通ごっこ」を単行本化したもので、サブタイトルは「誰も書かなかった さぬきうどん針の穴場探訪記」。うどんの食べ歩きを楽しみとする10人のグループの珍道中をつづりながら、うどん屋情報などをふんだんに盛り込み、単なる店の紹介とは一味違ったユニークな内容に仕上がっている。

 内容は、「人の接近を拒むかのごとく」(仲南町・山内)「魔法の水から輝く麺」(綾上町・山越)など、21軒の穴場食べ歩き探訪記と8つのうどんコラムで構成。各店のメニュー一覧や一言アドバイスを注記した「取材ノート」も掲載。所在地は、発見する喜びを味わってもらおうと、だいたいの位置だけを記している。

H5年広告・恐るべき讃岐うどん

 冒頭でも触れたように、これまでマスコミや識者、行政、業界関係者等から発信されてきた讃岐うどんの情報は、讃岐うどんを「郷土料理」として捉えてその「歴史」や「文化」や「技術」に関する話題や考察が中心でしたが、「ゲリラうどん通ごっこ~恐るべきさぬきうどん」のコンセプトは「楽しい、怪しい、おもしろい」というもので、讃岐うどんを「グルメレジャー」としてアプローチするという新しい視点でした。そして、そのおもしろさに気付いた全国ネットの雑誌やテレビ等々が、このあたりから「讃岐うどん巡りレジャー」を次々に取り上げていくことになるわけです。

 ちなみに、『恐るべきさぬきうどん』発行の半年後に、坂出市のお酒の量販店の「明治城」がこんな広告を出していました。

H5年広告・恐るべき讃岐うどんセット

 タイトルに「恐るべき讃岐ぴっぴ亭 ぴっぴ 讃岐うどん」と書かれ、横の枠内には「恐るべき讃岐うどんセット」と書かれていますが(画像をクリック拡大してご確認ください)、『恐るべきさぬきうどん』を発行した筆者には、こんな商品とタイアップした記憶がありません(笑)。まあ、こんなところに使われるほど本のインパクトがあったということでしょうか。

 合わせて10月に、「一日一言」のコラムが「麺通団」の活動に触れていました。

(10月14日)

コラム「一日一言」

 先日、近くのうどん屋で気になる男に出会った。人相風体、特に変わった様子はないが、持ってるものがちょっと珍しい。 うどん屋のガイドブック。カウンターの下に置いた本には付箋が何枚か。どうやら、ガイド片手のうどん屋巡り。そうか、ここはそんなに有名か、とちょっと得した気分になる。男は入ってきたまま生真面目な表情でうどんをすすり、何か考え事。そして最後の幾筋かをすすり上げると、その顔つきのままのれんをくぐって店を出た。

 讃岐は名高いうどん王国。 他所から来た人も毎日食べているうち病みつきになり、そのうち「通」になる。通になると当然、味にうるさくなり、やれどこそこの店が一番だと言い始める。こうなるとちょっと収まらない。少し昔、おいしい店百選とか、味のランキングとかの試みがあった。何しろ県下のうどん屋は3000店。味見だけでも大変だし、好みも各人各様だからどうなることやらと心配したが、案の定、異議続出で“さた止(や)み”になった。ミシュランの五つ星評価のようなランキングを期待したが、そうはいかないのもうどん王国の風土。

 唯一、地元ミニコミ誌の紹介記事などが手掛かりだが、編集者に聞くとこれもかなり難しい。 おいしくても「載せてほしくない」店もあるそうだ。理由は税務署。雑誌で人気を紹介されると「後々面倒」というらしいが、税務官も仕事だからこれは仕方がない。こうしてさまざまな理由でランク付けは阻止されてきた。 おかげで珍妙愉快なひいきの引き倒し合戦も続く。地元の『タウン情報かがわ』ではおいしいうどんを探す探偵団、略称「麺通団(めんつうだん)」を組織し、情報収集に励んでいる。 あの男は税務官だったか、それともうどん探偵だったか。

 まだ「県下のうどん屋は3000店」という表記が出てきますが(笑)、「ガイドブック」や「ランキング」、「おいしいうどん屋の情報収集」といった言葉が出てくるのを見てもおわかりのように、これまでの讃岐うどん関連記事とは明らかに方向性やテイストが変わってきています。いよいよ、「怪しい製麺所型店探訪」という“レジャー”が表立って知られ始めました。

大正時代の「夜鳴きうどん」の話が

 前年に亡くなられた香川の俳人・合田丁字路さんの紹介記事中に、大正時代の「夜鳴きうどん」の話が出てきました。

(5月8日)

連載「郷土誌の先覚」…合田丁字路(俳人)

(前略)…桜屋旅館で宿泊した文豪谷崎潤一郎のことを丁字路氏から聞いた。たぶん大正15年頃。その夜は泊り客が多くて満室に近かった。その時分、毎夜のように終列車を待たずに表戸を閉めていた。家の中では夕食の後始末と翌朝の膳立てなどで洗い番や宿屋女中たちが忙しく立ち働いていた。

 10時過ぎ、家の前に来た夜鳴きうどんを食べようと潜り戸に手をかけると、戸は外から開けられて鳥打ち帽子をかぶった一人の泊まり客らしい男が入ってきた。「泊まりたいのですが、部屋はありますか」。よく見ると既に写真では幾度か目にしている谷崎潤一郎先生である。…(以下略)

 これまでの新聞記事から、讃岐うどんの近代史として戦前は「屋台のうどん屋」が結構多く、戦後は「乾麺」が大量に流通する時代、そして昭和40年代中盤以降になって「生麺文化」が主流になってきた…という大きな流れが窺えますが、それを裏付けるような話として、大正15年頃に「家の前に夜鳴きうどんが来た」という“傍証”が出てきました。

昭和40年代後半の東京のうどん店の名前が2軒

 続いて、「ほっかほっか亭」田淵社長(白鳥町出身)の紹介記事の中に、昭和40年代後半にあったと思われる東京のうどん店の名前が2軒出てきました。

(5月9日)

連載「脱・讃岐人抄」…ほっかほっか亭総本部社長・田淵道行氏

 全国的にフランチャイズを展開している弁当業界「ほっかほっか亭」総本部社長の田淵さんは、”手袋の町”白鳥の出身。大学時代からマッサージ師をやってみたり、うどん店をやってみたり、模索を続け、ついに中退して”脱学”、今日の企業を興す。昭和52年のことだった。それから17年、今では1日に90万食を作り、店舗は全国に2200軒。年商千数百億にまで伸びた。

 …(中略)…学生時代には県人の浪越徳治郎さんの学校に入り、マッサージも学んだ。指圧のアルバイトもしたという頑張り屋だ。また、東京でうどん店を経営している「古市庵」でもアルバイトをした。古市さんはデパートの店頭でうどんを打つ実演をしていた。「これは刺激になりました」というわけで、商売にはパフォーマンスが必要ということを感じとった。

 …(中略)… 大学2年の時、友人と資本金100万円で会社をつくり、東武系ストアでうどん実演販売を始めた。この事業は友人の急死で挫折、今度は経営不振のそば屋を引き受け、うどん屋「和楽路」を開店、関西、関東両方のつゆを作った。…(以下略)

 これまで新聞に出てきた「東京の讃岐うどん店」に関する記事をまとめると、

<昭和32年>
●高松出身の喜田博さんが、早稲田大学の横で「うどん食堂・玉藻」を開業。(「開業ヒストリー/玉藻」参照

<昭和34年>
●「うどん食堂・玉藻」の喜田さんが、新宿三越で讃岐うどんの実演販売を行う。(「開業ヒストリー/玉藻」参照

<昭和38年>
●この頃、高松市出身の鈴木力男さんが東京で「讃岐食品株式会社」を経営し、都内に2、3店のうどん店を展開。鈴木さん個人の「讃岐茶屋」といううどん店も持っていた。また、「讃岐食品株式会社」から独立した社員が作った「讃岐うどん」という店も都内に5、6軒あった。四国新聞では、この鈴木さんの「讃岐茶屋」を「東京の本場(?)手打ちうどんの元祖」と記述。(「昭和38年」参照

<昭和44年>
●高松で修業した主人が銀座に「四五九」といううどん店を開業。この頃、京橋の「さぬき茶屋」、新橋の「玉藻」、日本橋の「ニュー高松」をはじめ、東京都内に60軒を超える讃岐うどん店があった。(「昭和44年」参照

…というラインナップです。この記事に出てきた「古市庵」と「和楽路」はおそらく昭和50年頃の話ですから、もう「東京の讃岐うどん店」がそれなりに定着していた時代だと思われます。

県経済連が県産小麦「ダイチノミノリ」100%使用の冷凍うどんを発売

 県経済連が、県産小麦「ダイチノミノリ」を100%使用した冷凍うどんを発売することになりました。

(8月24日)

県産小麦100%の冷凍うどん 来月から発売 コシ、うまみとも上々(県経済連)

 県経済連は、麦作振興を図ろうと県産小麦「ダイチノミノリ」を100%使用した冷凍うどんを9月1日から新たに発売する。県産(国産)小麦だけを使ったうどんの商品化は、全国でも初めて。県経済連は「県麦100%使用は色や価格などの面で商品化が難しかったが、コシ、うまみとも上々の出来。積極的な事業展開で売り上げアップを図り、麦作振興に役立てたい」と話している。

 発売するのは、手打ち風冷凍讃岐うどん「大地」。市販されている冷凍うどんは県産小麦を2~3割程度使い、残りは豪州産に依存している。豪州産は白色で、うどんの加工に適したねばりけがあるなどの利点から使用している。県経済連は、数年前から麦作振興に直結した事業展開を図るため、県麦のみを使ったうどんの開発を進めていた。製粉を豊国製粉(本社観音寺市)、加工をフジフーヅ(本社長尾町)に委託、伝統的手法の水加減や塩加減で練り上げてねばりけを引き出し、冷凍うどんに限って商品化に成功した。

 このうどんの特長について、県経済連は①うすいクリーム色②ほどよい腰の強さ③昔風味の県麦独特のうまみ④少し細め⑤検疫などの心配がなく、自然食品で安全度が高いなどと説明。価格は市販より2~3割安く、20食(1食230グラム)を2600円(消費税別)で販売する。県経済連は、県内47農協と直営のAコープ24店を通じて申し込みを受け付け、宅配便で全国販売する。11月には店舗向けに5食入りの発売を予定しており、年間14万4000箱(1箱20食)、約3億7000万円の売り上げを見込んでいる。

 記事には「県経済連」とありましたが、「JA香川経済連」のことです。県内の麦作振興を目的として開発したようですが、残念ながら大ヒットには至りませんでした。「ユーザーのニーズ」より「使いたい原材料」を優先すると、どうしてもそうなりますね。

H5年広告・JA「大地」

「モロヘイヤうどん」はまだ健在

 平成元年に綾歌町岡田農協婦人部で試作された「モロヘイヤうどん」(「平成元年」参照)が、「あやうたふるさとまつり」で振る舞われていました。

(11月17日)

モロヘイヤうどん好評(綾歌・JA岡田ふれあい市)

 農家の主婦が朝どりの新鮮な野菜や果物、花などを持ち寄り、毎週金曜日に農協ふれあい館で販売しているJA岡田のふれあい市が7日、綾歌町の「あやうたふるさとまつり」の会場で開かれ、町の特産品であるモロヘイヤの粉末を使った「モロヘイヤうどん」の試食会が行われました。採れたての小イモ、ニンジン、ダイコンなどをふんだんに使い、しっぽく風に仕立てた色どり豊かな「モロヘイヤうどん」は、お年寄りから子供たちまで好評で、用意された約400食はあっという間に売り切れました。

 こちらは「モロヘイヤの全県的普及」などという大きな目的を掲げずに、「楽しいアトラクション」としてお楽しみいただいているようです(笑)。

「讃岐うどんシンポ’93」開催

 「讃岐うどん」をメインテーマにした初めてのシンポジウムが開かれました。 

(11月21日)

世界に広めよう「さぬきうどん」 高松で初のシンポ 講演やパネルディスカッション 250人が食文化考える

 香川の食文化の代表である「さぬきうどん」を海外にも広めようという大きな狙いを持った初の「さぬきうどんシンポ’93」(県、同実行委主催、四国新聞社など後援)が20日、高松市番町の高松商工会議所会館で開かれた。シンポは、基調講演、さぬきうどんの特徴を紹介するビデオ上映、パネルディスカッションの3部構成。会場に詰めかけた約250人とともに讃岐が誇る食文化について考えた。

 「日本粉食文化論・麺と日本人」と題して講演した加藤有次国学院大学教授は、うどんのルーツを紹介しながら「中国から伝わった技法が、日本の風土の中で人々の知恵と工夫により独創的な食文化を形成してきた。この文化を世界にも広げていかなければならない」と問題提起。これを受け、随筆家の北條令子さんや「食の匠」の香川政義さんら5人がパネルディスカッション。原料小麦を輸入に頼っている現状に「せめて讃岐の手打ちうどんは地元の粉を」などと提案した。また、会場からも発言があり、讃岐うどんを研究しているタイの女性は「国に帰ってうどんを打ってみたい」と、国際交流に新たな展開が見られた。

 このシンポジウムには、筆者も『恐るべきさぬきうどん』の発刊者として呼ばれて出席していました。一介のタウン誌編集長がこういう学術的な催しに呼ばれるということは、それなりに『恐るべきさぬきうどん』にインパクトがあったのだろうと思いますが、シンポジウムはほぼ讃岐うどんの歴史や文化の話に終始し、新聞記事にも北条玲子さんと香川政義さんの名前だけが載っていました(笑)。「讃岐うどん巡りレジャー」は県下若者文化的にはすでにかなり動いていたのですが、業界関係者や識者、マスコミといった“権威筋”にはまだそれほど認知されていなかった時代です。

「山内うどん」が新聞で初めて紹介される

 後の讃岐うどん巡りブームで超人気店となる仲南町の「山内うどん」が、新聞で初めて紹介されていました。

(7月2日)

昔ながらの製法 素朴な味が人気 仲南・うどん店主山内さん 山里離れた名店 遠くは宮城からも来店

 2日は「さぬきうどんの日」。この日を半夏(はんげ)と呼んで農作業を休み、うどんを食べていた農家の習慣や県人のうどん好きなどから13年前、県と県生麺事業協、四国新聞社の3者が定めました。その生産量が全国第1位で、うどん専門店の数も約600という本県ですが、仲南町にもおいしいうどん屋さんが幾つかあります。

 その一つ、同町大口の小高い山の上の一軒家、野鳥のさえずりも聞こえる隠れた名店「やまうち」では、店主の山内敏幸さん(50)と奥さんの多津子さんが二人三脚。山の水で地粉を練り、足で踏み鍛えて、麺棒でのばし、包丁で切って薪で炊きます。できたばかりのうどんに煮干しや昆布、カツオブシで作った昔風のだし汁を添えるだけ。昔ながらの製法を守る素朴な味が人気です。近くの常連客はもとより、毎週、与島町から瀬戸大橋を渡ってくる親子連れや、宮城県など遠く県外から訪れる人もあり、にぎわいを見せています。5月には、こんぴら歌舞伎に出演中の中村橋之助さんが三田寛子夫人と来店、おいしい”仲南うどん”に舌鼓を打ったとか。自家栽培をしたネギの皮を取りながら山内さんは「山の中の小さな店ですが、この景色とうどんの味を楽しみに来てくれるのがうれしい」と話していました。

 「山内うどん」は、4月に発刊された『恐るべきさぬきうどん』の第1話で紹介された店で、おそらくそれがきっかけで新聞の取材が入ったのだと思われますが、「おいしいうどん屋さん」「昔ながらの製法を守る素朴な味が人気」といった紹介記事を見る限り、新聞ではまだ山内の“怪しさ大爆発の探訪レジャー”という視点が受け入れられてないようです(笑)。

加ト吉の「冷凍讃岐うどん」の世界展開

 続いて、「加ト吉の冷凍讃岐うどんが世界に広がっている」という記事が載っていました。

(11月23日)

今や日本食文化の代表、さぬきうどん “本場の味”冷凍、年間100万食輸出(加ト吉)

 弘法大師によって中国からもたらされたといわれる、うどん。そして千余年、香川の息吹を加えた「さぬきうどん」が世界を駆ける。うどんは近年、欧米で「ジャパニーズ・ヌードル」として人気が上昇。すし、テンプラなどとともに、日本の食文化の代表品として受け入れられている。輸出のうどんは、日持ちがして、いつでも新鮮なものを食べられるという利点を持つ冷凍食品。11年前に初めて製品化にこぎつけた冷凍食品会社の加ト吉によると、昨年は商社などを通じて全生産の約4%に当たる約100万食を輸出。県内の工場で生産された「本場の味」が詰め込まれている。

 輸出数はここ数年、飛躍的に伸びているという。輸出先は主にアメリカのニューヨーク、シカゴ、ハワイ、西海岸の主要都市の他、ヨーロッパ、東南アジアまで広がっている。対象は邦人への市販や日本食店などへの業務用。「冷凍さぬきうどん」の名称で輸出しているため、海外でも「さぬき」の言葉に巡り合えることができるという。実際、加藤義和同社会長が一昨年、パリの日本料理店に立ち寄った時、メニューにあったうどんを注文。食べた瞬間、自社製品と分かり、「涙が出るほどうれしかった」と感無量の様子。また、ニューヨークのヤオハンで商品を見掛けた知人からも、感動の電話があったという。

 同社は現在、香港で合弁会社を設立、現地で年間約10万食を製造販売。オーストラリアでも合弁会社を設立する話が持ち上がっている。「日本では約100円のものが、外国では約400~500円で売られている。今後も現地工場を設立することになるだろう」と、意欲をみせる。香川の地で培われた技術とノウハウを生かした「さぬきうどん」。「小麦や粉だけでなく、ゆでる釜の大きさもポイント」と、加藤会長。世界に認められつつあることについては「おいしいものは世界共通」。”さぬきの味”が世界の味に。おいしさの追求はいつまでも続けられる。

 「11年前に初めて製品化にこぎつけた」とありますから、1982年に「冷凍うどん」が商品化されたということでしょうか。いずれにしろ、「加ト吉の冷凍讃岐うどん」は、海外への讃岐うどんの知名度アップに最初に貢献した一大功労者であることは間違いありません。

「長尾のどじょう汁」がついに登場

 長尾町の造田で、「造田ドジョウ汁味くらべ大会」が開催されました。

(7月26日)

讃岐の味覚に舌鼓 造田どじょう汁味くらべ大会 汗だくで調理に取り組む(長尾)

 郷土料理を競う「造田どじょう味くらべ大会」(長尾町造田地区コミュニティー協議会など主催、四国新聞社後援)が25日、同町のJR造田駅前広場であり、約600人が讃岐の味に舌鼓を打った。本来は地域ごとに釜を据えての野趣豊かな夏の味覚だが、今回は初めて11団体が一堂に会して伝統の味付けを披露した。

 約8アールの同広場で造田地区内の各グループ約110人は11基のガスや薪釜を作って11の大鍋に湯をたぎらせた。その中に合わせて30キロのドジョウ、季節の野菜を入れ、煮えた頃を見計らって味噌で味付けし、減塩手打ちうどんを打ち込んだ。賞味する人は「これぞ本場の味」と舌鼓。約1000食を30分でたいらげる盛況ぶり。

 11グループの出来具合を高松市内の久保弘子料理学院長、小西長尾町長らが審査した。味の付け方、ドジョウの調理の仕方、見栄えなどをチェックして「どじょう汁の地域一番」を選んだ。…(中略)…表彰式の席上、同コミュニティー協議会の松原壮典会長、味くらべ大会実行委員会の笠井繁雄委員長が「どじょう汁は地域のふれあいの中から生まれた。この大会を契機に地域おこしに取り組もう」とあいさつした。…(以下略)

 これまでの新聞に出てきた「ドジョウ汁(ドジョウうどん)の盛んな地域」は、昭和30年代の仏生山(「昭和43年」参照)、昭和50年代終盤に「ドジョウ汁の里」構想を打ち出した綾上町(「昭和57年」等参照)、昭和61年に「ドジョウ汁日本一大賞」を始めた飯山町(「昭和61年」参照)というラインナップでしたが、後に「讃岐のドジョウ汁の本場」的なイメージを確立する長尾町(現さぬき市)が、ようやく出てきました。大会実行委員長が「この大会を契機に地域おこしに取り組もう」と挨拶していますから、平成5年の「造田どじょう味くらべ大会」が今のさぬき市の“ドジョウ汁プロモーション”の出発点だったようです。

定番行事は例年通り開催

 うどん関連の定番イベントや行事は、この年も以下の概要で予定通り行われました。

●5月12日…「さぬきうどん品評会」(農林水産大臣賞は「カガワ食品」)
●5月14日…「丸亀お城まつり・うどん早ぐい競争」
●7月2日~10日…「さぬきうどんまつり&さぬきうどんラリー」
●8月14日…「高松まつり・さぬきうどん早ぐい選手権大会」
●11月20日…「飯山おじょもまつり・どじょう汁大会」

<東四国国体でうどんの大盤振る舞い>

 9月5日~10月29日にかけて香川と徳島で開催された東四国国体(夏・秋大会)で、全国から集まった参加選手たちに讃岐うどんが大量に振る舞われたようです。

(9月4日)

東四国国体 うどん連日4500食 8種の銘菓もたっぷり(高松市)

 「33万市民総参加」を合言葉に、県都挙げての歓迎態勢を整え、全国から訪れる選手・役員らを温かく迎える。今日4日から2日間、中央公園で歓迎イベント「’93おいでマインドフェスティバル」を開催。ショーや軽スポーツ、特産品の即売など多彩な催しで高松でのふれあいを楽しんでもらう。主会場の県立総合プールと水球会場の高松南高、JR高松駅前の3ヶ所に休憩所を設置。競技2会場では打ち立ての讃岐うどんを連日4500食、国体銘柄キヌヒカリの新米のおにぎり1500食の他、高松の銘菓8種類など讃岐の味をたっぷりふるまう。…(以下略)

(9月6日)

心温まるさわやか接待 うどん人気の的 5800食もすぐ”売り切れ”

 「本場の讃岐うどんを味わって」。高松、坂出両市は5日、選手、役員らに5800食のうどんを無料サービスしたが、すぐに”売り切れ”になるほどの大好評。うどんは県立総合水泳プールが3000食、水球会場の高松南高プール1500食、府中湖カヌー会場は1300食を用意した。高松南高プールのテント休憩所では、うどん専門店の店員5人が手打ちの作業。女性の市民協力員25人が午前10時半から接待した。正午頃には長蛇の列。午後2時頃には1500食の「かけうどん」がすべて”売り切れ”た。「シコシコした歯ごたえ、薄口の香りのだしのうまさは絶品」(静岡県の選手)、「きしめんと同じようにうまい」(愛知県の応援者)と評判も上々。接遇者も「腹がおきて(満腹)いても、うどんは別腹」と上手に讃岐うどんをPR。

 讃岐うどんは府中湖カヌー場でも人気の的。地元婦人会の23人が5つの大釜をしつらえ、接待に大わらわ。休憩用テントはやや高台にあり、湖面から吹き上げてくるさわやかな風に包まれて味わううどんののど越しは格別。食べざかりの高校生選手はレースの前に一杯、レースが終わったらまた一杯、用意した1300食がみるみる底をついた。「朝早くから準備したかいがありました」と世話役の国重幸子さん。接待メニューは日替わりで、6日は名物の「天狗汁」を振るまう。

 まずは、開会前日から高松市中央公園で「’93おいでマインドフェスティバル」という歓迎イベントが行われ、続いて競技会場の県立総合水泳プール、高松南高プール、府中湖カヌー会場で、選手たちに連日数千食の讃岐うどんが振る舞われました。その結果、こんなことまで起こったようで…

(9月8日)

リサイクル都市の心意気”複雑” うどん鉢「約半分消えた」 でも人気のバロメーター

 「リサイクルに取り組んでいる都市が、発泡スチロールのごみを出すわけにはいかない」。高松市がこんな心意気で取り組んだ国体用のうどん鉢が中身のうどんに匹敵する人気を集めている。「記念グッズ」として持ち帰る人が多く、3日間で半数が消えた。「これも好感度のバロメーター。つらくもあり、といったところでしょうか」。係員も苦笑いだ。

 このうどん鉢は、メラミン樹脂製。丈夫で軽く、陶器に似た質感があるのが特徴。国体などのイベントでは、発泡スチロール製の使い捨て容器を使うのが普通だが、トレー問題などで同スチロールの追放に協力している市が「隗(かい)より始めよ」と手間を覚悟で導入した。鉢には、東四国国体のシンボルマークやマスコットのオリーブくんがデザインされており、これが格好の「記念グッズ」。初日から主会場の県立総合水泳プールだけで300個余りが返ってこない異変が起きた。3日間でその数700個。用意した1500個の半分、1個1000円が原価というから、計70万円が消えた勘定だ。「ある程度は覚悟していましたが、これほどとは」と市国体事務局の職員。7日には予備の500個を慌てて補充した。「困ったなあとは思うけど、タレントのポスターと同じで、人気の証拠。考えようでうれしいじゃないですか」とはボランティアの婦人会員。

H5年記事・国体記念うどん鉢

 ミス高松が両手に持っているのが、国体のうどん接待用に作られたメラミン樹脂製のどんぶり鉢。ちょっと見にくいですが、「東四国国体」とプリントされて「限定グッズ」みたいになっていたようです。オークションサイトなんかに出てないですかね(笑)。

さぬきうどん研究会の真部会長が「麺文化振興財団」の設立を提言

 讃岐うどん研究会会長の真部先生が、コラムで研究会の考え方や活動について述べられていました。当時の状況を知るために、小分けにして確認しておきましょう。

(8月2日)

「月曜随想」/うどんで国際交流(真部正敏・香川大学農学部教授、さぬきうどん研究会長)

 奈良時代かその少し前に中国から伝来した麺食文化は、大和の国から全国に広がっていった。元禄、享保の頃にはすでに、うどんを商う店が江戸、京、大阪、琴平などに現れている。讃岐は早くからうどん文化の先進地として発達してきたのである。現在、秋田の稲庭うどん、群馬の水沢うどん、山梨のほうとう、名古屋のきしめん、大阪のうどん、讃岐のうどん、福岡の筑紫うどんは全国にその名が知られている。とはいえ、讃岐うどんほど話題にこと欠かないうどんも珍しい。

 前年の新聞記事で、讃岐うどん研究会が発行した小冊子に「うどんの誕生は室町時代」とあったとのことですが、今度は「奈良時代かその少し前に中国から伝来した麺食文化」という記述が出てきました。当初は「空海由来」という話が主流でしたが、根拠の曖昧なまま、“諸説”がだんだん迷走し始めているようです(笑)。
 ちなみに、「秋田の稲庭うどん」、「群馬の水沢うどん」、「山梨のほうとう」、「名古屋のきしめん」、「大阪のうどん」、「讃岐のうどん」、「福岡の筑紫うどん」の7つが全国に名の知れたうどんだそうです。今日全国に名の知れている「埼玉の加須うどん」や「富山の氷見うどん」「静岡の吉田うどん」「長崎の五島うどん」等々は挙げられておらず、あまり知られていると思えない「福岡の筑紫うどん」なるものが入っていますが、当時はそういう勢力図だったのでしょうか。

 なぜ、讃岐に特色あるうどん文化が生まれたのだろうか。理由の第一は、それを醸成する地理的条件に恵まれていたことである。すなわち、米の裏作として良質の小麦が穫れたこと、瀬戸内沿岸で良質の塩・イリコが獲れたこと、環境が醤油づくりに適していたことなどがあげられる。これらは気候・風土からもたらされた天の恵みにほかならない。

 昔から香川でうどん文化が発展した理由として「うどん作りに必要な小麦、塩、醤油、イリコがあった」とよく言われます。全国にはそのあたりの原材料が豊富な地域が他にもあったかもしれませんし、それらが全部揃ってなくても“うどん処”になった地域もありそうなのですが、特に異論も出てこずに、そのまま定説のようになっています。

 讃岐のうどん文化を、今後とも健全に伸ばしていくためには、県民の支援を得て、文化的活動を、より高めていくことにある。麺の研究所や文化会館の設立、国内・国際麺フォーラムの開催、もろもろの活動を図るための、麺文化振興財団の設立などを進めてはいかがであろう。今日は、うどんの生産量のみを誇示することなく、文化面での整備、拡充が望まれる。

 県農林水産部は数年前から、シンガポールとか香港で県特産品のPR活動を展開している。うどんや魚は現地人にも受けているようだ。国際化時代に対応する積極姿勢がこの取り組みに表れており、21世紀に向けてのタイムリーな企画といえる。われわれは、讃岐うどんの商品輸出と合わせて、文化輸出も考えてみたいものである。…(以下略)

 讃岐うどんの発展のためには麺の研究所や文化会館の設立、国内・国際麺フォーラムの開催等々の「文化的活動」が必要で、それらを行うために「麺文化振興財団を設立してはどうか」というご提案。讃岐うどんに対して文化的アプローチを進めるさぬきうどん研究会は、行政や関係団体と連携して、その活動にますます権威が増しているようです。

うどんによる交流や接待、慰問の紹介記事も数十本

 うどんによる交流や接待、慰問の紹介記事は、この年もさらに増えて35本を数えました。その内容は毎年同じようなものなので、とりあえず「県下全域で盛んに行われている」とまとめておきます。

うどん関連広告は2年連続370本以上

 前年に突然378本に急増したうどん関連広告は(それまでは200本前後で推移)、この年も374本を数え、オープン広告も4本見つかりました。

<県内うどん店>
【高松市】

「かな泉」(高松市大工町他)……… 28本
「さぬき麺業」(高松市松並町他)… 18本 12月6日兵庫町本店オープン
「さぬきうどん」(高松市栗林町他) 14本

「川福」(高松市ライオン通)…………8本

「久保製麺」(高松市番町)……………6本
「さか枝」(高松市番町)………………6本
「丸山製麺」(高松市宮脇町)…………6本
「すゑひろ」(高松市中野町)…………6本
「秀」(高松市八坂町)…………………6本
「川島ジャンボうどん」(三谷町)……6本

「井筒製麺所」(高松市西の丸町)……5本
「丸川製麺」(高松市中新町)…………5本
「誠」(高松市亀岡町)…………………5本
「松下製麺所」(高松市中野町)………5本
「大島製麺」(高松市太田上町)………5本
「田中」(高松市木太町)………………5本
「元」(高松市一宮町)…………………5本
「なかにし」(高松市鹿角町)…………5本
「中北」(高松市勅使町)………………5本
「嘉の家」(高松市小村町)……………5本
「花ざかり」(高松市十川東町)………5本

「番丁」(高松市番町他)………………4本
「えびすや」(高松市番町)……………4本
「あわじ屋」(高松市丸の内)…………4本
「大圓」(高松市今里町)………………4本
「田舎家」(高松市田村町)……………4本
「イエロー&ホワイト」(高松市春日町)4本
「讃岐びっくりうどん」(高松市伏石町)4本

「源芳」(高松市番町)…………………2本
「三福」(高松市兵庫町)………………1本
「一代」(高松市西の丸町)……………1本 12月3日オープン
「田舎人」(高松市観光町)……………1本 花園店7月14日オープン
「讃岐っ子」(高松市松島町他)………1本
「水車」(高松市栗林町)………………1本
「馬渕製麺所」(高松市太田下町)……1本
「糧園」(高松市勅使町)………………1本
「古里」(高松市春日町」………………1本
「桃太郎館」(高松市鬼無町)…………1本
「北山うどん」(高松市鬼無町)………1本
「ヨコクラうどん」(高松市鬼無町)…1本

【東讃】

「郷屋敷」(牟礼町)……………………6本
「寒川」(三木町)………………………6本
「吉本食品」(大内町)…………………5本
「山進」(香川町)………………………5本
「味路」(庵治町)………………………4本
「十河製麺」(三木町)…………………4本
「八十八庵」(長尾町)…………………2本
「雲海」(志度町)………………………1本
「権平うどん」(白鳥町)………………1本
「しど路」(志度町)……………………1本
「門家」(志度町)………………………1本
「源内」(志度町)………………………1本
「入谷製麺」(長尾町)…………………1本
「野田屋」(長尾町)……………………1本

【中讃】

「小縣家」(満濃町)……………………7本
「まごころ」(丸亀市蓬莱町)…………6本
「たかや」(多度津町)…………………6本
「大木屋」(多度津町)…………………5本
「カガワ食品」(善通寺市文京町)……5本
「讃岐うどん坊」(坂出市SATY内) …5本
「上原製麺所」(坂出市室町)…………5本
「木村うどん」(飯山町)………………4本
「サヌキ食品」(綾歌町)………………3本
「日の出製麺」(坂出市富士見町)……1本
「いきいきうどん」(坂出市京町)……1本
「金山奉行」(坂出市)…………………1本
「あれんじ亭」(丸亀市大手町)………1本

【西讃】

「将八」(観音寺市出作町)……………7本 12月18日新装オープン
「かなくま餅福田」(観音寺市流岡町)5本
「だるま食品」(財田町)………………2本
「六ッ松亭」(高瀬町)…………………1本
「うどん太郎」(観音寺市植田町)……1本
「上杉食品」(豊中町)…………………1本
「渡辺」(高瀬町)………………………1本
「讃岐亭」(高瀬町)……………………1本

<県外うどん店>

「大阪川福」(大阪市南区)……………1本
「めん坊フーズ」(京都市上京区)……1本

<県内製麺会社>

「藤井製麺」(三木町)…………………7本
「石丸製麺」(香南町)…………………6本
「サンヨーフーズ」(坂出市西庄町)… 5本
「日糧」(詫間町)………………………4本
「久保田麵業」(綾歌町)………………2本
「大喜多製粉所」(宇多津町)…………1本
「合田平三商店」(豊浜町)……………1本
「岩田製麺所」(観音寺市)……………1本
「香西食品」(観音寺市池之尻町)……1本
「紀州屋」(観音寺市柞田町)…………1本
「大峰麵業」(土庄町)…………………1本
「植田製麺所」(高松市仏生山町)……1本
「大庄屋」(琴平町)……………………1本

<県内製粉会社>

「木下製粉」(坂出市高屋町)…………3本
「吉原食糧」(坂出市青葉町)…………2本
「日讃製粉」(多度津町)………………1本
「豊国製粉所」(観音寺市粟井町)……1本
「安田製粉」(内海町)…………………1本

<その他うどん業界>

「加ト吉」(観音寺市観音寺町)…… 12本
「香川県生麺事業協同組合」……………5本
「マルヨシセンター」……………………2本
「福井工作所」(坂出市府中町)………2本
「ピギー食品」(詫間町)………………1本
「さぬき麺機」(高瀬町)………………1本
「サンクスプラザ川福」…………………1本
「JA香川」……………………………… 1本
「明治城」(坂出市本町)………………1本

●「田舎人」花園店(高松市観光町)…7月14日オープン

H5年広告・田舎人オープン

●「一代」(高松市西の丸町)…12月3日オープン

H5年広告・一代オープン

●「さぬき麺業」兵庫町本店(高松市松並町他)…12月6日オープン

H5年広告・さぬき麺業兵庫町オープン

●「将八」(観音寺市出作町)…12月18日・新装オープン

H5年広告・将八オープン

●合わせて、「かな泉」の広告を2本紹介しておきます。

H5年広告・かな泉・めんの国体

H5年広告・かな泉・国際饂飩

 以前にも触れたように、四国新聞に載っているうどん関連広告の大半は小さい枠ものの協賛広告で、数少ない単独の広告もほとんどがあまりデザインアップされていないのですが、唯一、「かな泉」の広告だけがいつもこんな感じで頑張っていました。やはり「かな泉」は、その事業規模だけでなく、店舗作りから広告まで、群を抜いた「讃岐うどん界の王者」でした。

(平成6年に続く)

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